二話
「……で、八木沢君。この『システムエラー:異界接続ログ(未定義)』っていうのは何の冗談だね?」
翌朝の九時。駅長室の冷房が寒々しく唸るなか、八木沢は固直していた。目の前で五十代の駅長が、モニターに表示されたエラーログを指でつついている。
「あー……それはですね、深夜のシステム更新テストの際に、少しノイズが混入しまして」
「ノイズで券売機のチャージ履歴に『20,000ルノ』なんて通貨単位が残るのかね?」
「端末のフォントテストです」
「そうか。まあいい、始発前点検で実害はなかったようだしな。……あ、それと今日の終電後、保守点検の夜間作業が入っているから頼むぞ。線路の歪みチェックだ」
冷や汗を拭いながら駅長室を出た八木沢は、胸ポケットの領収書をそっと確かめた。昨夜の出来事は夢ではなかった。
だが、日常は容赦なく続いていく。
夜の十一時半。構内の照明が落とされ、静まり返った地下ホーム。八木沢は黄色の安全ベストを着て、線路脇の保線用通路を歩いていた。手にはライトと、異常を検知するための計測器。
その時だった。
ゴオオオオオ……
遠くのトンネル奥から、地鳴りのような重低音が響いてきた。
「ん……? おかしいな、終電はもう上がったはずだが」
時計を見る。11時45分。回送電車の予定もない。
直後、トンネルの闇の奥から、けたたましい警笛が響き渡った。
フォン! フォフォフッー!!
蒸気機関車のような、だが金属が擦れ合う悲鳴のような歪んだ音が地下線路にこだまする。ライトの光が照らし出したのは、線路の上を恐ろしい速度で猛スピードで迫ってくる「黒い影」だった。
それは電車ではなかった。無数の鉄くずと黒い泥が合体した、巨大な「機関車型のバケモノ」――昨夜の影と同種の、さらに凶悪な巨大個体だった。
「うわあっ!?」
八木沢は咄嗟に線路脇の退避坑へ飛び込んだ。直後、猛烈な風圧と嫌な硫黄の臭いが八木沢の頭上を吹き抜ける。バケモノはブレーキを破破させたような金属音を立てながら、ホーム中央でピタリと停止した。
車体(?)の側面がヌラリと開き、中から巨大な泥の触手が数本伸びて、ホーム上の防犯カメラや案内板を叩き割り始める。
「な、なんだアイツは……! 線路を伝って異世界から入ってきたのか!?」
退避坑の中で息をひそめる八木沢。手元にあるのは懐中電灯と無線機だけだ。警察を呼んだところで、あんなバケモノに対抗できるはずがない。
その時、駅のホームの改札口側から、聞き覚えのある高い声が響いた。
「そこまでです、異界の暴走種!」
暗闇の中に躍り出たのは、昨日と同じ黒いローブ姿の少女――エルザだった。その手には、昨日よりも一回り大きな、複雑な装飾が施された金属製の杖が握られている。
「エルザさん!? なんでここに!?」
「八木沢さん! 逃げてください! こいつは『境界破り』の大型種……異界の歪みに引き寄せられて、こちらの線路に侵入してしまったんです!」
エルザは杖を構え、鮮やかな手つきで空中に光の陣を描いた。
「我が契りに応えよ、疾風の刃――『エア・スラッシュ』!」
杖から放たれた風の刃がバケモノの側面を切り裂く。……が、バケモノの表面を覆う分厚い錆びた鉄板に弾かれ、かすり傷ひとつ与えられない。
「くっ、装甲が硬すぎます……! ならば最大火力で!」
エルザが再び唱え始めると、杖の先端に目も眩むような赤い火球が形成され始めた。超高熱の魔力が周囲の空気を歪ませる。
「待て! やめろエルザさん!!」
退避坑から身を乗り出した八木沢が大声で叫んだ。
「ここでそんな高熱の爆発魔法を使ったら、架線(高圧電線)が焼き切れて、トンネルの天井が崩落する!! ここは地下通路だぞ!!」
「ええっ!? でも、倒さないとこの街が!」
「魔法で倒す必要はない! あいつは『車両』の形をしているんだろ!?」
八木沢は瞬時に頭の中で駅の構造と設備を思い浮かべた。
相手は線路の上を走っている。重量は推定数十トン。推進力は謎の魔力だが、動きは線路に縛られている。
「エルザさん! 僕の合図に合わせて、あいつの足元(車輪)にだけ摩擦をゼロにする滑走魔法(ローション・オイル的な魔力)を掛けられるか!?」
「え? ええ、潤滑系の初級魔法ならできますが……それで何を?」
「あいつのブレーキを無効化する! 僕が『ポイント(転鉄器)』を切り替えるから、奴をあそこに追い込む!」
八木沢が指さしたのは、ホームの先にある「行き止まりの退避線」――その奥にある『非常用車止め(バッファー)』と、過走防止用のサンドベット(砂利溜まり)だった。
「よし……来い、バケモノ!」
八木沢は線路脇の黄色い手動ポイント切り替えレバーへ駆け寄った。
バケモノが八木沢の動きに気づき、怒号のような警笛を上げて突進してくる。猛烈なスピードだ。
「いまです、エルザさん!」
「はいっ! 『スライド・フロスト』!」
エルザの放った青い光が線路と車輪の間に広がった。摩擦抵抗が完全にゼロになる。
バケモノは慌てて制動をかけようとしたが、慣性の法則には勝てない。車輪が空転し、火花すら散らさずに氷の上を滑るように猛スピードで滑走する。
「よしっ……!」
八木沢は体重をかけ、手動レバーを力いっぱい引き倒した。
ガコンッ!!
重い金属音が響き、線路のポイントが切り替わる。
バケモノは本線から外れ、退避線へと誘導された。
「グガアアアアッ!?」
自分の意志で曲がれないバケモノは、そのまま激しいスピードでサンドベットの深い砂利へと突っ込んだ。
ザザザザザザザザザッーーーー!!!
大量の砂利が巻き上がり、バケモノの運動エネルギーが砂の抵抗によって急速に削られていく。そして最後に――
ドスン!!!
油圧式の油圧ダンパー付き車止めに激突し、バケモノは完全に停止した。
衝撃で車体を構成していた泥と鉄くずがバラバラに崩れ落ち、ただの煤となって線路に散っていく。
静寂が戻った。
地下ホームに、砂利の沈む音と、二人の荒い息遣いだけが響いていた。
「はぁ……はぁ……。助かった……」
八木沢はその場にへたり込んだ。
エルザが駆け寄ってくる。その瞳は、輝かんばかりの尊敬に満ちていた。
「す、素晴らしいです八木沢さん! 敵の質量と運動エネルギー計算、そして施設の構造を利用した無駄のない誘導……! あなた、本当にただの『駅員』なのですか!?」
「ただの駅員だよ……。脱線・過走事故防止のガイドライン通りにやっただけだ」
八木沢は溜め息をつき、散らばった煤を見つめた。
「で……エルザさん。今日は何しに来たんだ?」
エルザははっとしたように表情を正すと、胸元から一枚の光るカードを取り出した。昨夜、自動改札機から吐き出された虹色のICカードだ。
「実は……この『定期券』の期限が切れてしまって、更新のやり方が分からなくて戻ってきたのです」
「定期券は普通、一ヶ月単位だろ!? なんで一日で切れるんだよ!」
「異界間の時空歪みのせいで、向こうの時間で一年分が消費されてしまったみたいで……」
八木沢は天を仰いだ。
「……はぁ。終電後の定期更新は原則受けてないんだがな。今回だけ特別だ。券売機へ行こう」
「はいっ! よろしくお願いします、八木沢技師長!」
「技師長じゃない、副駅員だ」
深夜の地下鉄駅。無機質な電子音が、今夜も静かに響き渡ろうとしていた。




