第063話:落とされた外套、拾わない手
無音の迷宮が機能し始めたことで、境界の森の内側には再び完全な静寂が戻っていた。
だが、森の外郭――都市へと続く平原との境界線には、嵐のあとのような惨めな痕跡が生々しく残されていた。
翌朝、アルトはシロを連れて、境界線の見回りに出た。
仕掛けたトラップが野生動物を巻き込んでいないか、水路の凍結がないかを確認するための日課の巡回だった。
アルトは鹿革の長靴の紐を固く結び直し、毛皮の裏地がついた手袋をはめた。手作りの防寒具は風を一筋も通さず、足先も暖かかった。シロは冷たい朝の空気に尾をピンと立て、霜の降りた下草をサクサクとリズミカルに踏みしめながら、アルトの三歩先を軽やかに先導していた。
森の木々が途切れ、荒涼とした冬の平原が広がる境界の小径。
雪混じりの冷たい北風が、少年の頬を容赦なく叩く。
足元の泥土には、昨夜から今朝にかけて逃げ惑った難民や暴徒たちの無数の足跡が、乱雑に踏み荒らされていた。
滑って転んだ跡、這いずり回った手の跡、放り出された割れた水瓶や、空になった布袋。
それだけではない。泥濘の中には、都市の文明が誇っていたはずの「富の残骸」が無造作に散らばっていた。
歪んだ銀のスプーン、ガラスが割れた真鍮の手鏡、精緻な細工が施された革の財布――中に入っていたはずの真鍮貨や銀貨が、泥水の中に踏みつけられて鈍く光っていた。
飢えと寒さで死にかけている人間にとって、金銀の財宝など一握りのドングリほどの価値も持たない。重いだけの金属の塊として、泥の中に投げ捨てられていたのだ。かつて都市でアルトたち孤児を縛り付け、見下していた価値観のすべてが、この泥濘の中で無惨に崩壊していた。
その足跡の連なりを辿っていたアルトの足が、ふと止まった。
「……ん?」
泥濘の窪み。
踏み荒らされた黒い泥と凍りついた雪の隙間に、鮮やかな「赤」が埋もれていた。
アルトは歩み寄り、膝をついてその正体を確かめた。
それは、一着の外套だった。
小さな、丈の短い子供用の外套。
上質な赤ウールの布地で作られ、フードの縁には柔らかなウサギの毛皮があしらわれていた。
泥で汚れ、雪で濡れて重くなっていたが、オルディス防壁都市の中流以上の商人や役人の子供が着ていたものだと一目で分かった。
避難の最中、親の手を離れたのか、あるいは荷物を軽くするために投げ捨てられたのか。
外套の胸元には、幼い子供の名前だろうか、「リーゼ」という銀糸の刺繍が、泥にまみれながらも微かに光っていた。
一針一針、丁寧に刺された銀糸。
子供が無事に冬を越せるようにと、母親が暖炉のそばで祈りを込めて縫い上げたのだろう温もりが、その刺繍の目から痛いほど伝わってきた。
この外套を着ていた小さな子は、今頃どこで震えているのだろう。母親の手を握りしめているのか、それとも荒野のどこかで置き去りにされたのか。
「…………」
アルトは無言で見つめた。
伸ばしかけた右手が、空中でピタリと静止した。
胸の奥で、古い記憶の破片がチクリと疼いた。
かつて都市の孤児院にいた頃の自分。
冬が来るたびに、ボロボロに擦り切れた麻布一枚で寒さに震え、凍傷で紫色に腫れ上がった足の指を抱えて泣いていた夜。
あの孤児院の地下室で、毛布も与えられず、冷たい石床の上で静かに息を引き取っていった二つ年下の小さな少年の記憶が蘇る。朝になって冷たくなったその子の亡骸を、院長は眉ひとつ動かさずに荷車に乗せ、ゴミのように共同墓地へと運んでいった。
街を行き交う裕福な家族の子供たちが、こんな温かそうな赤い外套を着て、親に手を引かれて笑っている姿を、路地裏の溝の中から羨望の眼差しで見つめていた記憶。
あの頃のアルトは、いつも願っていた。
誰か、自分に暖かい服を恵んでくれないだろうか。
誰か、自分に温かいスープを一杯分けてくれないだろうか。
神様でも、見知らぬ大人でもいい、誰かが自分を哀れんで、助けてくれないだろうかと。
もし――あの頃のアルトなら。
森へ追放された直後の、まだ人間社会への未練と甘えを捨てきれずにいた少年だったなら。
この外套を慌てて泥から引き上げ、涙を流して抱きしめただろう。
そして、この外套を落とした哀れな子供を探しに、危険を冒して森の外の荒野へと飛び出していったかもしれない。
自分の持っている干し肉やリンゴを分けてやり、手を引いて暖炉のそばへ連れてきてやろうとしたかもしれない。
だが。
アルトの伸ばしかけた指先は、布地の一ミリ手前で止まったままだった。
シロが足元に寄り添い、アルトの手元と、泥に沈む赤い外套を、静かな金色の瞳で見つめていた。
シロは何も言わない。促しもせず、咎めもしない。
ただ、少年の選択を待っている。
冷たい風が吹き抜け、赤いウサギ毛のフードを小さく揺らした。
「……違うな」
アルトの唇から、小さく、乾いた呟きが漏れた。
少年の右手は、そっと引っ込められ、鹿革ベストのポケットの中へと収まった。
同情して手を差し伸べれば、何が起きるか。
今のアルトには、痛いほど理解できていた。
飢えと恐怖に狂った人間たちにとって、子供の施しなど「弱み」でしかない。
一人の子供を助ければ、その背後にいる十人の大人が群がり、大樹の食糧と温もりを奪い尽くすだろう。
昨日やってきた脱走兵のように、斧を振りかざし、火を放ち、アルトを殺して居場所を乗っ取ろうとするだろう。
かつてアルトが都市で飢えていた時、この赤い外套を着ていた子供の親たちは、アルトにパンの一片すら恵まなかった。
それどころか、魔力がないというだけで「寄生虫」と呼び、冷たい雨の日に門の外へと蹴り出したのだ。
人間社会の倫理とは、そういうもだった。
強者が弱者を搾取し、都合が悪くなれば切り捨てる。
そして自分が危機に陥った時だけ、都合よく「慈悲」や「助け合い」を叫ぶ。
そんな浅ましい欺瞞に、なぜアルトが付き合わなければならないのか。
「ここは……僕とシロの家だ」
アルトは立ち上がった。
膝についた雪をパンパンと払い、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
少年の瞳から、すべての迷いが消え失せていた。
あるのは、透き通った氷のような冷徹さと、自らの生命に対する絶対の責任感だけだった。
「僕たちは、誰からも助けられなかった。……だから、誰かを助ける義務もない」
それは復讐の言葉ではなかった。
憎悪に満ちた毒でもなかった。
ただの、厳然たる「世界の物理法則」の確認だった。
自分の足で立ち、自分の手で火を熾し、自分の血と汗で家を建てた者だけが、この森で生きる権利を持つ。
外の世界で文明が自滅しようと、人々が飢えで倒れようと、それは彼らが自ら招いた結末にすぎない。
少年の小さな肩には、滅びゆく世界を背負う義務など、爪の先ほども存在しないのだ。
アルトは足を踏み出した。
泥にまみれた子供の赤い外套を一瞥もしないまま、その脇を通り過ぎた。
拾い上げもしない。
足で踏みにじることもしない。
ただ、そこに転がる一個の石ころや枯れ葉と同じものとして、完全な無関心をもって通り過ぎた。
シロがアルトの歩調に合わせて駆け寄り、誇らしげに尾を揺らした。
ふたりの影が、冬枯れの森の奥へと向かって、並んで伸びていく。
背後で、冷たい風が吹き荒れ、泥の中の赤い布片の上に白い雪が音もなく降り積もっていった。
やがてその外套は、雪の下へと完全に埋もれ、世界の景色の一部へと消え去っていくだろう。
大樹の秘密基地へと帰り着いたアルトは、上層デッキの暖炉に薪をくべ、火を熾した。
パチパチと心地よい音を立てて燃え上がるヤマザクラの薪。
小鍋に自噴水を注ぎ、燻製鹿肉の切れ端と乾燥キノコ、砕いたドングリ粉を入れてコトコトと煮込む。
やがて立ち上る湯気は、香ばしい滋養の香りで部屋を満たした。
木製スプーンで温かいスープを啜り、フーフーと息を吹きながらシロと分け合って飲む。
一口ごとに、胃袋がじんわりと温まり、全身の細胞が生き返っていく。
誰からも奪わず、誰の施しにも頼らない、完全な自分たちの糧。
足元には、すやすやと寝息を立て始めるシロ。
その温かい白い毛並みに指を沈めながら、アルトは窓の外の雪景色を見つめた。
かつて都市で誰かの愛や施しを乞うていた自分は、もう死んだのだ。
誰にもすがらず、自分の責任において、この大樹とシロとともに生き抜く。
その孤独は、凍てつく冬の風よりも研ぎ澄まされ、誇り高く、美しかった。
少年は、過去の自分を埋葬したのだ。
施しを求め、他人の善意に縋り、愛されたいと泣いていた「子供のアルト」は、この朝、完全に息を引き取った。
あとに残ったのは、境界の森の神殿を背負い、自らの箱庭を守り抜く、孤高の守護者の冷たい横顔だった。




