第064話:シロの威嚇、銀の咆哮
人間が狂気に囚われた時、その執念は時に死の恐怖すら凌駕する。
無音の迷宮によって大半の暴徒や難民が森から逃げ去った二日後の午後。
森の外郭に、たったひとつの影が這いずるようにして現れた。
元徴税兵のリーダーだった男だ。
荒野はすでに地獄と化していた。
魔力炉の暴走で防壁都市を追われた数千人の難民たちは、極寒の吹きさらしの中で飢えと凍傷に倒れ、死者の衣服を剥ぎ、革靴を煮て食い、最後には互いの肉を争う阿鼻叫喚の惨状が広がっていた。
その地獄を生き延びた男の脳裏に焼き付いていたのは、ただひとつ――あの森の奥で青く輝き、巨大なリンゴと甘いジャムの湯気を放っていた、温もり溢れるツリーハウスの光景だけだった。
男の姿は、すでに人間のそれとは言えなかった。
アルトに射抜かれた左太ももには汚れたボロ布が幾重にも巻き付けられ、血と膿が滲んでいる。
両耳には泥を固めた耳栓を深く詰め込み、音響迷宮の低周波を遮断していた。
そして男の右腕には、都市の防衛軍が遺棄した重厚な「鋼鉄の円盾」、左手には太い鉄矢を装填した大型の「軍用クロスボウ(強弩)」が握られていた。
足を引きずり、血走った目を剥き出しにして、男は森の木々を薙ぎ倒すように直進してきた。
「ガキ……殺す……絶対に殺す……!」
男の口から、泡混じりの呪詛が漏れ出る。
都市は完全に壊滅した。逃げ場などどこにもない。
荒野で飢え死にするか、この森の城を奪って王になるか。
男の脳内には、その二つの選択肢しか残されていなかった。
狂気じみた執念が、男の肉体を突き動かし、ついに大樹の根元――青い光が満ちる芝生の手前、わずか二十歩の距離まで肉薄させたのだ。
「おい、クソガキィッ! 出てこいッ!」
男が耳栓を引っこ抜き、クロスボウを上層デッキへと向けた。
「そのツリーハウスから降りてこい! さもなきゃあ、この鋼鉄の矢で頭蓋骨をブチ抜いてやるぞッ!」
地上七・五メートルの上層デッキ。
アルトは静かに手摺りに手をかけ、イチイの長弓を構えた。
矢を番え、弦を引き絞る。
距離は二十メートル足らず。男の首の隙間を射抜くのは容易だった。
だが――
アルトが弦を放とうとした、その瞬間。
スッと、白い前足がアルトの腕に添えられた。
シロだった。
シロは金色の瞳でアルトを見上げ、首を横に振った。
その瞳は、はっきりと語りかけていた。
――アルトの手を、こんな汚れた血で汚す必要はない、と。
「シロ……?」
アルトが息を呑む間もなく、シロは音もなく空中回廊の手摺りへと飛び乗った。
そして、地上七・五メートルの宙空から、羽毛のようにふわりと飛び降りたのだ。
重力を無視した優雅な滑空。
大樹の根元の芝生に四肢を着地させた瞬間、足音ひとつ響かなかった。
「ヒャハッ! 犬っころが降りてきやがったか!」
男は下卑た哄笑を上げ、クロスボウの狙いをシロの眉間へと定めた。
男が構えているのは、オルディス都市守備隊が城壁防衛に用いる「鋼鉄製ヘビークロスボウ」だった。
太い焼入れ鋼の板バネを弦とし、巻き上げレバー(クレーンクイン)で数百キロの張力を蓄えて撃ち出す凶悪な兵器。先端に四角錐の鋼鉄徹甲弾頭を備えたボルト矢は、甲冑を着た騎士すら貫通して絶命させる威力を持つ。
「まずテメエから串刺しにして、毛皮を剥いでやるよォッ!」
男の指が、クロスボウの引き金を絞る。
――バツンッ!!
空気を切り裂く金属音が響き、鋼鉄の弦が弾けた。
黒い徹甲ボルトが、目にも留まらぬ音速の閃光となってシロの眉間へと真っ直ぐに撃ち出された――はずだった。
だが。
鉄矢がシロの鼻先五尺(約一・五メートル)まで迫った瞬間――
――ピキィン……ッ!
大気中に、透き通った鐘のような澄んだ倍音が響き渡った。
何もない虚空に、直径三尺ほどの青白い「正六角形のハニカムグリッド(六角柱力場)」が、幾重もの同心円を描いて瞬時に結晶化したのだ。
その不可視の幾何学障壁に激突した瞬間、徹甲ボルトの先端がクシャリと潰れ、数千ジュールもの運動エネルギーが一瞬にして完全に霧散した。
青い燐光を散らしながら、矢はカラン……と虚しい音を立てて芝生の上に転がり落ちた。
「な……んだと……!?」
男の顔から血の気が引いた。
その時。
シロが、静かに一歩前へ踏み出した。
その純白の毛並みが、逆立つこともなく、滑らかに波打つ。
背中の中央を貫く蒼い筋の模様が、大樹の根元で回り続ける青銅歯車の回転と、寸分の狂いもなく完全に同調して光を放ち始めた。
――トクン……ッ。
大地の底から、神話の心臓の鼓動が響いた。
大樹の巨幹が、青白い光の筋を全身に走らせる。
そして、シロは男を見据え、その口を静かに開いた。
それは、ただの獣の唸り声ではなかった。
耳で聞く音ですら、なかった。
――グォォォォォォォォォンッ……!!!!
空気が、爆縮した。
大気そのものが数千気圧の質量を持って凝縮され、不可視の銀色の衝撃波となって、シロの口元から前方へと放射されたのだ。
シロの足元の芝生が同心円状に波打ち、前方の空気がレンズのように歪む。
――ドゴオオオオオオオオオオンッ!!
「ぐあぁっ……!?」
男が構えていた厚さ一寸の鋼鉄の円盾が、まるで巨人の拳で殴られたかのように、瞬時に真ん中からくの字にへし曲がった。
手に持っていた軍用クロスボウは、木製の銃床が粉々に破砕され、無数の木片となって飛び散った。
男の背後に立っていた太さ二尺のトネリコの木々までもが、バキバキと音を立てて外側へと薙ぎ倒され、落ち葉と枯れ枝が嵐のように吹き飛んでいく。
衝撃波は男の肉体を容赦なく貫通した。
内臓が裏返るような重圧。
頭蓋骨の芯を直接巨大な鐘で打ち鳴らされたような、圧倒的な存在の階位差。
男の全身の毛穴から、一斉に冷や汗が噴き出した。
股間から、生暖かい液体がドッと漏れ出し、泥濘を汚す。
失禁。
恐怖という感情すら超越した、脊髄が発する絶対的な死の宣告。
「あ……あば……あ……っ!!」
男の口から、言葉にならない濁音が漏れた。
白目を剥き、歯をガチガチと激しく打ち鳴らしながら、男は泥の中に両膝と両手をついた。
目の前に立つ白い獣。
その姿は、もうただの犬ではなかった。
星の自転を背負い、大地の調停を司る、太古の神話の裁定者。
人間ごとき塵芥が、触れることすら許されない至高の生命体。
シロは、倒れ伏す男に牙を立てる気すらなかった。
ただ、冷徹な金色の瞳で、地面の虫けらを見るかのように一瞥した。
そして、フンッと鼻先で短く息を吐いた。
それだけで、男の残された精神は完全に砕け散った。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ……!!」
男は折れた盾も、砕けたクロスボウも放り出し、泥水を顔面に擦り付けながら、四つん這いになって森の外へと向かって這いずり出した。
立ち上がることすらできない。
足の痛みを思い出す暇すらない。
ただ、この神話の領域から一秒でも早く逃げ出したいという一心だけで、爪を剥がしながら凍土を掻きむしり、森の境界線の彼方へと転がるようにして敗走していった。
男は、二度と戻ってこないだろう。
それどころか、外の世界の誰に対しても、「あの森には絶対に入ってはならない」「神がいる」と、狂乱の叫びを撒き散らしながら彷徨う生ける道標となるはずだった。
静寂が、大樹の周囲に戻った。
シロの放った銀の咆哮の余波によって、大樹の周囲の空間には、うっすらと青い球状の力場――光のドームの輪郭が、幻のように浮かび上がっていた。
外部の冷たい風も、煤煙も、悪意も、この境界線の内側には一筋たりとも侵入できない。
アルトは地上へと降り、シロの元へと歩み寄った。
シロは威厳を解き、いつものように柔らかな表情に戻ると、アルトの膝に頭を預けてスリスリと甘えてきた。
「シロ……ありがとう」
アルトはその温かい首筋を抱きしめた。
少年の心には、恐怖はなかった。
どんな強大な神の力を持っていようと、この獣はアルトの唯一無二の家族なのだ。
足元には、男が落としていった鋼鉄の盾の残骸と、頑丈な鉄の金具が転がっていた。
アルトはその歪んだ鋼鉄を拾い上げた。
曲がってはいるが、ヒビ割れひとつ入っていない。不純物の極めて少ない、高炭素の鍛造鋼。
都市の腕利き鍛冶師が、幾重にも折り返し鍛錬を施して鍛え上げた特級の鋼鉄材だ。
ノミやカンナの刃先、彫刻刀の切っ先を作るには、これ以上の素材はない。
「……これを使えば、もっといい道具が作れるな」
少年の瞳に、職人の情熱が再び灯った。
人を害するための武具を解体し、木を削り、暮らしを豊かにするための創造の道具へと打ち直す。
外敵の排除は終わった。
ここからは、この聖域をさらに美しく、完璧な要塞へと仕立て上げるための、次なるクラフトの時間が待っていた。




