三話
「お客様の忘れ物ですか?」
深夜零時すぎ。終電が走り去った後の事務室で、八木沢はカウンター越しに首をかしげた。
改札の前に立っていたのは、昨日『定期券』の更新を終えて異世界へ帰ったはずのエルザだった。今回は黒いローブではなく、紺色のブレザーにチェックスカートという、どこからどう見ても日本の女子高生にしか見ない制服姿だ。
「エルザさん……その格好は?」
「『目立たないように』とこちらの教本(ファッション誌)で学んできました! それより八木沢さん、大変なのです!」
エルザが事務室のカウンターにドサリと置いたのは、古びた革製の小さなトランクだった。
「これ、あちらの世界の『王立図書館』の閲覧室に落ちていたのです。開けようとしても強力な封印がかかっていて……ですが、裏面を見てください」
八木沢がトランクをひっくり返すと、そこには見慣れた銀色のステッカーが貼られていた。
『○○線 遺失物管理タグ:保管番号 8042』
「うちの駅の落とし物タグじゃないか! なんで王立図書館に……」
「おそらく、数年前に境界が大きく開いた際、こちらの保管庫から異世界へ落ちてしまったのだと思います。持ち主の強い執着を感じます……このままではトランクに宿った念が暴走してしまいます!」
「いや、念の暴走以前に、落とし物の長期未返還は鉄道会社の管理責任問題だ。すぐに照合する!」
八木沢は事務室の業務用端末に向かい、データベースを検索した。
『保管番号 8042』――検索結果が表示される。
「あった……三年前の雨の日。忘れ主は『九条 さゆり』さん。当時、82歳。遺品整理の最中に見つかった古い日記帳と、小さな鍵が入っていたらしい。……あ」
八木沢の手が止まった。データベースの備考欄に、小さく注記が添えられていた。
『ご遺族より連絡あり。持ち主の九条さゆり様は、一昨年ご逝去』
「そうか……もう、持ち主の方はお亡くなりになっているんだな」
事務室に静寂が落ちる。エルザが悲しそうに目を伏せた。
「では、このトランクはもう、誰にも届けられないのですか……?」
八木沢はしばらく画面を見つめていたが、胸ポケットからペンを取り出すと、カチリと音を立てて芯を出した。
「……いや、遺失物取扱規程第14条。『持ち主が死亡している場合、権利は正当な相続人に承継される』。ご遺族の連絡先が残っている。届けるよ」
二人は深夜の街へ飛び出した。
住所を頼りにたどり着いたのは、駅から少し離れた静かな住宅街にある一軒家だった。庭には手入れされたアジサイが咲いている。
「ここだ。……でも、もう夜の十二時半だぞ。突撃するわけには――」
その時、トランクがカタカタと激しく震え始めた。
表面の革が黒く変色し、隙間から禍々しい紫色の煙が立ち上る。
「八木沢さん、危険です! 持ち主の『逢いたい』という執念が、異世界の魔力と反応して『未練の悪霊』化しつつあります!」
「くそっ、ここで暴れられたら近所迷惑どころじゃない!」
トランクから伸びた煙が渦を巻き、人型を形作り始める。それは車椅子に乗った老婦人の姿をしていた。悲しげな顔で、固く閉ざされた玄関ドアを見つめている。
『……あの子に……渡さなきゃ……約束の……』
「落ち着いてください! 魔法で浄化します!」
エルザが杖を構えようとしたが、八木沢がその手を制した。
「待て! 払う(攻撃する)な! あれは怪物じゃない……ただの『乗客の想い』だ!」
八木沢は背筋を伸ばし、駅員としての正しい姿勢で霊の前に進み出た。そして、丁寧なお辞儀をした。
「九条さゆり様。大変お待たせいたしました。○○駅遺失物取扱所でございます」
霊がピタリと動きを止める。
「お預かりしておりましたお荷物、確かにお届けに上がりました。長らくお時間をいただきましたこと、深くいとお詫び申し上げます」
八木沢はトランクを抱え、エルザに向かって叫んだ。
「エルザさん! トランクの封印を解除してくれ! 攻撃魔法じゃない、解錠のコードだ!」
「解錠……!? ええと、あのトランクの回路は『未練』で固まっています! それを解くには、持ち主の心を開く『鍵』が――」
「鍵ならここにある!」
八木沢はデータベースの記憶を頼りに、朗々とした声で呼びかけた。
「九条さゆり様! あなたが探していたお孫さんの『結婚祝いのペンダント』……このトランクの中に、ちゃんとおさまっております!」
『……あっ……』
老婦人の霊の顔から、すっと険しさが消えた。
トランクを縛り付けていた紫色の煙が、あたたかな金色の光へと変わっていく。
「今です、エルザさん!」
「はいっ! 『開錠』!」
エルザの杖から放たれた光がトランクの鍵穴に飛び込んだ。
パチン!
金属音が響き、トランクの蓋が静かに開いた。
中から飛び出したのは、無数の光の粒子と、一通の手紙、そして小さな銀のペンダントだった。
光の粒子は優しく玄関の隙間から家の中へと吸い込まれ、二階の部屋の窓をほのかに照らした。二階の部屋の電気があたたかく点灯するのが見えた。
車椅子の霊は、満足そうに八木沢とエルザに向かって深々と頭を下げると、夜空の星の中へと静かに溶けて消えていった。
静けさを取り戻した住宅街。
庭のポストの中に、トランクに入っていた手紙とペンダントをそっと納め、八木沢は胸をなでおろした。
「届いた……のかな」
「はい。間違いなく、想いは伝わりました」
エルザがふふっと微笑んだ。
「八木沢さんはすごいです。怪物と戦う力はなくても、人の心とルールを守る力を持っている」
「ルールを守るのが駅員の仕事だからね。……さて、長居すると不審者で通報される。駅に戻ろう」
ふたりは並んで夜の道を歩き出した。
東の空が、うっすらと白み始めている。
「八木沢さん」
「ん?」
「私、こちらの世界のこと、もっと知りたくなりました。次は『立ち食いそば』という高エネルギー燃料の摂取法を教えていただけますか?」
「……それ、ただお腹が空いてるだけだろ」
「正解です! おごってください、技師長!」
「だから技師長じゃないって言ってるだろ」
朝一番の始発電車が、遠くでガタゴトと街を起こす音を立て始めていた。




