表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉の身代わりで嫁ぎ、離縁されました。今度こそ本物の妻として嫁ぎます。  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

第10話 本物の朝


夜明けの寝台で、私は目覚めた。


カーテンの布の隙間から、薄い光が床に落ちていた。初夏の光だった。


隣に人の気配はなかった。


寝台の片方だけがわずかに温まっていた。コンラート様は夜明け前にはもう起きていたらしい。この家の主の朝は早いと、昨日、家政婦の古い女が言っていた。朝の領地の音を彼は自分の耳で聞いていたいのだろうと。


私は寝台から体を起こした。


絹の寝間着の裾が、膝の上で滑った。王都の借家では麻の寝間着しか持たなかった。絹はまだ肌に慣れなかった。


-----


館の食堂は、階下の奥にある。


回廊を歩いていくと、朝の館の匂いがした。薪の匂い、焼けた麦の匂い、それから紅茶の茶葉の匂い。屋敷の台所からすでに湯が沸かされている気配があった。


回廊の先で、コンラート様が食堂の前に立っていた。


書類を手にしていた。領地の代官からの早朝の報告らしかった。私に気づくと、書類を小脇に挟んで背筋を伸ばした。


「おはよう、イルゼ」


「――おはようございます」


名で呼ばれることに、私はまだ慣れない。慣れないけれど、慣れないままでもいいと思っている。慣れてしまえば、呼ばれるたびの、あの胸の奥の小さな音が、聞こえなくなってしまう。


「朝食を、共にできますか」


「もちろんでございます」


彼は食堂の扉を開けて、私を先に通した。


-----


食堂の卓の上に、湯気の立つカップが並んでいた。


白い陶器のカップ。素朴な細工。


王宮大聖堂の祭礼の豪華とはおよそ逆の器だった。コンラート様が自分の領地の朝食に、このあたりの土地の焼き物を使う人だということを、私はまだ知らなかった。


家政婦の古い女が、朝食の皿を運んできた。


「旦那様、奥様。朝食をおとどけいたします」


「奥様」と呼ばれた。


私は頷いただけで、返事らしい返事ができなかった。古い女はこちらの返事を待たずに下がっていった。気を利かせてくれているのだと、後から気づいた。


-----


「イルゼ」


コンラート様が、私の紅茶のカップの方に、わずかに顎を向けた。


「お試しいただけますか」


「紅茶、でございますか」


「ええ」


私はカップを持ち上げた。湯気が顔のあたりを撫でた。


口に含んだ。


――あ。


小さな声が、漏れかけた。


砂糖は入っていない。ミルクは薄くごく控えめに混ぜてある。香りには、べつの柑橘の油が加えられていない。そして茶葉の渋みの出方が、ほんの少しだけゆっくりだった。


私が王都の借家で淹れていた、朝の紅茶だった。


正確には、それ以前。嫁いでいた頃、屋敷の書庫の隅で夜明け近くに、誰にも知られず淹れていた紅茶の出方だった。


私はカップを持つ指先をしばらく動かせなかった。


「……どうして、ご存知なのでしょうか」


コンラート様は自分のカップに砂糖を入れていた。彼の紅茶は私よりもかなり甘い。甘いものを好むのは、堅物のこの人の知られざる性質だった。


「屋敷の書庫には、吹き抜けの上の廊下がございます。私は法典の書架を借りに、よくあの廊下へ足を運んでおりました」


彼はカップを軽く撫でて続けた。


「寝付けない朝にも、法典を探しに書庫の階上へ降りていきました。その頃、下の階から、湯の沸く音が上がってきたことが、幾度かございました」


私はカップを置いた。


置かないと手が震えそうだった。


「……見ていらしたのですか」


「見ていたというほどでは、ございません。下の階の灯りと、湯の音と、ひそやかな紙をめくる音。階上を通るとき、それが耳に入りました。貴女の朝の時間を侵さないように、足を速めるのが私のならいでございました」


彼の声は弁解の色を帯びていなかった。事実としてそう述べていた。


「ミルクの湯気の匂いも、柑橘の油の瓶を戻される音も、紙をめくる調子も、階上を行き来するあいだに、ゆっくりと耳に入っておりました」


「……」


「知らず識らず覚えてしまったことを、いまさら詫びるのも、ずるい気がいたします」


彼はそこで目を伏せた。


「貴女が知らないところで、貴女の朝の気配を、覚えておりました」


-----


私は卓の上に指を置いた。


指輪が指の上でわずかに光っていた。


屋敷にいた頃、私が誰にも気づかれずに淹れていたと思っていた紅茶。その淹れ方の気配を、階上の廊下を行き来していた堅物の若い義弟が、耳と鼻で拾っていた。拾って覚えていた。覚えて、長い年月を胸の奥に仕舞っていた。そして今朝、私の隣の席で、同じ淹れ方の紅茶を差し出している。


屋敷にいたあいだ、私は自分の存在が誰にも気づかれていないのだと信じていた。


信じていたからこそ、私は屋敷のなかで、自分を薄くしていった。


けれど、誰かが気づいていた。


気づいていても声をかけられなかった人が、屋敷のなかに、いた。


私は自分の肩がこの朝、完全に下りたのを感じた。


-----


「……コンラート様」


「はい」


「ありがとうございます」


「お茶の、ことでございますか」


「はい」


「――いえ」


私は首を振った。


「お茶の、ことでございます。そして、紙の、ことでございます。そして、ハンカチの、鷹の、ことでございます」


コンラート様は少し笑った。


笑った顔を、私はそこで見た。


堅物の顔が笑うと、目尻のあたりが少しだけ柔らかい線を描くのだと、私はその朝、知った。


「――本物の妻として、おはようございます、イルゼ」


彼は改めてそう言った。


私はカップを両手で包んだ。


「おはようございます、旦那様」


窓の外で、初夏の領地が朝の光を静かに浴びていた。


麦の畑の向こうに、小さな川があった。川の面に朝日が白く砕けていた。


私は長く失っていた朝を、やっと始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
何故身代わり婚? 背景が分からず、ふんわりすぎて読者の想像力に丸投げ? それもそれで文学ではあるけども、何故姉の身代わりなのか分からず読み進めたいと見てしまったのでそこは作者様の策略のうちだろうか。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ