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第046話:深緑の回廊と、無言の連携

春の原生林は、日ごとにその緑の濃度を増していた。

 雪解けの激流が引き、小川のせせらぎが穏やかな調べを取り戻した岸辺には、白や紫の可憐な山野草が一斉に咲き乱れている。大樹の梢には無数の若葉がみずみずしく繁り、折り重なる梢を透過した春の陽光が、地上へエメラルドグリーンの光のカーテンを作り出していた。

 だが、その美しい新緑の向こう側――西の地平線からは、依然として細い黒煙が空を汚し、風が西寄りに変わるたびに、焦げた鉱物と煤の刺激臭が森の空気をかすかにざわつかせていた。

 世界の崩壊は着実に進行している。

 その緊迫した空気の中で、アルトとシロの生活は、ひとつの完全な「無言の同期」の領域へと足を踏み入れていた。


 アルトが取り掛かったのは、大樹の幹をぐるりと一周する、幅一間(約一・八メートル)、全周十間(約十八メートル)に及ぶ「円形空中回廊」の建設だった。

 これまでのツリーハウスは、三本の太い横枝のあいだに組んだ三角形の居住部屋と、小さな物干しデッキがあるだけだった。

 けれど、シロの身体はこの冬を越えるあいだに急速に成長し、体高は成人の胸に届き、体重も大人を優に超えるほどの堂々たる巨躯へと変貌を遂げていた。室内でのすれ違いは手狭になり、作業スペースも圧迫されつつあった。

 さらに、保存食やクラフトの道具が増えたこと、そして何より――都市の崩壊に伴っていつ押し寄せてくるか分からない侵入者に対し、大樹の四方八方を三六〇度死角なく見渡せる監視網と、緊急時に即座に迎撃・移動できる高所動線がどうしても必要だったのだ。


「幹を傷つけずに、大樹そのものが持つ弾力と呼吸に合わせてしなる回廊を作る」

 アルトの設計方針は極めて明確だった。

 大樹の幹に太い鉄釘を打ち込むような真似は決してしない。釘を打てばそこから樹液が漏れ、木が腐食し、大樹の命を縮めてしまうからだ。

 アルトが考案したのは、大樹の樹皮を傷つけない「抱き締め工法」だった。まず大樹の幹の全周に、松脂をたっぷりと染み込ませた厚手の麻布をクッションとして巻き付ける。その上から、幹の凹凸に合わせて削り出した樫の木の「受け木」を八箇所に配置し、三つ編みに撚り合わせた極太のツル縄と樫の木の楔で締め上げる。これによって、大樹の生長を妨げることなく、数十トンの荷重に耐えうる頑強な梁受けが完成するのだ。


 材料の選定にも、冬のあいだに培ったクラフトの知恵が注ぎ込まれた。

 梁や支柱といった荷重のかかる骨組みには、比重が重く圧縮強度に優れたカシの木を使用する。一方で、人が歩く床板(デッキ)には、軽量で足触りが柔らかく、適度なしなりを持つスギの厚板を選んだ。

 これらの木材は、冬のあいだに伐採してツリーハウスの床暖房の熱と乾燥した寒風を利用し、半年かけてじっくりと陰干ししておいたもだった。木材の内部の水分は極限まで抜け、乾燥による反りや割れの狂いは完全に落ち着いている。


 作業台の上で、アルトの指先が迷いなく動く。

 あの冬の朝、木靴を削り出したときに覚醒した、狂いのない直線と直角を切り出すアルトの指先。

 定規を当てることすらほとんどない。指先の腹で木肌の繊維の走り方を撫でるだけで、コンマ一ミリ単位の狂いや木目の歪みを瞬時に感知し、鉄ノミの切先で完璧な直線を彫り出していく。

 板の端には「蟻継ぎ(ありつぎ)」と呼ばれる台形型の凹凸を刻み、隣り合う板同士を横からスライドさせて強固に噛み合わせる。さらに板の側面には深さ五分の溝を彫り、硬いカシの薄板を挟み込んで繋ぎ合わせる「雇い実接ぎ(やといさねつぎ)」の加工を施す。

 金属の釘など一本も使わない。木と木が互いに抱き合い、幹の揺れと荷重を柔らかく分散し合う伝統の継手と仕口の技法だけで、二十枚を超える厚板が、大樹の幹を包む滑らかな円弧を描いて繋がっていくのだ。


 地上四メートルでの高所作業が始まった。

 足場は、大樹から張り出した細い枝と、仮設のロープ一本きり。

 落ちれば大怪我では済まない危険な作業だったが、アルトの心には微塵の恐怖も迷いもなかった。

 背後には、命を預け合える相棒がいたからだ。


 アルトは左手をスッと背後へ伸ばした。


 ――スッ。


 何も言わなかった。

「シロ、ロープをくれ」という指示の声も、注意を引くための口笛も、一切発しなかった。

 けれど、アルトの後ろの太枝に控えていたシロは、アルトが手を伸ばしたその空中の位置へ、あらかじめ口に咥えていた太いツル縄の束を、寸分の狂いもなく差し入れていたのだ。

 アルトは手元を見ることすらなく、シロの牙から縄の端を指先で受け取り、太い幹の窪みへと一気に巻き付ける。

 アルトが次に視線を斜め上、三メートル上方の細い梢へと向けた、その瞬間。

 シロはすでに音もなく大枝を蹴って宙を舞い、頭上の梢へと飛び移っていた。垂れ下がったロープの反対側の端を前足の肉球でグッと踏みしめ、アルトが結び目を固めるための完璧なテンション(張力)を微動だにせず保ち続けている。


 重たいカシの梁を持ち上げる際も、二人の連携は神業の領域だった。

 アルトが不安定な足場の上で長大な角材を肩に担ぎ上げると、シロが下から太い背中を滑り込ませ、角材の中央をミリ単位の精度で押し上げてアルトの負荷を半分肩代わりする。

 作業中、アルトの指先から滑り落ちかけた鉄ノミを、シロが空中で前足の肉球を使って軽く弾き、下の枝の上へと安全に着地させた場面すらあった。


「…………」

 二人のあいだに、言葉は存在しなかった。

 かつて森で暮らし始めた頃のように、「シロ、持ってきて」「シロ、引っ張って」と声を張り上げていたあの幼い日々は、もう遠い過去のもだった。

 アルトの脳裏に浮かんだ構造体の設計図が、まるで目に見えない神経回路を通ってシロの意識へと直接流れ込んでいるかのように、二つの身体がひとつの生命として寸分の狂いもなく連動していた。

 アルトが重心を傾ければ、シロが即座に反対側の枝に体重をかけてバランスを取り、アルトが木槌を振り下ろす瞬間には、シロが前足で木材の端を押さえ込んで余分な微振動を完全に殺す。


 作業は、奇跡的な速度と静寂の中で進んだ。

 八箇所の受け木が幹に固定され、カシの梁が放射状に張り巡らされ、円弧を描くスギの厚板が次々と敷き詰められていく。

 そして夕暮れ時。

 円環を閉じる最後の一枚の厚板を、アルトが木槌の代わりに硬い拳でトンと叩いて押し込んだ。


 ――カチリ。


 澄んだ乾いた音が夕暮れの森に響き渡り、二十枚すべての板が、ひとつの完璧な円環となって大樹の幹に噛み合った。

 継ぎ目は紙一枚通らない。

 アルトは立ち上がり、新しく完成した回廊の上を、ゆっくりと一周歩いてみた。

 幅一間(約一・八メートル)。アルトとシロが並んで悠々と歩ける十分な広さがある。

 外周には、大人の胸の高さまで頑丈な木製の手すりを巡らせてあり、落下の心配がないだけでなく、いざという時には弓矢を番えて身を隠す胸壁としても機能するよう計算されていた。

 ――無音。

 体重を乗せて強く足踏みをしても、木材の一ミリの軋みも鳴らない。

 夕方の突風が吹き抜けて大樹の梢が大きく揺れても、回廊の構造体は幹の自然なしなりに合わせて柔らかく力を逃し、水平を完全に保ち続けていた。

 伝統木造工学と自然の巨木が完全に調和した、地上四メートルの空中庭園。


 大樹を巡る三六〇度のパノラマ。

 東には、夕闇に染まり始める雄大な青い山並みと、芽吹き始めた新緑の絨毯。

 南には、夕陽を浴びて黄金色のリボンのようにきらめく豊かな小川と湿地帯。

 北には、どこまでも深く続く未踏の原生林の深淵。

 そして――西には、今も黒煙を吐き出し続け、赤い炎の蠢くオルディス防壁都市の残骸。


 アルトは回廊の手すりに両肘を預け、西の空を見つめた。

 煙の形状から察するに、崩壊したのは魔力炉の周辺だけでなく、外壁の一部や兵舎にまで火の手が回っているようだった。あそこにはもう、法も秩序も残されていないだろう。

 隣に、白銀の神獣となったシロが静かに歩み寄り、その温かく太い前足をアルトの腕にそっと重ねてきた。

 アルトは新しく手に入れた低く澄んだ声で、隣の相棒に静かに語りかけた。


「……僕たちの手は、もう迷わないね、シロ」


 シロは金色の瞳を細め、喉の奥で優しくゴロゴロと鳴らした。

 言葉はなくとも、心は完全にひとつだった。

 二人のあいだには、誰にも侵すことのできない、絶対の調和と信頼が満ちていた。


 日が落ちると、回廊の真上に広大な星空が広がった。

 春の夜風はまだ少し冷たかったが、大樹の幹から伝わってくる床暖房の温水パイプの微熱が、回廊の板を通して二人の足元を優しく温めている。

 アルトとシロは手すりに寄り添い、梢の隙間から満天の星々を見上げた。

 かつて街の路地裏で怯えていた孤独な少年は、もうどこにもいない。

 自分の手で組み上げた天空の城壁の上で、相棒とともに星を見上げる、揺るぎない聖域の主。

 少年の砦は、迫り来る世界の崩壊を前にして、静かに、けれど誇り高くその輪郭を天へと伸ばしていた。

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