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「ふむ」
一声唸って、氷浦教授が学会誌を閉じた。
「どうしました、父さん。お目当ての研究が見付からなかったんですか?」
「まあ、私のお目当ての分野は、そうそう論文が出てきたりするものじゃないからねえ」
和彦からドリップしたての食後のコーヒーを受け取りながら、氷浦は苦笑してみせた。
氷浦教授自身は自分の研究分野を「空間物理学」と呼んでいる。
だが、一見平凡そうなネーミングとは裏腹に、その実態は平行宇宙の研究というエキセントリックなもので、それゆえに彼は、主流の学会からは遠ざけられている。
「それでも毎月あれこれ雑誌を取り寄せて隅から隅まで読むんだから、こりゃもう趣味の領域ですよねえ」
親子のやり取りに、フォウが口を挟んできた。
「しかも教授ときたら、面白い論文を見つけたといっては俺にまで読ませようとするんだから。趣味は釣りとかプラモとか、もっと穏便なものにしといてもらいたいですよ。おっと、だからといって俺は、教授と一緒に海釣りに行きたいとかガンプラを作りたいとか、そういうわけでもないですからね」
おどけた口調でフォウが混ぜっかえすので、皿を片づけていた和彦までが噴き出してしまった。
和気あいあいとした研究所の夕食時。
午後に和彦が町の郵便局から受け取ってきた小包を、氷浦はずっと食後の楽しみにと開封せずに置いていた。
所長一人所員一人だけの研究所とはいえ、毎日のルーティンを崩さないのが氷浦のポリシーである。
夕方まで研究を続け、家事をこなして、夕食を終えてからが自由時間。
満を持して小包から取り出した最初のものが、学会誌の最新号だったのである。
「お目当てというか、興味深いものは見つけたよ」
氷浦教授は学会誌をもう一度取り上げ、目次の部分を広げて名前の一つを指さした。
興味津々でまっさきにのぞきこんだフォウが、享受の指の先にある文字を見たとたんに顔をしかめた。
「げっ。キースの野郎じゃないですか」
キース・メックリンガー。
フォウをこの研究所に送り込んだ張本人である。
フォウにとっては不本意なことに、彼の命の恩人でもあったりする。
にも関わらず名前が出ただけでこれほど嫌がられるあたりで、彼の人となりがわかろうというものだ。
「あんな野郎の研究なんか、目を通すこたあないですよ。どうせいつもの調子の口八丁手八丁、思い付きの出まかせで相手をケムに巻くばかりなんですから」
「いやいや、そう馬鹿にしたものでもないよ」
氷浦は大真面目で首を振った。
「私もざっとサマリーを見ただけだが、巷で催眠術と呼ばれる舞台芸術について、宗教における集団幻覚との比較によって心理学的に考察した、非常に面白い内容のようだ。黒魔術や悪魔払いの虚実にも言及されていて、霊幻道士も話題に出てくる。よかったら君も後で目を通してみるといい」
「ちぇっ。冗談じゃないですよ」
フォウは大げさに手を振り回した。
「霊幻道士って要するにあいつ、俺のことをネタにしてるんでしょ? そんなもん、目にも入れたくもねえ。だいいち、サーカスの舞台でやってるようなエセ催眠術師と俺たち道士をいっしょくたに論じてるってとこが、まずは大間違いじゃないですか」
「いっしょくたというか、彼の専門分野は超常心理学だからね。そちらの面からさまざまな現象にアプローチしたというところだろう」
「言っときますけど、世の中で催眠術って呼ばれてるものの大半は、詐欺ですから」
フォウはわりと本気で怒っている。
「大道芸だけじゃなくて、学問の領域ってことになってるやつも大差はないですよ。なんですかあの退行療法とかいうやつは。治療者が狙ったとおりのデタラメな記憶を、自分で思い出したと患者に誤解させてるに過ぎない。それに、人の記憶や心の中へ、他人がそんなふうに土足で踏み込むような真似をすることだって気にいりませんよ。ましてや、それを捻じ曲げたり、自分のいうことを聞かせるために使うなんて!」
「落ち着きたまえ、フォウくん」
苦笑まじりで氷浦がなだめた。
「君が職業柄、人間の精神に関わる話に厳しいことは私にもわかるよ。しかしキース君も、これが専門だからね。もちろん彼も、大道芸としての精神干渉については真っ向から批判している。そのうえで、その学問的な意義や側面について独自に考察しているわけだから……」
「学問、ですか。<心惑わし>が?」
口を挟んだのは和彦だ。
氷浦とフォウの学術的な話に和彦が入ってくることは珍しい。フォウも驚いて顔をあげた。
その顔の前に新しく淹れ直した紅茶のポットを差し出し、和彦はやや照れくさそうに笑った。
「いや……リューンでは、人の精神を操ることを学問として考えたりしなかったからね。どちらかというと、得体の知れない魔法として忌み嫌われていた。もしリューンの町で、誰かがそんなものを前面に出して大道芸をしたとしたら、石を投げられるくらいではすまなかっただろうと思って」
「ひでえなあ、それ」
フォウが眉をしかめた。
「霊幻道士の仕事だって、人の心を扱ってるという面があるんだぜ。てことは俺もリューンに行ったら、石を投げられて軽蔑されるってわけかい」
「君のは大道芸じゃないし、君の技は死者の魂に対して行われるものだろう?」
和彦が反論する。
「僕らは来世だの転生などという思想を持たなかったけれど、死者のよみがえりを恐れる文化はあったし、鎮魂のための巫女という職業もあった。だから、君はリューンに来たとしても、尊敬される存在になったはずだ」
「なのに、生きてる人間が相手だとダメなわけ? 同じような技なのに? わっかんねえなあ」
「いや、私にはわかる気がするよ」
氷浦教授が腕組みをして言った。
「君もさっき言ったように、人間というのは元々、自分の心に干渉されることを嫌うものだ。人が魔術に対して抱く恐れは、ともすれば排斥という形になって現れる。だが……リューンは過酷な自然の星であったがために、無生物を操る超常能力がもてはやされたのだろう。最初は、そういう能力を持つ者が一群のリーダーとなる。それが文明の進化と共に特権階級となり、王族貴族を名乗るようになった。そうなれば、ことさらに自分たちの能力を神聖視し、そうでないものを排斥するようになる……」
「なるほどねえ」
フォウもしかつめらしく自分の顎を撫でた。
「つまり、問題は生者か死者かということじゃなくて、支配者階級と違う力を持っているがために、それを貶めなきゃいけなかった、ということですか」
「潜在的な脅威は、被差別階級に押し込めてしまう。残念なことだが、この地球上でもあらゆる民族が行ってきた所業だよ」
「しかし、リューンでは……」
和彦がためらいがちに言った。
「たまに生まれる、生物の心を操る力を持つ者は……下級兵士として取り立てられるきまりになっていました。彼らは動物を意のままにできるということで、重宝されてもいましたよ。たとえば、集団戦闘のときに乗るマーチャという馬に似た騎乗用動物の世話は彼らに任されていましたし、平民の間では、それを出世と考える家庭のほうが多かったですね」
「動物だけかね。それはもったいない」
「他に、どんな使い方がありますか」
「どんなって、お前……」
氷浦は面食らって己の養子をまじまじと見つめ返した。
「闘いの場ではもちろんのことだが、たとえば政敵の考えを変えさせるとか、市民を味方につけるとか、私だったらたちまち数十の使い方を思い付くがね。文化のタブーというやつはすごいものだな。リューン人はその能力を軽蔑すべきだと思い込んでいるために、有効な活用法も見出せなかったということか。いやあ、私がキース君だったら、これで次の論文を書くところだよ」
最後にキースの名前を出したのは明らかに、氷浦教授がこの話を笑いに紛らわせて終わりたいという意思表示だと、フォウも理解した。だから、多少は歪みながらも声を合わせて笑ってみせた。
何よりフォウは、和彦にリューンの話をさせたことを後悔していたし、その気持ちは氷浦も同じだったろう。
和彦にとってリューンのあらゆる思い出が忌むべきものであることは、彼らにとっては、いまさら口にするまでもない常識の範疇だ。
「とりあえず、俺を操るにはなんの特殊能力もいりませんからね。うまいメシを出してもらえたら、もうそれだけでどんな仕事だってやっちゃいますよ。和彦さん、今晩のメニューはもう決まってる? 俺、手伝おうか?」
「あー……じゃあ、レタスを洗ってもらおうかな……」
「和彦、それはやめておきなさい。前にフォウくんがキュウリを洗ったときは、力を入れすぎて全てのキュウリをバキバキに折ってしまったじゃないか」
氷浦教授が慌てて止めた。
なぜか料理に関わることには異常なほどに不器用なのが、フォウという男の不思議である。
「教授ぅ、ひでえなあ。俺だってレタスくらい洗えますよ。それに、レタスは洗ったって折れたりはしないでしょう」
「折れはしないがバラバラにはなるよ」
「だってレタスは、食べるときにはバラバラにして盛り付けるじゃないですか。洗ったときにバラバラになったところで、食べやすくなって御の字でしょ」
「それは、どれくらいバラバラにされるかによる……」
「和彦さん! 脇からよけいな茶々入れない!」
そう言いながらもフォウは真っ先に笑い崩れ、つられて和彦や氷浦も笑い出した。
笑いながら三人で茶器を片づけ、和彦は夕食の仕込みへ、フォウと氷浦は研究の続きへと戻った。
精神操作に関するこのたわいもない話はすぐに三人の頭から消え去り。
和彦とフォウがそれを思い出したのは、かなり切羽詰まった状況に陥った末のことになる。




