第034話:見張り台から見えた、崩れゆく壁
晩秋の冷たい風が、原生林の梢を吹き抜けていく。
木々の葉はすでに大半が散り落ち、灰色の枝先が寒空を刺すように剥き出しになっていた。
視界を遮っていた青葉が落ちたことで、樹上の見張り台からの眺望は、夏場とは比べ物にならないほど遠くまで開けていた。
大樹の最上部、地上十五メートルのデッキ。
アルトは冷気に悴む指先を温かい息で温めながら、一本の黒い筒を手にとった。
夏に拾い集めた太い真竹を乾燥させ、節を抜いて作った筒。
この望遠鏡を作り上げるのには、途方もない根気が必要だった。
先端に嵌め込んだのは、夏に川原の瓦礫から見つけ出した「琥珀色の厚底ガラス瓶」の底だ。あの分厚いガラスの塊を、砥石代わりに使った安山岩と粗い川砂で何日もかけて円形に削り出し、中心がわずかに盛り上がった凸レンズの形に成形した。仕上げには、極細の泥水と鞣した鹿革の切れ端を使い、指が痛くなるまで擦り続けて透明度を高めたのだ。琥珀色のガラスは日光の眩しさを和らげ、輪郭をくっきりと浮かび上がらせてくれる。
手元の接眼部には、水底から引き上げたあの純銀の薄板を小さく切り、平らに打ち伸ばして鏡のように磨いた反射板を斜め四十五度の角度で組み込んである。
さらに、竹筒の内部で光が乱反射して視界が白く濁るのを防ぐため、筒の内側をカマドの煙で燻して真っ黒な煤を焼き付けておいた。
倍率は決して高くないが、遠くの景色を数倍に引き寄せて見せてくれる――アルト手作りの「反射望遠鏡」だった。
「……見えるかな」
アルトは望遠鏡を目に当て、西の地平線へと照準を合わせた。
境界線の森を越え、広大な荒野の向こうにそびえ立つ、巨大な防壁都市――オルディス。
かつて生まれ、育ち、そして半年前の春の日に、人間としての尊厳ごと投げ捨てられたあの街の姿が、円形のレンズの奥に像を結んだ。
――そして、アルトの呼吸が止まった。
「……うそだろ……」
レンズの向こうに映し出されていたのは、記憶していた白亜の要塞都市の姿ではなかった。
オルディス防壁都市を外敵から守るためにそびえ立っていた、高さ三十メートルを誇る堅固な石造りの「第一外壁」。
その南西側の巨大な一角が、まるで巨人の槌で打ち砕かれたかのように、無残に崩壊していたのだ。
外壁のあちこちから、毒々しい赤黒い炎と、天を突くような太い煤煙が絶え間なく噴き上がっている。
石造りの城壁は黒く焼け焦げ、亀裂が蜘蛛の巣のように走り、巨大な石塊がガラガラと外の荒野へ雪崩れ落ちていた。
望遠鏡のピントを合わせ、さらに目を凝らす。
街の内部から立ち上る炎は、外壁にとどまらず、都市の中央区――あの上流階級の貴族や執政官たちが住まう壮麗な宮殿の周囲にまで広がっていた。
かつて都市の夜を昼のように照らしていた、魔導灯の白く冷たい輝きは、完全に失われていた。
街全体を覆っていた淡い青色の防御結界は粉々に砕け散り、空にはただ、重苦しい黒煙の渦だけが渦巻いている。
都市の地下深くで、魔力炉が爆発したのだ。
かつてアルトが毎日、煤にまみれながら地下水道を這いずり回り、命がけで逃がし続けていた「魔力の澱み」。
少年を「魔力を持たない無能」として追放した大人たちは、その澱みを抜く地道で危険な作業を誰も引き継がず、ただ目先の利益と贅沢のために炉心に過剰な負荷をかけ続けた結果だった。
蓄積した不純物はやがて炉心の臨界点を越え、制御盤を焼き切り、防壁の基部ごと都市を内側から吹き飛ばしたのだ。
レンズの先、崩れ落ちた外壁の瓦礫の周りには、無数の小さな影が蠢いていた。
都市から逃げ出そうとする避難民の群れだった。
争い、押し合い、互いを踏み倒しながら、炎に包まれた街の外へと逃げ惑う人々。
防衛機能を失った城門では、規律を失った兵士たちが武器を振り回して暴徒を鎮圧しようとし、街のあちこちで略奪と放火の煙が上がっているのが見えた。
かつてアルトを嘲笑い、ゴミのように見下していたあの豊かな街が、今や自らの傲慢と怠惰によって、地獄絵図と化していたのだ。
…………
アルトは静かに、望遠鏡を目から離した。
晩秋の冷たい風が、頬を冷ややかに撫でていく。
不思議だった。
胸の奥に、かつて自分を裏切った街への復讐心や、ざまあみろという下卑た歓喜は、微塵も湧き上がってこなかった。
かといって、逃げ惑う人々を哀れむ同情や、かつての故郷が滅びゆくことへの悲哀も、全く存在しなかった。
そこにあったのは――ただ、氷のように研ぎ澄まされた、絶対的な「無関心」だった。
半年前、錆びた境界線の閂がガチャンと下ろされたあの夕暮れ。
アルトは泣き叫びながら、鉄格子の扉にしがみついていた。
「開けてください」「僕が何をしたっていうんですか」「置いていかないで」と、血が出るほど門を叩き、地面に額を擦り付けて許しを請うていたのだ。
あの頃の少年は、街の大人たちに認められることだけが、生きる唯一の道だと信じ切っていた。追放された後も、心のどこかで街の影に怯え、いつか兵士が連れ戻しに来るのではないか、あるいは飢え死にして街の門前で骨を晒すのではないかと、怯え続けていた。
けれど、今は違う。
シロと出会い、泥の中から火を起こし、川砂で鍋を磨き、雨をしのぐ屋根を張り、自分たちの力だけで命を繋いできた。
自然の厳しさと向き合い、木々の恵みに感謝し、森の生き物たちと信義を交わしながら生きてきたこの半年間が、少年の魂を根底から作り変えていたのだ。
「……もう、僕には関係ないんだ」
声に出した瞬間、心の中にあった最後の澱みが、サラサラと音を立てて風に溶けていくのをアルトは感じた。
街の大人たちがどうなろうと、都市が炎に包まれようと、それは彼らが自ら選んだ結末だ。
アルトの居場所は、あの冷酷な石造りの街の中にはない。
生きる世界は、この広大で厳しい原生林であり、帰るべき家は、この大樹の上に築いたツリーハウスなのだ。
足元で、シロが小さく喉を鳴らした。
シロはアルトの表情の変化を見守るように、静かな黄金色の瞳で少年を見つめていた。
アルトはシロの頭を撫でながら、ふっと小さく微笑んだ。
「大丈夫だよ、シロ。僕たちは、ここから一歩も動かない。僕たちの家は、ここにあるからね」
シロが嬉しそうに尻尾をひと振りし、アルトの手の上に温かい鼻先を押し当ててきた。
だが、安堵に浸っている暇はなかった。
街の外壁が崩壊したということは、これから先の未来に、重大な脅威が訪れることを意味していた。
都市を追われた避難民、食糧を奪い合う暴徒、規律を失った敗残兵、そして治安の崩壊に乗じて跋扈する盗賊たち――
飢えと寒さに追われた人間たちが、生存を求めて、この境界の森へと大挙して押し寄せてくるのは時間の問題だった。
これまでは「危険な魔の森」として人間を遠ざけていた原生林も、背に腹を変えられない人間たちにとっては、最後の逃げ場に見えるはずだ。
もし連中がこの森に雪崩れ込んできたら、自分たちのツリーハウスや蓄えた食糧は、格好の略奪の標的になる。
そして何より、シロの存在が見つかれば、毛皮や肉目当てに狙われるか、恐怖に駆られた人間たちに害獣として殺されかねない。
「守らなきゃいけない……絶対に、僕たちの手で」
森の外壁は崩れた。だが、二人にはこの大樹がある。
冬が本格化して深い雪で森が閉ざされる前に、この秘密基地を、ただの雨宿りの隠れ家から、何者も寄せ付けない鉄壁の【砦】へと完成させなければならない。
頭の中で、改修設計図が一気に組み上がっていく。
まずは地上のアプローチだ。大樹へと続く獣道には、棘の鋭いタラの木や野バラの枯れ枝を幾重にも絡ませた「逆茂木」を配置し、不用意に近づいた者の足を止める。
次に昇降設備。これまで手動で手繰り寄せていた縄梯子は、樹上のデッキに丸太を削り出した頑丈な「木製ドラム式ウインチ」を設置して、滑車を介してわずかな力で素早く巻き上げられるように改修する。縄梯子を引き上げてしまえば、大樹の幹は滑らかな樹皮に覆われており、どんな熟練の兵士であっても素手で登ることは不可能だ。
さらに、対岸の樹上テラスへと渡した吊り橋には、万が一の際に樹上からクサビを一本抜くだけで踏板を切り離して落下させられる「遮断ピン機構」を組み込む。
そして何より、見張り台と居住区の周囲には、落葉した枝葉を編み込んだ分厚い「目隠しスクリーン」を増設し、地上のどこから見上げても、ただの巨大なヤドリギや枯れ枝の塊にしか見えないよう完全な迷彩偽装を施すのだ。
自分たちだけの力で、知恵の限りを尽くして築き上げる絶対防衛圏。
都市の大人たちが誇っていた石造りの壁は、自分たちの驕りと不和によって崩れ去った。
けれど、二人が信頼と工夫によって紡ぎ上げるこの木の砦は、決して揺らぐことはない。
冷たい晩秋の北風が、少年の決意を煽るように激しく吹き荒れていた。
アルトとシロは、見張り台のハシゴを駆け下り、秘密基地の総仕上げ――完全なる要塞化へと向かって、力強く一歩を踏み出した。




