第10話 本物の朝
夜明けの寝台で、私は目覚めた。
カーテンの布の隙間から、薄い光が床に落ちていた。初夏の光だった。
隣に人の気配はなかった。
寝台の片方だけがわずかに温まっていた。コンラート様は夜明け前にはもう起きていたらしい。この家の主の朝は早いと、昨日、家政婦の古い女が言っていた。朝の領地の音を彼は自分の耳で聞いていたいのだろうと。
私は寝台から体を起こした。
絹の寝間着の裾が、膝の上で滑った。王都の借家では麻の寝間着しか持たなかった。絹はまだ肌に慣れなかった。
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館の食堂は、階下の奥にある。
回廊を歩いていくと、朝の館の匂いがした。薪の匂い、焼けた麦の匂い、それから紅茶の茶葉の匂い。屋敷の台所からすでに湯が沸かされている気配があった。
回廊の先で、コンラート様が食堂の前に立っていた。
書類を手にしていた。領地の代官からの早朝の報告らしかった。私に気づくと、書類を小脇に挟んで背筋を伸ばした。
「おはよう、イルゼ」
「――おはようございます」
名で呼ばれることに、私はまだ慣れない。慣れないけれど、慣れないままでもいいと思っている。慣れてしまえば、呼ばれるたびの、あの胸の奥の小さな音が、聞こえなくなってしまう。
「朝食を、共にできますか」
「もちろんでございます」
彼は食堂の扉を開けて、私を先に通した。
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食堂の卓の上に、湯気の立つカップが並んでいた。
白い陶器のカップ。素朴な細工。
王宮大聖堂の祭礼の豪華とはおよそ逆の器だった。コンラート様が自分の領地の朝食に、このあたりの土地の焼き物を使う人だということを、私はまだ知らなかった。
家政婦の古い女が、朝食の皿を運んできた。
「旦那様、奥様。朝食をおとどけいたします」
「奥様」と呼ばれた。
私は頷いただけで、返事らしい返事ができなかった。古い女はこちらの返事を待たずに下がっていった。気を利かせてくれているのだと、後から気づいた。
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「イルゼ」
コンラート様が、私の紅茶のカップの方に、わずかに顎を向けた。
「お試しいただけますか」
「紅茶、でございますか」
「ええ」
私はカップを持ち上げた。湯気が顔のあたりを撫でた。
口に含んだ。
――あ。
小さな声が、漏れかけた。
砂糖は入っていない。ミルクは薄くごく控えめに混ぜてある。香りには、べつの柑橘の油が加えられていない。そして茶葉の渋みの出方が、ほんの少しだけゆっくりだった。
私が王都の借家で淹れていた、朝の紅茶だった。
正確には、それ以前。嫁いでいた頃、屋敷の書庫の隅で夜明け近くに、誰にも知られず淹れていた紅茶の出方だった。
私はカップを持つ指先をしばらく動かせなかった。
「……どうして、ご存知なのでしょうか」
コンラート様は自分のカップに砂糖を入れていた。彼の紅茶は私よりもかなり甘い。甘いものを好むのは、堅物のこの人の知られざる性質だった。
「屋敷の書庫には、吹き抜けの上の廊下がございます。私は法典の書架を借りに、よくあの廊下へ足を運んでおりました」
彼はカップを軽く撫でて続けた。
「寝付けない朝にも、法典を探しに書庫の階上へ降りていきました。その頃、下の階から、湯の沸く音が上がってきたことが、幾度かございました」
私はカップを置いた。
置かないと手が震えそうだった。
「……見ていらしたのですか」
「見ていたというほどでは、ございません。下の階の灯りと、湯の音と、ひそやかな紙をめくる音。階上を通るとき、それが耳に入りました。貴女の朝の時間を侵さないように、足を速めるのが私のならいでございました」
彼の声は弁解の色を帯びていなかった。事実としてそう述べていた。
「ミルクの湯気の匂いも、柑橘の油の瓶を戻される音も、紙をめくる調子も、階上を行き来するあいだに、ゆっくりと耳に入っておりました」
「……」
「知らず識らず覚えてしまったことを、いまさら詫びるのも、ずるい気がいたします」
彼はそこで目を伏せた。
「貴女が知らないところで、貴女の朝の気配を、覚えておりました」
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私は卓の上に指を置いた。
指輪が指の上でわずかに光っていた。
屋敷にいた頃、私が誰にも気づかれずに淹れていたと思っていた紅茶。その淹れ方の気配を、階上の廊下を行き来していた堅物の若い義弟が、耳と鼻で拾っていた。拾って覚えていた。覚えて、長い年月を胸の奥に仕舞っていた。そして今朝、私の隣の席で、同じ淹れ方の紅茶を差し出している。
屋敷にいたあいだ、私は自分の存在が誰にも気づかれていないのだと信じていた。
信じていたからこそ、私は屋敷のなかで、自分を薄くしていった。
けれど、誰かが気づいていた。
気づいていても声をかけられなかった人が、屋敷のなかに、いた。
私は自分の肩がこの朝、完全に下りたのを感じた。
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「……コンラート様」
「はい」
「ありがとうございます」
「お茶の、ことでございますか」
「はい」
「――いえ」
私は首を振った。
「お茶の、ことでございます。そして、紙の、ことでございます。そして、ハンカチの、鷹の、ことでございます」
コンラート様は少し笑った。
笑った顔を、私はそこで見た。
堅物の顔が笑うと、目尻のあたりが少しだけ柔らかい線を描くのだと、私はその朝、知った。
「――本物の妻として、おはようございます、イルゼ」
彼は改めてそう言った。
私はカップを両手で包んだ。
「おはようございます、旦那様」
窓の外で、初夏の領地が朝の光を静かに浴びていた。
麦の畑の向こうに、小さな川があった。川の面に朝日が白く砕けていた。
私は長く失っていた朝を、やっと始めた。




