第020話:削り出しの木製スプーンと、二つの器
大樹の樹上の我が家は、屋根と壁、琥珀色の丸窓、そして雨水タンクが完成したことで、外見上は立派な住処となっていた。
だが、その部屋の中で食事をするたび、アルトの胸には言葉にできない小さな引っ掛かりが残っていた。
食事の時間になると、アルトは拾ってきた大きなフキの葉を敷き、その上に煮込んだ野草や砕いた木の実を盛り付けていた。
そして、手づかみで具材を口に運び、スープを飲むときは葉の端を口元に寄せてすすっていたのだ。
それは、オルディスの防壁都市で、魔力のない「無能」として残飯を漁っていた頃の姿そのもだった。
冷たい兵舎の裏で、泥で汚れた手で固いパンの屑を口に押し込み、兵士たちから「野良犬と同じだな」と嘲笑われていた、あの惨めな記憶。
「……シロ」
夕暮れ時、デッキに座ったアルトは、足元で丸くなっているシロをそっと撫でた。
「僕たち、もう手づかみで食べるのはやめよう。……ちゃんと器と匙を作って、向かい合って食事をしよう」
生きるためにただ腹を満たすだけの「動物の摂食」から、心を豊かに満たす「人間の食事」へ。
それは、奪われた尊厳を自らの手で取り戻すための、小さくも決定的な儀式だった。
翌朝、アルトは資材集めのため、対岸の森の奥へと足を運んだ。
食器を作る木材には、適当な倒木を使ってはならない。
松や杉のような針葉樹はヤニの匂いが強く、料理の風味を損なってしまうし、柔らかすぎて小刀で薄く削ると割れやすい。
アルトが選んだのは、昨秋の台風で倒れていた「ヤマザクラ(山桜)」の硬い枝と、谷沿いに自生する「ホオノキ(朴の木)」の倒木だった。
ヤマザクラは木目が緻密で狂いが少なく、水に強いうえ、削るとほのかに甘い桜の芳香を放つ。スプーンに最も適した銘木だ。
一方のホオノキは、適度な柔らかさと均一な繊維を持ち、料理の匂いが移りにくいため、器の刳り抜きに最適だった。
「よし……始めるぞ」
ツリーハウスのデッキに腰を下ろし、アルトは小刀を研ぎ直した。
シロは邪魔をしないようにアルトの膝のすぐ脇にお座りし、金色の瞳でじっと手元を見つめている。
まずは、アルト用の【木製スプーン】の製作だ。
ヤマザクラの枝を長さ六寸(約十八センチ)、厚さ一寸の角材に割り、小刀の切っ先でスプーンの全体形状を大まかに削り出していく。
――シュルリ、シュルリ。
小気味よい切削音とともに、薄い木屑が親指の腹を滑り落ちる。
部屋の中に、削り立ての山桜の甘く香ばしい香りがふわりと立ち込めた。
外形が整うと、最も難易度の高い「壺(つぼ/スープを掬う窪み)」の彫り込みに入った。
湾曲した専用の彫刻刀などない。
アルトは真っ直ぐな小刀の切っ先を垂直に当て、円を描くように少しずつ、コンマ数ミリずつ木肌を削り抜いていった。
深さは親指の第一関節ほど。
そして、何よりも魂を込めたのが、スプーンの先端と縁の「口当たり」だった。
縁が分厚いと、唇に当てた時に木が邪魔をしてスープの味がぼやけてしまう。
アルトは小刀の刃先を慎重に寝かせ、縁の厚みを紙二枚分――コンマ五ミリの極限まで薄く削り落とした。
何度も自分の唇に当てて、引っかかりがないか、唇を滑らかに通るかを確かめる。
柄(持ち手)の部分には、親指と人差し指の腹が吸い付くように収まる、人間工学的な緩やかな窪みを彫り込んだ。
スプーンができると、次は二つの【器】の刳り抜きだ。
ホオノキの太い丸太を輪切りにし、二つの木塊を用意した。
一つは、アルト用の「深めのスープ椀」。
両手で包み込んだ時に手のひらにぴったりと馴染む丸みを帯びさせ、熱いスープを入れても指が熱くならないよう、側面に程よい厚みを持たせた。
そしてもう一つが、シロ専用の【特製フードボウル(浅皿)】だった。
犬の骨格と食べ方を、アルトはこれまで何日も観察し続けていた。
人間のように手を使えないシロにとって、縁の深い器は鼻先がつかえて食べにくい。
アルトは皿の深さをあえて浅くし、内側の傾斜を緩やかなすり鉢状に削り出した。
これなら、シロが短い舌を伸ばした時に、具材が自然と中央に集まり、最後の一滴まで綺麗に舐め取ることができる。
さらに、食べている最中に勢い余って器をひっくり返してしまわないよう、底面を広く平らにし、底の厚みを分厚く残して「低重心」に仕上げた。
「ふぅ……形はできたぞ」
朝から削り始めて、陽はすでに西へと傾いていた。
手のひらには小刀の圧迫で赤いタコができていたが、アルトの心は充実感で満ちていた。
仕上げの研磨工程に入る。
川原で拾ってきた最もきめ細かい砂岩に水をつけ、スプーンと二つの器の表面を丹念に水研ぎしていく。
木肌の微細な毛羽立ちが綺麗に削り落とされ、赤ちゃんの肌のようにスベスベとした感触へと変わる。
そして、最後の命を吹き込む【オイルフィニッシュ】だ。
アルトは乾燥させておいたオニグルミの実を二つ取り出し、麻布に包んで石で叩き潰した。
布を強く絞ると、ジワリと濃厚な天然のクルミ油が染み出してくる。
その布を使って、削り上げた器とスプーンの表面に、クルミ油をたっぷりと擦り込んでいった。
――その瞬間、木肌が息を吹き返した。
油をぐんぐんと吸い込んだヤマザクラのスプーンは、しっとりとした深い赤褐色に染まり、美しい年輪の木目が浮き上がった。
ホオノキの器もまた、淡いオリーブグリーンと白のグラデーションが艶やかに輝き、陶器のような滑らかな光沢を放ち始めた。
植物性の乾性油が木の内部で硬化することで、水や油を弾く天然の保護膜が完成したのだ。
「できた……! 見て、シロ、僕たちの器だよ!」
アルトは完成した浅皿を、シロの目の前に差し出した。
シロは目を丸くし、トコトコと歩み寄ると、鼻先を器の縁にピトッと押し当ててクンクンと匂いを嗅いだ。
クルミと山桜の心地よい香りに安心したのか、シロは前足を器の縁にちょこんと乗せ、アルトを見上げて「ワンッ!」と嬉しそうに一声鳴いた。
「あはは、足を入れるお皿じゃないよ。ご飯を食べるお皿だよ」
アルトは鉄鍋でコトコトと煮込んでおいた、野イチゴとクルミの温かいスープを木杓ですくい、シロの浅皿へとよそった。
自分用のスープ椀にも並々と注ぎ、削りたてのスプーンを添える。
二畳半のツリーハウスの床板の上に、二人だけの初めての「食卓」が整った。
「いただきます、シロ」
シロは合図を待っていたかのように、浅皿に顔を寄せた。
ペチャッ、ペチャッ、ペチャッ……
計算通りの緩やかな傾斜のおかげで、シロは一度も器を倒すことなく、上手に舌を動かしてスープを平らげていく。
アルトもまた、ヤマザクラのスプーンを手に取り、スープをすくって口元へと運んだ。
――ツルリ。
唇に触れた瞬間の感触に、アルトは思わず目を見張った。
木の温もりが優しく唇を包み、引っかかりが一切ない。
コンマ五ミリまで削り込んだ口当たりが、スープのコクと香りをそのまま舌の上へと届けてくれた。
美味しかった。
葉っぱですすっていた時とは、まるで違う料理のように、身体の芯まで深く染み渡っていく。
向かい合って、同じ器で、同じ温もりを分け合う。
そこには、都市の大人たちから見下されていた惨めな少年の姿はなかった。
自らの手で暮らしを創り出し、誇りを持って生きる一人の人間の姿があった。
アルトの胸の奥から、温かいものが込み上げ、視界がじんわりと潤んだ。
だが――二人が幸福な食事を終えた直後、厳しい自然の現実が部屋を襲った。
「……っ、ハァ……ハァ……」
夏の午後、真上に昇った太陽が、ツリーハウスの屋根を容赦なく照りつけ始めたのだ。
黒く焼き締めた樹皮と笹の葉の屋根が熱を吸い込み、部屋の中の気温が急激に上昇していく。
風を防ぐために四方を板と樹皮で頑丈に密閉した構造が、完全に裏目に出ていた。
逃げ場を失った熱気が天井付近に滞留し、二畳半の室内は、息苦しいほどの猛烈な蒸し風呂へと変わっていた。
「あ、暑い……っ!」
アルトの額から、滝のように大粒の汗が吹き出し、シャツが肌にべったりと張り付く。
足元では、シロがフローリングの床にぐったりと突っ伏し、ピンク色の舌をだらりと垂らして「ハァ、ハァ、ハァ……」と荒い呼吸を繰り返していた。
全身を分厚い被毛で覆われたシロにとって、この密閉された室内の熱気は、命に関わる過酷さだった。
「シロ、大丈夫かい!? ……ダメだ、風がまったく通ってないんだ!」
西側の琥珀色の丸窓を開けても、温まった空気は部屋の上に溜まったまま動かない。
熱い空気は上へ昇り、冷たい空気は下から入る。
カマドを作った時に学んだ、あの気流の法則。
ツリーハウスの屋根の一番高い頂点に、溜まった熱気を空へと逃がす「排気口」がどうしても必要だった。
「シロ、待っててね! すぐに涼しい風を入れてあげるから!」
アルトは額の汗を乱暴に拭うと、再び小刀を握りしめ、屋根の頂点を見上げた。
夏の猛暑を乗り越えるための、新たな建築的挑戦――【天窓の設計】が幕を開けようとしていた。




