アリよりのナシ
しっかし生臭っ。
男子更衣室だけじゃなく、臭いはプールエリア全体を覆いつくしている。
ねぎまと2人、昼休みにプールを訪問した。
プールサイドを歩きながら「このプールの水って雨水かな」って話をして。
「クルージングデートにぜんぜん行けない」って笑い合って。
目を洗うところや、シャワーのところなんかを歩く。そこは周りからの死角。
「壁ドン」
ふざけて、ねぎまの頭の横の壁に左手をつく。
「ふるーい」
至近距離で見つめ合う。ねぎまは168センチと女子にしては長身。顔が近い。
唇も近い。
絵的には、男が屈んだ方がいいんだろうけどさ、屈んだら胸に行く。
ちゅっ
ぽってりした唇の感触。
ちゅっ
下唇にキス。
ちゅっ
顎。
これ、行けるんじゃね?
ちゅっ
首。
すっとねぎまのシャツの襟元から、中指を入れて鎖骨を触る。
どきどきどきどきどきどき
お、行ける。
ねぎまは普段、ボタンは1個開け。2個目のボタンに触れたそのときだった。
ぱたん
ドアの開く音がした。
そして2人分の足音。
「いい天気だね。お昼、外で食べよ」
「百田さん、今度さ、横浜案内して?」
ももしおとゼットンの声だった。
オレは続きをしたかったんだけど、ねぎまは、ささっとシャワーコーナーの壁から2人を覗いた。
はー。いい感じだったのに。
「2人で観覧車とか乗りたいね♡」
なんだかももしおが可愛いことを言ってるじゃん。
ミナトのように品がいいわけじゃない。ねぎまとオレは、2人の話に耳を傾けた。
「いーね、観覧車」
「ランドマークタワーも。善財くんの学校探そうよ」
「見えるかな?」
「東京の方も見えるもん。初めて会った場所も、きっと見えると思う」
「え?」
「善財君は気づいてないけど、私は善財君のこと知ってたの」
「どっかで会った? ごめん。覚えてなくて」
これって、ももしお、株主総会のこと言おうとしてるんじゃね?
「**ホールディングスの株主総会」
言った。
「え」
「善財君、いたよね?」
「……いた」
ゼットンは答えるまでに間があった。そんなに躊躇うこと?
兄の話じゃ、Z高はそーゆーの気にしないっぽかった。ひょっとしてゼットン、人に言いたくないくらいの大株主だったりして。
「きゃー♡ やっぱり。
今、日経平均どころか、世界中で株安だけど、善財君はどうしてる?」
ももしおがとびっきり嬉しそうな声を出した。
「いや、ただ、見学に行っただけだから……」
ゼットンの答えはももしおをがっかりさせたんだと思う。
「え、株主じゃないの?」
「父を見に行ったんだ」
「お父様を?」
「データ改ざんで、大勢の前で頭下げるとこ見たかったんだよ。
家じゃ横柄で、オレのこと見下して。テニスでどれだけ結果出したって認めてくれない。学業だけしか評価しないヤツなんだよ。努力じゃなく結果主義。平日も夜遅くて土日も家にいなかったのに。
ザマーミロって思った。
大勢の前で頭下げて。ヤジられて、罵倒されて、イイ気味だったよ」
あー、ゼットン、父親と上手くいってないのか。へー。
モテ校でZ大へエスカレーター、テニス巧くて、イケメンでも悩みってあるもんなんだなー。
オレの感想を余所に、ももしおは2オクターブくらい低い声を出した。
「は? 何?」
びっくり。ボイスチェンジャーでもこんな声にならねーよ。
「……」
あまりの変化にゼットンは無言。
「善財君って、厨二? ってか、厨二病はもっと可愛げあるよね。
会社人間になんか問題ある? 何年か前までは、それが企業戦士の働き方でしょ。頭下げたってことは、**ホールディングスの重役ってこと。そこまで上りつめる努力を見てないくせに、自分は努力を見て欲しいって?」
「……」
「善財君とは株とか経済とか共通の趣味で盛り上がりたかったの。でも、アリよりのナシかな」
ナシかよ。
「百田さんっ」
「善財君、そろそろ授業行けば? 結果じゃなくて努力なんでしょ?」
ももしお、お前もな。
一人分の足音がだんだん小さくなっていく。
ガタっとプールの壊れたフェンスの部分に手を掛ける音が聞こえた。
「百田さん、好きだ!
また、LINEしていい?」
は? 何それ。ゼットン、フラれたんだって。
「テニスがんばってね」
ももしおは告られたことはどスルー。
「株と経済の勉強してLINEするから。じゃ」
とんっと横向きの教壇に下りた音がした。
すげー。ゼットン、諦めてねーじゃん。あの鋼の心がテニスを強くさせるのか。すっげーメンタル。
オレ、自分が今一つテニス弱い理由が分かった。
普通の人間だったら、あの場面で告れねーって。でもって、涙の退場だって。
「シーオリン♪」
いつの間にか、隣にねぎまがいなかった。
ねぎまはももしおの目の前に立っていた。
「マイマイ」
「がんばったね」
がばっとねぎまはももしおを抱きしめた。
は? あれが? ってか、何様ってフリ方だったよな。
オレは男の味方だ。思わず飛び出してしまった。
「ももしお、告られたら、基本『好きになってくれてありがとう』じゃね?」
「は? 何言ってるの。宗哲クン」
ねぎま、怖っ。
「……」
「シオリンはね、ちゃんとオブラートに包みながら断ったの」
オブラート? 「アリよりのナシ」が?
ももしおはねぎまに抱きしめられながら、こくこくと頷いている。
「そうですか」
怖さに畏まるオレ。ねぎまは続けた。
「そうなの。あんな、しつこい男に『ありがとう』なんて言ったら、ストーキングされちゃうでしょ?」
「はい」
現にLINEする予告してたもんな。
ねぎまの腕の中で、ももしおは勝ち誇ったようにオレを見た。片眉が上がって、目は半開き、唇の両端はしっかりと上がっている。
くそっ。
ねぎまとオレの間には、ももしおが立ちはだかっている。
ねぎまはももしおに心を痛め、助けるために尽力する。デート時間は割かれる。
ももしおが突拍子もない問題を持ち込み、クルージングデートは延期状態。
ももしおがバドミントンを上手いせいで、バド部の練習はハードになった。ねぎまは副部長まで押し付けられて。2人での旅行もままならない。
絶対にペンギン問題をクリアして、ももしおをバド部に戻してやる!
オレは固く決意した。
夜、ももしおがスイカの世話をし、ミナトとタケちゃんとオレがスイカをモケ山動物園に置いてくる方法を試行錯誤しているときだった。
コンコン
男子更衣室のドアをノックして入って来たのはねぎま。
「シーオリン♪」
「あ、マイマイ」
「喜久屋のババロアケーキ。食べる?」
「嬉しー。マイマイー」
がばっとももしおがねぎまに抱き付く。
危ねーって。ババロアケーキが崩れるじゃん。
「シオリン、子育てが大変で、ちっとも食べ歩きできないでしょ? だから持ってきたの」
きっと、ももしおの恋が終わったから。元気づけたいんだと思う。
ねぎまのこんなとこが好き。
「お、ケーキか。包丁、洗うてくるわ」
タケちゃんが包丁を洗ってきてくれた。
箱を開けると、ケーキの甘い匂いが……魚臭さにかき消されて分かんねーし。
6等分して、ももしおは2切れ。
「食えよ。ももしお。ま、ゼットンの残念会ってことで」
オレが言うと、ねぎまからキッと睨まれた。さーせん。
「残念会?」
「ゼットンの残念会ってなんや?」
ミナトとタケちゃんが反応。
「んーっとね、もう善財君はここに来ないと思う。私が『アリよりのナシ』って言っちゃったから」
ちょっとしゅんとした顔でももしおが報告した。
「告られたんか?」
タケちゃんの質問に、ももしおは黙って頷いた。
「元気出せって、ももしおちゃん。ババロアどーぞ」
ミナトが紙皿にババロアを2切れ載せて、ももしおに差し出した。
「善財君、株やってないんだって。だからドル円の話もアメリカと中国の話も乗ってこなかったんだね。
今の世界同時株安がいつまで続くのか意見を聞きたかったのに。善財君がどうやってここを乗り切ろうとしてるのか聞きたかったのに。どんな投資スタイルなのか、米株はどうか、インド経済はどこまで伸びるか、東シナ海の問題や資源開発はどうなるのか、イタリア発EU危機が起こるのか、いっぱい話したかったのに」
ももしおの頭ン中って、どーなってんだよ。経済評論家か時事放談のじーさんとでもつき合えよ。
それにしても。
「へー、まだ株安が続いてるんだ」
とオレが一言。そしたら。
「そーなの! この間宗哲君が米国債買ったらって言ってくれたじゃん。それでね、リーマンショック後の過去の米国債の金利とか、イールドカーブとか、購入するときに必要なドル円を調べたわけ。
ホントに今、とんでもない米国債のバーゲンセールだったの。普通はアメリカの金利が上昇するときって、ドルが強くなるわけじゃん? だからドル高円安で。結局、円をドル転して米国債を買うと、為替と金利が相殺されて、お得感はなかったの。だけど、今は、ドルがそこまで強くはなってないの。だって、デマだろうけど、アメリカが米国債をデフォルトにするかもしれないなんて噂があるほど中国との問題が深刻ってことじゃない。中国製品と中国市場を無視しての経済発展なんてあり得ないもん。
だからね、買っちゃった、米国債」
雪崩のように話すももしおに、ドン引き。
ももしおって超絶美少女だけどさ、株や経済の話したら、男からは、アリよりのナシだな。




