第047話:静寂の回廊と、集う命たち
大樹を巡る円形空中回廊が完成してからというもの、この場所の空間そのものが、原生林の他のどの場所とも異なる「不可侵の聖域」へと質的な変容を遂げ始めていた。
春の陽光が折り重なる若葉の天蓋を透過し、地上へと柔らかなエメラルドグリーンの光粒を降らせている。
大樹の根元――広大な根が龍のように大地をうねり、幾重にも重なった瑞々しい青苔の絨毯が広がるその場所に、アルトは冬のあいだに小川から清流を引き込み、丸石を組んだ天然の導水路と静かな水飲み場を整えていた。カマドの底石から放たれる微細な熱放射が地下水脈に伝わり、冷たい雪解け水をほんのりと温めて、朝夕には根元の水面から微かな白い湯気が立ち昇っていた。
その温もりと澄み切った清水に惹かれるように、最初に姿を現したのは、あのオオツノジカの主だった。
昨年の秋、足に食い込んでいた冷たい鉄条網をアルトが丁寧に外し、薬草をすり込んで手当てしてやった、あの白く巨大な角を持つ森の主。
巨鹿は、一頭きりではなかった。
十頭を超える雌鹿と、冬を越えて生まれたばかりの愛らしい三頭の小鹿の群れを引き連れ、まるで何百年も昔から定められていた約束の安息地へと帰還するかのように、静かに大樹の根元へと歩み寄ってきたのだ。
アルトが手当てした主鹿の右足は完全に完治していた。傷跡には滑らかな白い毛が生え揃い、太く引き締まった腱が力強く黒い腐葉土を踏みしめている。頭上には、春の陽光を浴びて神々しく枝分かれした純白の大角が、まるで王冠のように聳えていた。
巨鹿の群れは、大樹の根の窪みに湧き出る清らかな温水に口をつけ、春の柔らかな若草を音もなく食み始めた。
生まれたばかりの小鹿のひと粒が、好奇心に満ちた丸い瞳を瞬かせながら、大樹の幹に据え付けられた木製ステップの足元へとトコトコと近づいてくる。
アルトが地上四メートルの回廊の手すりから見下ろしていても、鹿たちは逃げようとも警戒しようともしない。
群れを率いる大角の雄鹿が、回廊の上に立つアルトを見上げ、深く、威厳に満ちた仕草で一度だけその太い首を下げて挨拶を交わす。
アルトもまた、手すりに手を添えて静かに一礼を返した。
言葉はなくとも、生命と生命のあいだに交わされた確かな信義が、そこにはあった。
集まってきたのは、鹿の群れだけではなかった。
頭上の青空と梢からは、瑠璃色や黄金色の羽を持つ無数の小鳥たちが吸い寄せられるように舞い降り、回廊の手すりの上に横一列に並んで翼を休め始めた。
胸が鮮やかな緋色をしたコマドリ、青空の欠片のようなカワセミの仲間、尾羽の長い翡翠色の小鳥たち。
チチチ、ピピピと澄んださえずりが、春風に乗って心地よく響き渡る。
アルトが冬の保存食である乾燥した木の実を取り出し、石の作業台の上で軽くすり潰してから手のひらをそっと差し出すと、小鳥たちは争うこともなく、少年の太くなった指先に直接その小さな足を乗せて、無邪気に実を啄み始めた。
チクチクと指の皮を掴む細い爪の感触。小さな嘴が手のひらを小突くくすぐったさ。羽ばたきの微風が、アルトの頬を優しく撫でていく。
リスや野ウサギたちまでもが、大樹の幹のステップ階段をトントンと軽快に跳ね上がり、回廊の片隅の陽だまりで丸くなって、互いに身を寄せ合いながら無防備に毛繕いを始めたのだ。小鳥たちの中には、回廊の軒下の梁の隙間に、柔らかい苔や小枝を運び込んで巣作りの準備を始めるものすら現れていた。
そして――何よりアルトを驚かせたのは、肉食の捕食者たちの行動だった。
春の陽光が木漏れ日を揺らす中、深い森の茂みの奥から、銀灰色の毛並みを持つ二頭の巨大なオオカミが、音もなく姿を現した。
成人の背丈ほどもある筋骨隆々とした体躯。濡れた黒い鼻先、刃物のように鋭い牙、そして獲物を一瞬で仕留める冷酷な黄色い眼光。
普段の原生林であれば、鹿の群れや小ウサギの姿を認めた瞬間に喉を鳴らし、血の匂いを求めて猛然と襲いかかるはずの森の頂点捕食者たちだった。その統率された狩りの技術は、森のすべての動物たちにとって絶対の死神として恐れられている。
だが、その二頭の銀灰狼は、大樹の枝が広げる緑の天蓋の下へと足を踏み入れた瞬間――信じがたい挙動を見せた。
剥き出しにしていた鋭い牙を口の奥へと収め、ピンと尖らせていた耳をペタリと頭の後ろへと寝かせたのだ。
全身から立ち上っていた冷徹な殺気が、霧散するように完全に消え失せていた。
そして驚くべきことに、草を食んでいた鹿たちも、オオカミの接近に気づきながらもパニックを起こして逃げ出そうとはしなかった。ただ一度だけ視線を向けた後、何事もなかったかのように草を食み続けている。
捕食者と被食者が、わずか数メートルの距離で隣り合い、同じ根元の清水を静かに飲み、柔らかな苔の上に腰を下ろしている。
二頭のオオカミは地上から回廊を見上げた。
そこには、手すりの脇に悠然と佇む白銀の巨獣――シロの姿があった。
シロは金色の瞳の瞳孔を細め、静かに二頭のオオカミを見下ろしていた。シロの背中を走る青い光の筋が、微細なパルスを刻みながら淡く脈動している。
――グゥゥゥゥ……
シロの喉の奥から、人間の耳にはほとんど捉えられないほどの超低周波の唸り声が漏れた。
その音波が大気を揺らした瞬間、二頭の獰猛なオオカミは、まるで魂を射抜かれたかのように前足を地面に揃えてピタリと伏せ、額を泥に擦り付けるようにして深々とうずくまったのだ。
完全なる服従と崇敬の礼。
シロが放つその威光は、個々の肉体の強さを超えた、この森の原初より君臨する絶対の神性そのもだった。
「争いがない……」
アルトは回廊の手すりに手を置き、その奇跡のような光景を見下ろして息を呑んだ。
弱肉強食が絶対の掟であるはずの原生林の中で、この大樹の周囲だけが、血と殺戮を禁じられた神話の楽園へと変貌していた。
シロが全身から放ち続ける、目に見えない絶対の威圧と調律の力場。
大樹の根が吸い上げ、床下の真鍮パイプが循環させる星の律動。
そして、カマドの底石が放つ微細な熱放射。
それらの複合的な波長が、生き物たちの脳裏に巣食う闘争本能と飢餓の恐怖を根底から鎮め、絶対の調和と安息の中へと溶け込ませていたのだ。
自然の荒々しい獣たちが、自らの意思でこの「砦」の庇護を求め、平穏を分かち合うために集まってきている。
けれど――
アルトはその奇跡の美しさを噛み締めながらも、手すりの端へと歩み寄り、西の地平線へと視線を向けた。
遠く、オルディス防壁都市の方角から吹き寄せてくる春風。
その風には、日ごとに濃密な煤煙の悪臭と、焦げた魔石の刺激臭が混ざり込んでいた。
西の空は、昼間でも薄汚れた赤茶色に濁り、時折、大気が激しく軋むような不吉な低周波の地鳴りが風に乗って森の木々を揺らしていた。
望遠鏡を覗けば、立ち昇る黒煙の隙間に、制御を失った魔力炉の紫色の異常放電が火花のように散っているのが見える。
都市の崩壊は、止まらない。
魔力炉が自壊し、石壁が焼け落ち、食糧が尽き、寒さに震えた何万人もの人間たちが、やがて生き残りを求めて、この豊かな境界の森へと押し寄せてくるだろう。
都市の役人たち、略奪に手を染めた元兵士たち、暴力で他者を蹴落とすことしか知らない大人たち。
彼らがやってくれば、この大樹の周りに広がる美しい調和も、鹿たちの穏やかな寝息も、すべて暴力と炎によって踏みにじられ、略奪されてしまう。
小川沿いの峡谷、あるいは古い獣道――人間たちが侵入してくるルートは限られている。
「踏み込ませはしない」
アルトの口から、低く硬質な決意がこぼれ落ちた。
怒りではない。
街の人間たちに対する個人的な恨みでもない。
ただ、この手で築き上げたシロとの家と、この場所に安らぎを求めて集まった罪なき命たちを守り抜くという、絶対の責任感。
侵入者を拒絶するための罠、迷路のような防衛線、死角のない監視網。
少年の頭の中で、秘密基地を難攻不落の要塞へと引き上げるための次なる防衛計画が、冷徹な精密さをもって組み上がっていく。
かつて門の外へ突き飛ばされ、泥水の中で泣いていた十一歳の少年は、もうどこにもいなかった。
少年は、ひとつの世界の主として、侵入者を絶対に許さない冷徹な守護者の瞳をしていた。
やがて、春の黄昏が訪れ、深い藍色の夜が大樹の梢を包み込んだ。
根元の苔の上では、鹿たちとオオカミたちが互いの体温を感じ合いながら静かに身を寄せ合って眠りにつき、回廊の軒下では小鳥たちが静かに息を潜めている。
星々の冷たい光が、大樹の天蓋を通して降り注ぐ。
地上四メートルの回廊の上で、少年と白銀の神獣は、静まり返った原生林の夜気を吸い込みながら、来るべき戦いと新たな創造の予兆を静かに見つめ続けていた。




