第060話:境界の足音、境界線の侵入者たち
夜の帳が降りると同時に、森の気温は氷点下へと急降下した。
木々の梢には白い霧氷が宿り、踏みしめる落ち葉はガラス細工のようにサクサクと硬く凍りついている。
だが、その凍てつく静寂を切り裂いて――
森の外縁部から、下品な罵声と、枯れ枝を乱暴に踏み折る無秩序な足音が響き渡っていた。
「おい、松明を消すな! 魔獣が寄ってきやがるぞ!」
「くそっ、寒くて指の感覚がねえ……! 本当にこんな森の奥に食い物なんてあるのかよ!」
「あるに決まってんだろ! さっきから風に乗って、甘えリンゴの匂いがプンプン漂ってきてやがるじゃねえか! それに、あの木の上を見ろ!」
上層デッキの展望台で身を伏せていたアルトの耳に、彼らの濁った声が手にとるように届いていた。
侵入者の数は、十二人。
先頭を歩く四人は、都市の守備隊が身につける青い外套を羽織り、腰に軍刀を吊るした脱走兵たち。
後ろに続く八人は、都市の貧民街で暴徒化した凶暴な男たちだった。手には錆びたナタや鉄パイプ、先端を火で炙った木槍を握りしめ、松明の赤い炎を振り回しながら森を踏み荒らしていた。
顔は煤と泥で汚れ、目は冬の飢えに狂った野犬のようにギラギラと血走っている。
彼らはオルディス防壁都市の崩壊から逃げ延び、暖と食糧を求めて、この境界の森へと雪崩れ込んできたのだ。
「シロ、待機だ」
アルトは隣で低く唸り声を上げようとしたシロの背中を、そっと手で制した。
アルト自身は、鹿革の防護ベストを身につけ、前腕の籠手と脛当てを締め上げ、腰には小刀、手には長弓を構えている。
地上五メートルの下層テラスへの階段はすでに巻き上げてあり、地上七・五メートルの上層デッキは、梯子もロープも一切垂れていない完全な宙空の孤島となっている。地上から直接登ってくる手段は存在しない。
侵入者たちが、ついに大樹の根元――あの青い光が満ちる円形の空間の十間(約十八メートル)手前まで足を踏み入れた。
その瞬間。
暗闇の中から、凍りつくような低い重低音が響き渡った。
――グルルルルルルルル……ッ。
侵入者たちの足がピタリと止まった。
松明の赤い光が揺れ、森の木の陰から、二十頭の「銀狼」たちが一斉に姿を現したのだ。
月光を浴びて白銀に輝く巨体。
先頭に立つのは、小さな牛ほどもある隻眼のボス狼だ。唇を吊り上げ、大人の太ももほどもある大木を一撃で噛み砕く太い牙を剥き出しにして、侵入者たちを威嚇している。
「ひっ……!? ぎ、銀狼の群れだぁっ!?」
「なんでこんな手前に魔獣の群れがいやがるんだ!?」
貧民街の暴徒たちが悲鳴を上げて後退しかけた。
だが、先頭の脱走兵のリーダー――頬に深い刀傷のある大柄な男が、軍刀を抜いて怒鳴り散らした。
「怯むな、バカ野郎! 狼どもは火を怖がる! 松明を前に突き出せ! 見ろ、あの大樹の根元をよォ!」
リーダーの男が指差した先。
大樹の周囲には、青々とした芝生が広がり、枝には抱えきれないほど巨大なヤマリンゴが実り、漂うジャムと燻製肉の濃厚な芳香が、風に乗って男たちの飢えた鼻腔を直撃していた。
「肉だ……! 果物だ! あんなデケえ実、見たこともねえぞ! あそこを奪えば、この冬をたらふく食って生き延びられる! 火を放って狼どもを追い払えッ! 奪い尽くせェッ!!」
飢餓に狂った人間は、獣よりも凶暴だ。
男たちは理性を完全にかなぐり捨て、松明を振りかざして銀狼たちへと突進しようとした。
松明の赤い煤煙が、青い光に満ちた聖域の空気を濁らせ、火の粉が乾いた冬芝の上へと散る。
ボス狼が喉を鳴らし、前脚に力を込めて飛びかかろうとした瞬間――
「――狼たち、下がれッ!」
樹上から、凛とした鋭い少年の声が響き渡った。
ボス狼はピクリと耳を動かすと、アルトの号令に従い、一瞬で群れとともに森の左右の闇の中へと姿を消した。肉弾戦で狼たちに怪我をさせる必要など、爪の先ほどもなかった。
「……あ?」
突進の拍子を狂わされた侵入者たちが、足を止めて見上げた。
そこに、彼らは見たのだ。
地上七・五メートルの上層デッキ。
神秘的なサファイアブルーの永久照明に包まれ、夜空の星屑を従えてそびえ立つ、巨大な木組みの空中宮殿。
規則正しい木組みの幾何学トラス、滑らかな手摺り、宙を渡る空中回廊、そして大樹の枝を覆う柔らかな青い光。
泥と煤にまみれ、崩壊した都市のスラムで互いを食い合っていた男たちにとって、それは天上の神話の神殿が、漆黒の森の梢にそのまま降臨したかのような圧倒的な光景だった。
そして、その展望デッキの手摺りに片足をかけ、弓を引き絞って冷徹に見下ろす、一人の少年の姿を。
少年の隣には、神話の威容をたたえた銀白の神獣シロが、静かに佇んでいた。
「な……んだ、あれは……?」
「家……? 木の上に、城があるのか……!?」
男たちが呆然と口を開けた。
その中で、先頭に立っていた脱走兵のリーダーの男が、少年の顔を凝視し、カッと目を見開いた。
「て、手前……! その顔……! まさか、あの時の『魔力なし』のガキか!?」
アルトもまた、男の顔を認識していた。
都市の西門で、秋の冷たい雨の中、アルトの襟首を掴んで泥水の中へと放り投げた、あの治安維持部隊の徴税兵の男だった。
『魔力を持たぬ寄生虫に、都市の魔力熱を分けてやる余裕などない。魔獣の糞にでもなるがいい』
そう言って唾を吐きかけた男が、今、泥と煤にまみれ、飢えに震えながら、アルトの足元で情けなく見上げている。
男の顔に、驚愕と、それに続く浅ましい侮蔑の色が浮かんだ。
「ハッ……ハハハッ! なんだ、追放されて野垂れ死んだと思ってたら、こんなところで小汚いツリーハウスごっこをしてやがったのか! おいガキ、その食い物を全部下に投げ落とせ! この俺たち正規軍が徴発してやる! 言う通りにすりゃあ、命だけは助けて――」
男が叫び終えるより早く。
アルトの指先が、弦を放った。
落下距離七・五メートル、水平距離十二メートル。梢を吹き抜ける北風の偏流と重力加速度を、少年の小脳は瞬時に計算し尽くしていた。
――ビュンッ……ドスゥンッ!!
一筋の閃光のような矢が、上層デッキから垂直に近い角度で撃ち下ろされた。
矢は、リーダーの男の右足の爪先――靴の革皮からわずか五ミリの地面へと、深々と突き刺さった。
アカガシの矢柄が、甲高い唸りを上げて激しく震えている。
「ひぃっ……!?」
男が悲鳴を上げて尻餅をついた。
もし矢が指一本分でも手前にずれていれば、その足の甲は地面ごと貫通されていたはずの、神業のような精密射撃。
アルトは弓を下ろさず、すでに二本目の矢を番え、冷徹な声で言った。
その声は低く、変声期を過ぎつつある硬質な響きを帯びて、冬の森の冷気の中を真っ直ぐに貫いた。
「口を慎め、略奪者」
「な、なんだと……!?」
「ここから先は、僕とシロの家だ。大樹の葉一枚、リンゴの実ひとつ、足元の泥のひと匙たりとも、お前たちに渡すものはない」
アルトの瞳には、かつて都市の大人たちに怯えていた面影は微塵もなかった。
あるのは、自らの手で血と汗を流して居場所を築き上げた者だけが持つ、絶対の誇りと冷酷さだった。
「一歩でも境界線を踏み越えれば、次は眉間を射ち抜く。……命が惜しければ、今すぐ自分の足で森を出て行け」
上層デッキの周囲で、青い永久照明が一際強くパッと輝いた。
大樹の根元の青銅歯車が、ゴオオオ……と地脈の重低音を響かせ、森の闇の奥から、再び二十頭の銀狼たちの青い瞳が、逃げ道を塞ぐように包囲の輪を縮めていく。
「く、狂ってやがる……! こんなガキが、魔獣を操ってやがるのか……!?」
「リーダー、逃げましょう! あいつ、本気で殺す気だ!」
暴徒たちが震え上がり、後ずさり始めた。
だが、尻餅をついたリーダーの男の瞳には、恐怖とともに、狂気じみた飢餓と強欲の炎が、まだ消えずに燃え盛っていた。
男は歯を剥き出しにして立ち上がり、アルトを睨みつけながら唾を吐き捨てた。
「……覚えてろよ、クソガキが……! テメエ一人で、この森全部を守れると思うなよ……!」
男たちは松明を振り回しながら、闇の中へと逃げ去っていった。
だが、その背中は、諦めた者のそれではない。
より多くの武器と、より大勢の飢えた暴徒を引き連れて、必ず再びこの楽園を奪いに戻ってくるという、不吉な復讐の足音だった。
アルトは弓を番えたまま、彼らの足音が完全に消え去るまで見送った。
隣のシロが、アルトの太ももにそっと頭を寄せてきた。
アルトは震えることなく、相棒の白い背中を優しく撫でた。
「……シロ。準備をしよう」
少年の瞳は、揺るぎない覚悟の色に染まっていた。
「ここは僕たちの城だ。誰にも渡さない。絶対に、守り抜く」
アルトは机に向かい、木板の上に木炭で新たな防衛網の設計図を引き始めた。
ただ弓で撃ち合うだけでは、多勢に無勢だ。
森の地形、川の水流、そして大樹の風音の反響を狂わせ、侵入者たちを音もなく方向感覚の狂った迷宮へと誘い込む「自然の防衛線」。
そして、青銅歯車の巻き上げ動力を利用した巨大な落石トラップと、樹上からの防衛システム。
少年が培ってきたクラフトの知恵のすべてが、今度は居場所を死守するための「戦術工学」へと昇華されようとしていた。
森の深部で静かに進んでいた箱庭のクラフトは、終わりを告げた。
崩壊した世界からの侵入者たちを相手取る、本格的な防衛戦――無音の迷宮と要塞化の戦いが、静かに幕を開けようとしていた。




