第059話:川を流れてくる灰と、遠い煙
その朝、森の空気はいつもと決定的に違っていた。
木々の間を吹き抜ける風が、湿った土や朽ち葉の清涼な匂いではなく、鼻の奥をツンと刺す焦げ臭い酸気を運んできていたのだ。
アルトは夜明けとともに下層テラスに降り、日課となっている小川の見回りへと向かった。
水車の点検と、流水晒し槽のドングリの確認。
だが、川岸に立った瞬間、アルトの足が凍りついた。
「……川が、濁ってる……?」
普段なら底の砂利や泳ぐイワナの斑点まではっきりと透き通って見えていた清流が、薄汚れた灰色に濁っていた。
水面には、油膜のようなギラついた光が浮かび、上流から無数の「黒い燃え殻」がプカプカと流れてきていたのだ。
アルトはしゃがみ込み、川面を流れてきた拳大の浮遊物を木切れですくい上げた。
それは、半分焼け焦げた羊皮紙の書類の切れ端だった。
煤で汚れ、水に濡れて文字はほとんど潰れていたが、端の方に赤い蝋の封印――「オルディス都市行政局・第十四管区」の紋章が、かすかに残っていた。
さらに、川の淀みには、引き裂かれた布切れが引っかかっていた。
都市の治安維持部隊が身につける、あの青と銀の制服の襟巻き。血痕のような赤黒い染みが、繊維にこびりついていた。
「シロ……街で、何かが起きてる」
傍らに立つシロが、川の水に鼻先を近づけ、嫌悪感を露わにしてフンッと短く息を吐いた。
アルトは水底を覗き込んだ。
普段なら川底の石の裏に無数にへばりついていたトビケラやカゲロウの幼虫が、毒気を含んだ灰汁に耐えかねて身悶えし、数匹の小魚が腹を上に向けて力なく流されていくのが見えた。水そのものが死にかけている。
シロの前足が、川の水を絶対に飲むなと警告するようにアルトの長靴を小突いた。
アルトは直ちに水車のバイパス水門を操作し、濁った川水が基地の貯水池や氷室に流れ込まないよう、水門の厚い板を落として水路を完全に遮断した。
幸い、基地の生活用水は、大樹の根元から湧き出るあの青白い自噴泉(地脈の超純水)で完全に賄えている。アルトはその自噴水を木桶に汲み、一口含んでみた。
舌の上に広がるのは、一切の汚濁のない甘露のような甘みと、全身を芯から清めるような微小な炭酸の刺激。外界の水がどれほど毒されようと、大地の深層から湧き上がるこの聖なる水がある限り、基地の命脈は一滴たりとも脅かされない。
だが、川を流れてくる灰の正体を確かめなければならなかった。
アルトは空中回廊を駆け抜け、トネリコの巨木にある展望デッキへと登った。
手には、以前峡谷の遺跡から持ち帰ったレンズを組み合わせて作った「手製屈折望遠鏡」を握りしめていた。
大小二枚の研磨された古代ガラスレンズを、内側を煤と膠で黒く塗って乱反射を防いだ竹筒の筒身に嵌め込み、二重構造の竹を前後させてピントを微調整できるようにした精密な道具だ。高倍率の望遠鏡は手ブレが命取りになるため、デッキの手摺りには、三本の細丸太を組んで自在に角度を変えられる「木製ボールジョイント式の雲台」を取り付けてあった。
アルトは雲台の締め木を緩め、望遠鏡の接眼レンズに右目を当てた。
南西の方角――森の途切れる地平線の果てへと、筒先を向ける。
竹筒をミリ単位で前後にスライドさせ、焦点を合わせる。
視界がふっと結像した瞬間、アルトの呼吸が喉の奥で凍りついた。
「…………っ、なんだ、あれは……!?」
望遠鏡の丸い視界の中に飛び込んできたのは、信じがたい地獄の光景だった。
――オルディス防壁都市が、燃えていた。
黒く巨大な外壁のあちこちから、天を突くような不吉な黒煙が何筋も立ち上っていた。
街の中央、あの傲慢にそびえ立っていた巨大な魔力炉の煙突が、途中でボッキリとへし折れ、断面から紫色の毒々しい火花と魔力ガスを周囲へ撒き散らしている。
都市の堅牢な城門は内側から破壊されたのか、無残に外側へと吹き飛ばされていた。
そして――
その開いた城門から、蟻の群れのような無数の人影が、荒野へと雪崩を打って溢れ出していたのだ。
望遠鏡の倍率を上げると、逃げ惑う人々の姿が信じられない解像度で見えた。
貴族の白い馬車がひっくり返り、豪華な毛皮や金銀の食器が泥の中に散らばっている。それを飢えた市民たちが殴り合いながら奪い合い、さらに背後からは武器を持った都市の守備兵たちが、軍規をかなぐり捨てて略奪に加わっていた。
魔力炉の排気弁が破裂したのか、都市の市街地の上空には紫がかった濃硫酸のような化学煙が垂れ込め、逃げ遅れた人々が喉を押さえて石畳を転げ回っている。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
悲鳴と怒号は、十数キロ離れたこの森までは届かない。
だが、望遠鏡越しに伝わってくるその光景は、音のない無声映画のように、かえってその凄惨さを際立たせていた。
「魔力炉が……暴走したのか? それとも、食糧が尽きて暴動が……」
アルトの指先が、竹筒を握る力で白く強張った。
脳裏に、あの日の記憶が鮮烈に蘇る。
冷たい秋雨が降る夕暮れ、オルディス防壁都市の西門。
十四歳を前にして魔力検査で「魔力ゼロ・賦活不能」の烙印を押されたアルトは、役人たちによって襟首を掴まれ、泥水たまりの中へと放り出された。
『魔力を持たぬ寄生虫に、都市の貴重な魔力熱を分けてやる余裕などない。森へ行って魔獣の糞にでもなるがいい』
役人の冷酷な嘲笑と、閉ざされた鉄の城門の重い打撃音。
雨に打たれ、泥まみれになって震えていた少年の懇願を、都市の大人たちは誰ひとりとして聞き入れなかった。
魔力炉の恩恵に胡座をかき、自分たちは選ばれた存在だと信じ込んでいた大人たち。
彼らが絶対の信仰を捧げていた文明が、富が、防壁が、音を立てて足元から崩壊していた。
胸の奥に湧き上がったのは、復讐の快感などではなかった。
あるのは、吐き気を催すほどの虚しさと、哀れみだった。
彼らは魔力炉の炎に縋りつき、自然を破壊し、弱者を切り捨てることでしか豊かさを維持できなかった。
自らの手で木を伐り、石を割り、土を耕す知恵を失った者たちが、システムの停止とともに共食いを始めている。
金貨も、宝石も、身分証も、飢えた胃袋の前には何の役にも立たない。
今、あの荒野で価値を持つのは、自らの手で火を熾し、寒さを凌ぎ、一口のパンを作り出す技術だけだ。
そしてその技術のすべてを、アルトはこの森で、血と汗を流しながら自力で手に入れていた。
文明の結末は、これほどまでにあっけなく、無様だった。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
アルトは望遠鏡を動かし、逃げ惑う群衆の進路を追った。
荒野に広がった難民たちの群れは、飢えと寒さに追われながら、四方八方へと散らばっていた。
そして――その一部。
数百人規模の集団が、冬枯れの平原を横切り、この「境界の森」の方角へと向かって、泥まみれの足をひきずりながら進軍してきていたのだ。
「……こっちに来る」
アルトの呟きに、展望デッキの床に座っていたシロが、すっと立ち上がった。
金色の瞳が、南西の空を細く見据えている。
その時だった。
基地の大樹の足元――外郭警戒陣を張っていた銀狼たちの間から、低く地を這うような唸り声が響いた。
――グルルルルル……ッ。
隻眼のボス狼が立ち上がり、森の境界線の方角を睨みつけていた。
森の外縁に配置された二十頭の狼たちが、一斉に全身の毛を逆立て、侵入者の接近を告げる警戒態勢に入ったのだ。
森の境界線までは、まだ半日以上の距離がある。
だが、彼らは必ずここまで辿り着くだろう。
冬の飢えに狂い、全てを失った人間たちにとって、この森の奥で青く輝き、甘い果実の香りを放つ秘密基地は、最後の生き残りをかけた格好の略奪の標的に映るはずだった。
「シロ」
アルトは望遠鏡を下ろし、相棒の目を真っ直ぐに見つめた。
少年の声に、震えはなかった。
かつて都市の大人たちに怯えていた子供は、もうどこにもいなかった。
「ここは……僕たちの家だ。小枝一本、リンゴの実ひとつだって、あいつらには渡さない」
シロは短く喉を鳴らし、アルトの掌に鼻先を押し当てて同意を示した。
背中の青い幾何学模様が、冷徹な戦闘の光を宿して鋭く輝いた。
アルトは直ちに、基地の完全封鎖作業に入った。
下層テラスへと続く地上の木製階段の基部を外し、青銅歯車のウインチを使って丸ごと空中へと引き上げた。これで、地上から直接歩いて登ってくる侵入経路は完全に遮断された。
作業場に保管してあったイチイの長弓と、研ぎ澄ました四十本の鉄鏃矢を作業台に並べ、羽根の緩みや矢柄の曲がりを一筋ずつ点検する。
さらに、以前トリカブトの根から煮出して抽出しておいた麻痺毒の壺を開け、矢尻の先端に丁寧に塗り重ねていった。殺すためではない。侵入者の四肢を一撃で奪い、動けなくするための確実な自衛措置だ。
大樹の根元の外郭では、二十頭の銀狼たちが無音で森の闇へと身を潜め、侵入者を待ち構えている。
遠く地平線に立ち上る黒煙と、森を包む静寂。
少年と神獣が築き上げた楽園に、最初の「外敵」が迫りつつあった。
境界の森を揺るがす最初の防衛戦が、いよいよ始まろうとしていた。




