アイリス
アイリスの空気が変わった。
国境を越えてエマーンに入ったあたりから、急速に大人の空気を漂わせはじめたんだ。
……見た目は今までだって、若いとはえ大人の女性だった。
だけど今までは、当人が幼子のようだったため、大人って感じがしなかったんだけど。
なんで?
なんで急に成長をはじめたんだ?
「……」
森林公園にたてたテント。
俺の横で眠っているアイリスを見ていると、頭の中で声が響いた。
『ハチ』
『マザーか』
『ああ、そうさ。
内緒話をしたいんだろ?
だったら、こうして通信で話さないとね』
脳内に広がった映像で、マザーはにっこりと笑った。
アイリスに聞かせないため、マザーとの会話は通信で。
目の前にマザーの映像は浮かんでいるが、これは単にデータリンクの結果だ。
実際に空中にマザーの映像が浮いているわけではない。
『アイリスにはね、足りないものがあったのさ。
それが満たされた、そういうことさ』
『マザー……それはいったい?』
『まぁ平たくいえば、あんたの相方としての準備さね』
『俺の?』
『そうさ』
マザーは楽しげに笑った。
『はじめに言ったろ?
アイリスはあんたのために作ったってね。
だけど目覚めたアイリスは、体こそ大人だったけど、性格はまるで子供だった。そうだろ?』
『ああ……つまりそれって、精神的な成熟が足りなかったってことだろ?』
『そこが少し違うのさ』
マザーは俺の言葉を軽くさえぎると、アイリスに目をやった。
『ハチ、あんたは一度死んで、わしの手で生まれ直した存在だ。
だけど、体はそうでも心は違う。
あんたの心は地球人であり、わしの作品ではない。これはわかるね?』
『ああ』
『けどアイリスは違う。
地球人ではなくて、わしの作った存在だ。
そのままでは、あんたの相方にはなりえなかったんだ』
ん?どういうことだ?
『よくわからないけど、別に異星人だろうが何だろうが』
『そりゃあ単に仲良くしたり女として機能的に役立てるだけなら、充分足りるだろ。
事実ふたりは、そうやってきた。
だけどアイリスには役目がある。
それは──あんたのために存在することさ』
『俺のために──存在する?』
『ああ……青臭い言い方をすれば、かけがえのないオンリーワンってやつだねえ』
クスクスとマザーは笑った。
『でもそれは』
ああ。
自分だけの、生涯ただひとりのオンリーワン。
男なら、いやもしかしたら女でも──ひとなら誰もが、一度は考える事だよな?
だけど。
『興味深い話だけどマザー、アイリスは一個の人格ある存在だぞ?』
『言いたい事はわかるよ。
「あなたのためにうまれてきたの」なんてのは物語の中だけにいるもの。
そう言いたいんだろ?』
『ああ』
俺は運命だの何だのを信じる種類の人間ではない。
そして民主教育を受けた現代の日本人だ。
すべての人は性別すら越えた対等な個人だと考えている。
だが、対等な個人であるって事はすなわち、物語のような夢の結婚はありえないって事にもなる。
なぜなら、個人主義の世界では誰もが、自分という物語の主人公だからだ。
誰もが主人公の物語に、運命のパートナーはいない。
もちろん、そんな世界でもお互いに認め合い、共に歩く者もいるだろう。
だけどそれはいわば、主人公同士が手をとりあった姿。
どちらかがどちらかに随行し、手助けするものではないんだ。
『ああもちろん、そりゃそうだし当然だろう……って、ちょっとまてよマザー』
まさかと思った。
俺はマザーと眠るアイリスの間に、目を走らせ続けた。
だけどマザーは、得たりと笑うだけだった。
『そうさハチ、あんたの想像どおりさ。
アイリスはほんとうの意味で「誰かのためだけに作られた」存在なのさ。
それもハチ。
あんたのためだけにね』
『……』
俺は絶句してアイリスを見ていた。
その背後から、からかうようなマザーの声が響いた。
◆ ◆ ◆ ◆
目覚めた意識は明瞭だった。
今までの自分。
新しい自分。
自分の生まれた意味。
そして──あのひとのこと。
そう──わたしは、あのひとのためだけに生まれてきた。
パパと呼んだのだって、ちゃあんと意味がある。
彼は奥さんどころか恋人すらも作ったことがない。
過去にいた最も親しい女性も家族や親戚だけだし、そもそも同年代の身内もいない。
だけど。
その人たちすらも、この世界には存在しない。
だから、わたしは彼を『パパ』と呼ぶのだ。
特別な意味をこめて。
ここは異世界。
かりにお館様──彼がマザーと呼ぶあの方が宇宙にあがり、地球に連れて行ってくれたとしても……そこは彼の地球ではない。
そこに彼の大切な人たちはいないのだ。
わたしは彼のため、あのひとのためだけに生まれてきた。
あのひとこそすべて。
だから彼が心の底で求めてやまぬ、大切な人々の代わりとなる。
わたしは彼のパートナー。
決してはなさない。
決してはなれない。
それがわたしの使命──そして願い。
『アイリス!』
ああ彼が呼んでいる。
わたしが覚醒しつつあるのに気づいたんだ。
目を開いた。
「アイリス!」
「パパ」
わたしは、手をさしのべた。
今こそ。
そして。
わたしは彼のものになって。
彼はわたしのものになった。




