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夜になった。
和彦はアブドラ広場の近くにある、廃業したホテルの建物に身を隠していた。
広場には煌々と明かりが灯っていて、和彦の隠れているところからも、たくさんの人影が動いているのが見て取れた。
光源が学生たちの設置したイベント用のライトだと思うと、その皮肉さに和彦は唇を噛まずにいられなかった。
不幸中の幸いか、魔術師は丘を下りてはこない。
家族を人質に取られていることも知らず、町は静まり返っている。
帰りが遅いのも、サプライズイベントでもあったせいだと思われているのだろう。
そう、人質。
フォウと珊瑚はもちろんのこと、今の和彦は、町の人々を人質に取られたも同然なのだった。
このまま放っておくわけにはいかない。
と和彦が考えていることさえ、魔術師にとっては折りこみ済みなのに違いなかった。
だからこそ悠然として丘の上に陣取ったまま、和彦が戻ってくるのを待っているのだろう。
「くそう……」
和彦は呻いた。
魔術師の能力は、和彦には効かない。
一対一ならば歯牙にもかけない相手だが、人質を取られて入れれば話は別だ。
しかもその人質が、彼の武器となって和彦を襲ってくる。
そして和彦は、それらの人々を一人たりとも傷つけるわけにはいかない。
万事休すだ。
和彦は恨みがましく、左腕のリューンの腕輪を睨みつけた。
水を操る王家の力。
リューンの全ての民の上に君臨していたはずのその力が、自分たちよりはるかに下だと見なしていた相手に対して、何一つ反撃できないでいる。
何が、生物を操る力は下等なもの、だ。
そんなことを言って驕り高ぶって馬鹿にして、練習試合にさえ出さないでいるから、今になって何をどうしていいか、作戦も立てられない。
生物を操る技に、無生物を操る力でどう対抗すればいいのか。
「……待てよ」
和彦は腕輪に再び目を落とした。
水を操る和彦の技は、この腕輪のためにリューン時代よりも格段にパワーを増している。
だが、あの魔術師はリューン時代のことしか知らないはずだ。しかも彼は、和彦と直接闘った経験はない。闘技場で試合をするリューン・ノアを垣間見たことがあるという程度の知識だろう。
そこに、つけ入る隙がありはしないか。
和彦は草むらの中で身をかがめ、半ば這うようにしながら、慎重に丘への道をたどり始めた。
広場にはりめぐらされた屋台風のランプが、あかあかと周囲を照らしている。
奥のほうには例の魔神の彫刻がでんと控え、ランプの光を受けて黒々と光っている。
人々は広場の中央に集められていた。
円になって何重にも魔術師を取り囲む彼らは、相変わらず完全に精神を制御されて、人形のように微動だにしない。
しかしその静けさが逆に、いったん命令を受けたとたんに魔術師の意のままに動き出すだろうという、不気味な雰囲気をかもしだしていた。
フォウと珊瑚は魔術師のすぐ脇に立たされている。
それもまた、彼の狡猾さを思わせた。
あのわずかな邂逅で素早く、この二人が和彦の弱点だと見抜いたのだ。
いや、それもジャメリンからあらかじめ聞かされていたのかもしれない。
少なくとも、フォウのことは。
ジャメリンが最も憎んでいるのは実はリューン・ノアではなく、さまざまな場面でいつも彼の面子を台無しにする、フォウなのだから。
魔術師はやや焦っているように見えた。
人質を取ればすぐに屈服させられると思っていた和彦を、あっさり逃がしてしまったせいだろうか。
和彦の反撃を警戒して、人質を並べることで自分を守っているのがその証拠だ。
守りに入ると人は、ちょっとしたことにも動揺しやすくなる。
リューン時代にデュアル軍団との長く不毛な闘いを続けいていた和彦には、そのことが痛いほどにわかっていた。
静かに、水のありかを確認した。
広場には手洗い場が何か所も作られている。
それはつまり、地面の浅いところに水道管が埋まっているということでもある。
傾斜した土地へ水を供給するために、圧力も水量も十分に余裕をもって設計されているはずだ。
材料は十分。
和彦は水を呼んだ。
「なっ、なんだ!?」
魔術師がギョッとして大声をあげた。
いきなり広場のあちこちから大きな破裂音が響き、続いて地面から水が噴き出してきたのだ。驚かないはずがない。
その漏水が自分を取り囲む形で発生し、ものすごい勢いで上空から降り注いでくるとなれば、なおさらであろう。
身動きを禁じられている人質たちが、たちまちずぶ濡れになった。
「リューン・ノア!」
さすがに魔術師は、水が自分に向かってくることの意味を理解していた。
「どこにいる、出てこい!」
和彦は草むらの中から立ち上がった。
「おのれ!」
歯噛みしながら、魔術師が人質を見回す。
彼の目がギラリと光ると、近くにいた人間がいっせいに身を震わせ、向きを変える。和彦に向かって動き出す。
和彦は腕輪のはまった手を前方へ突き出し、念を込めた。
水が、一気に凍った。
踏み出しかけた人質たちの足が地面に張りつく。
そこから広がった氷が、たちまち全身に広がってゆく。
あっという間にどの人も、氷の彫像と化して動きを止める。
和彦は走り出した。
走りながら、新たな水を呼び寄せる。
一直線に和彦をめがけて飛んできた水柱は、手の中で氷の剣へと姿を変えた。
かなり大振りの、両手持ちの長剣だ。
それを、和彦は利き手に持ち替えて大きく振りかぶる。
人質はすべて凍っている。
魔術師もまた、凍った足が地面とつながっていて、逃げようにも逃げられない。
人質のおかげでかろうじて上半身にはあまり水をかぶっていないが、闇雲に振り回しているその両手のどちらにも、刃物ひとつ持っていなかった。
そういうところにも、彼が生粋の兵士でないことが見て取れた。
こんなとき、リューン剣士なら武器を身から離すまい。
身動きしない人質の輪を一気に飛び越え、和彦は魔術師に迫った。
足が凍り付いて動けない魔術師は、据え物斬りの的よりも容易い敵だ。
「まっ、待て! 待て、リューン・ノア!」
魔術師が金切り声をあげた。
「こいつらがどうなってもいいのか! お前が俺を斬る前に、俺はこいつらを無理やりに動かすことができるんだぞ! 無理に動かせば、凍ってる身体が砕けてしまうかもしれないぞ、それでもいいのか?」
わめきながら、魔術師は両腕でそれぞれ、フォウと珊瑚を引き寄せた。
彼らも魔術師と同じく人質の輪の内側にいたため、あまり凍ってはいない。
しかし、精神は完全に魔術師の支配下にあり、ガラス玉のような目も微動だにしない。
「砕けないとしても、俺の盾にすることはできる。お前が剣を振り下ろすのと、こいつらがお前の刃の下へ飛び込んで、俺のかわりに斬られてくれるのと。どっちが早いか、勝負してみるか?」
「くっ」
咄嗟に、和彦は剣を引いた。
飛びずさることで剣の矛先をそらす。
だが、凍った人質に囲まれていては、距離も取れない。
近距離からの剣戟になれば、どうしてもフォウや珊瑚を巻き込んでしまう。
ましてや彼らは魔術師の支配下にある。
すごい目つきで、魔術師は和彦を睨みつけてくる。
彼の術にかからないとはいえ、そのすさまじい圧力を、和彦も感じざるを得ない。
膠着状態に陥ったとみえた、なさにその瞬間だった。
『……和彦さん』
頭の中に、フォウの声が響いてきた。
ほんのかすかな、ささやきのような。
けれどなぜか、それが確かにフォウのものだと、和彦にはわかる。
『しっ。聞こえたふうな顔すんな。こいつにばれちまうだろ』
和彦は慌てて表情を引き締めた。
その間にも、フォウの声は続いて聞こえてくる。
『和彦さん、こいつとあんたの間に、八角形の氷の板を作ってくれ。大きさは適当でいいから、きっちり正しい八角形のを』
なぜだと聞き返したかったが、どうやらこの思念の流れはフォウから和彦への一方方向のようだった。
『だから、顔に出すなってば! 俺はそもそもこういうの、苦手なんだからよ。今はこいつが四方八方へ放射してる催眠電波みたいなのを利用して、あんたに話しかけてるんだ』
和彦は思わず魔術師に目をやった。
彼は両脇にフォウと珊瑚を抱えたまま、ギラギラと目を光らせている。
和彦が少しでも不審な動きをすれば、すぐさま二人を自分の盾として動かすつもりなのだろう。
その準備として体いっぱいに膨らませた思念エネルギーが、本人も気付かないまま、周囲に漏れ出しているのだ。
『早く!』
せかされて、和彦は半ば反射的に地面へ手を伸ばした。
リューンの腕輪が光り、凍った地面から氷が一気にはぎとられる。
キラキラしたかけらとなって空中へ舞い上がり、そこで再び結合する。
「おおっ?」
思いもかけない和彦の技に、魔術師も戸惑ったのか、なんの反応もできない。
その間に氷は薄く平らになり、和彦が命じたとおりの正八角形を形作った。
次に和彦の頭の中へ流れたのは、まったく意味のわからない一連の言葉だった。
言葉というより、音といったほうがいい。
ちんぷんかんぷんながら、それがフォウのよく使う霊幻道士の呪文であることはおぼろげに想像がついた。
『俺の言うとおりに、口に出して唱えてくれ!』
「わ……わかったよ、フォウくん!」
和彦は唱えた。
自分でもなんのことだかさっぱりわからない音の連なりを、高らかに。
フォウがいつもやっているように、天に向かって。
氷の板が光った。
いや、違う。
正確には板自身が光ったのではない。
魔術師が放出していたエネルギーを吸い取り、集約してから彼に向かってはね返したのだ。
「うわあああ!」
魔術師は自分のエネルギーをまともにくらい、後ろざまにふっ飛んだ。
手から珊瑚とフォウが離れる。
二人が地面に叩きつけられる前に、和彦は素早く氷の戒めを水に戻した。
間一髪、砕けることなく二人は生身の身体で地を転がった。
珊瑚はそのまま気絶したが、さすがにフォウはそこで一回転するなり、腹筋の力で強引に跳ね起きた。
「和彦さん、さすがだぜ! 破邪鏡の呪文をを使いこなすとは!」
「下がって、フォウくん!」
言葉こそ威勢はいいが、フォウは長く催眠下にあったせいもあって、足元がふらついている。
和彦はフォウを背中にかばい、改めて魔術師へ剣を向けた。
「フォウくん、二度とやつの目を見るな」
和彦は背後のフォウに鋭く声をかけた。
八ッとして、フォウも腕を顔の前へかざした。
「あ、ああ……」
魔術師はわなわなと震えている。
慌てて周囲へ目をやるが、彼を守るはずの人質たちはすべて凍り付いていて、なんの役にも立たない。
他に操れそうな生物の姿もない。
日本の市街地には、脅威になるような動物は生息を許されていないからだ。いてもせいぜい、虫か鳥といったところだろう。しかも日はすでに落ち、鳥はねぐらへ戻っている時間帯である。
「終わりだ、魔術師」
怒りを押し殺した低い声で、和彦は告げた。
「お前の名を聞かず、僕はお前を斬る……それがどういう意味を持つか、お前は知っているはずだ」
リューンの剣士ならば。
自分と対等の、正々堂々と勝負をした相手にはその名前を問う。
そうすることで、命を失うとしても名前が残る。
それを尊ぶのがリューンの騎士道だ。
魔術師が憤怒の形相になった。
「き、きさま……リューン・ノア! よくも、よくもそんなことを……この俺に!」
「そうだ。僕はリューンの騎士、リューン・ノア。そしてお前は、罪もない人々を自分の戦いに利用した、名もない卑怯者だ」
今度こそ、魔術師は言葉を失った。
わなわなと全身を震わせ、拳を握りしめる。
一度は和彦へ殴りかかろうとしたらしいが、途中でその気力を失ったのか、たたらを踏んでみっともなく転びかけた。
転びそうになったのは、魔術師だけではなかった。
「うわっ」
和彦の背後で、急にフォウがすっ頓狂な声を上げた。
振り返ると、フォウも足をふらつかせて転びかけていた。
和彦がすかさず手を差し出して支えなければ、頭から地面に激突していたところだ。
フォウは空間の歪みに弱い。
魔術師の上空の星空がゆらりとまたたいた。
と見るやそこがぐにゃりと歪んで、黒々とした穴に変じた。
中から飛び出してきたのは、マントをひるがえらせた巨漢の剣士だった。
「ムルス!?」
「すまんな、リューン・ノア。だが、こいつをお前に倒されると、俺の寝覚めが悪くなるのだ」
ムルスは魔術師を乱暴に引き起こして背中にかばった。
片手は刀の柄にかかっているが、それもポーズだけ。
本気で闘うつもりではないと、目つきが言っている。
申し訳なさそうにも見えた。
「確かに、己の力を使ってのし上がろうとしたのは、こいつの勇み足だ。リューンの陣営を勝手に離れてジャメリンの配下になったのも、こいつが悪い。だが……皆に認められたいというこいつの思いを利用したのはあのクソ野郎のジャメリンだし、ジャメリンにつけこまれるきっかけを作ったのも、あのとき何がなんでもこいつを取り戻そうとしなかったのも、俺の落ち度だ。なによりも」
ムルスはしゃんと背を伸ばし、きっぱりと言ってのけた。
「なによりも、こいつは俺の大事な部下の一人だからな」
「ム……」
魔術師が息を呑んだ。
「ムルス、さま……」
あんぐりと口を開いて、自分の前で対峙しているムルスと和彦を、等分に見比べる。
その眉が八の字に垂れさがり、泣き笑いの表情になった。
よろよろと身を起こす。
「レオン、お前には城に戻ってからきついお仕置きをくれてやる」
その姿を肩越しに見やって、ムルスが言った。
言葉の内容とは違って、口調は温かかった。
「さあ、俺と一緒に戻ろう」
レオンと呼ばれた魔術師は、しかし、返事をしなかった。
唇を噛みしめてしばらくうつむいていたかと思うと、キッと顔をあげるなり、大きく飛びずさった。
「レオン!」
「いいんです、ムルス様」
道化の化粧が涙で崩れて、頬で縞模様を作っていた。
ますますおどけた顔つきになったその男は、いかにも小バカにしたように、その場でくるりと回ってみせた。
「俺には、あんたに情けをかけてもらう値打ちがない」
「レオン……」
「違う!」
魔術師は急に声を荒げた。
「俺はそんな名前じゃない。リューン・ノア! 貴様も、覚えておくがいい。俺の名はアブドラ。大魔術師、アブドラだ!」
鋭い声でそう叫ぶと、魔術師はバッと派手なアラビア風の上着をその場に脱ぎ捨てた。
うわっとフォウが声をあげたので、ようやく和彦も彼の衣装の下の、その異様ないで立ちに気付いた。
魔術師の腹の周りには、ぐるりと円筒状のものがしばりつけられていた。
その形状や色合いには、和彦も見覚えがあった。
剣での一騎打ちを基本とするリューン軍団が、デュアルとの戦いでやむなく投入した戦闘用の爆弾である。
本来は相手に投げつけるために開発されたのだが、実際の戦闘では、自分もろとも敵陣へ突っ込んで自爆する使い方をする者が後を立たず、和彦はそのたび胸を痛め、使用禁止を申し渡したものだった。
その自滅兵器を、彼は身にまとっている。
「やめろ!」
「バカな真似をするな、レオン!」
ムルスと和彦が交互に呼びかけても、レオンの顔に浮かんだ決意の表情を変えることはできなかった。
「いいか、貴様ら。これが大魔術師アブドラの、一世一代の最後の大魔術だ。俺の姿を、目にやきつけておくがいい!」
無造作に火をつけた一本を身体からむしり取り、レオンはその発射口を地面に向けた。
たちまちものすごい勢いで煙と炎が噴き出し、レオンの身体はその反作用で宙へ飛び上がった。
まっすぐに、夜空の真ん中を突き抜ける勢いで上がっていく。
みるみるうちにその姿が小さくなる。
やがて。
華々しい爆音と共に、火花が辺りへ散らばった。
爆発は一回ではおさまらず、二度、三度と新たな破裂音が響き、そのたびにまばゆい火花が夜空を色どり、地上を明るく照らし出した。
あのアブドラの像も、照り返しを受けてさまざまな色をまとっている。
色とりどりのその火球は、まるで。
「花火みてえだ……」
フォウがぽつりと呟いた。
和彦も頷いた。
ああ、でも。しかし。
この世に、これほど哀しい花火があるものだろうか。




