一話
地下鉄の券売機は、いつもどこか不機嫌そうな電子音を鳴らしている。ピ、と無機質な音を立てて千円札を吸い込み、プラスチックのICカードを吐き出す。それが八木沢の仕事場だった。駅員として働き始めて三年、改札の詰所でカードの不具合に対応し、乗車券詰まりを取り除く。淡々とした日常だ。
あの日までは。
「あの、すみません。乗車券が買えないのですが」
終電も近い午後十時すぎ、声をかけてきたのは全身を黒いフード付きローブで包んだ奇妙な女だった。手に握られているのは、見慣れた千円札ではなく、青く発光する羊皮紙のような紙切れだ。
「お客様、そちらは紙幣ではございませんので……」
「これは『魔力手形』です。王都までの乗車券が一枚必要なのですが、この機械が手形を認識してくれないのです」
八木沢は深いため息をついた。コスプレイヤーの悪戯か、あるいは少し疲れた人だろう。
「申し訳ありませんが、当駅の券売機は日本円のみの対応となっております。あと、王都という駅は当路線にはございません」
女は心底困り果てた顔で、小さな金属製の杖を弄んだ。
「困りました……。追手が迫っているのです。この端末(券売機)には高濃度の魔導回路が組み込まれていると聞き、境界を越えられると思ったのですが」
「境界……?」
八木沢が言いかけたその時、駅の照明が明滅した。
シャッターの降りかけた階段から、ヌラリとした黒い影が這い出してくる。それは人型をしているが、目も鼻もなく、全身から泥のような負の気配を撒き散らしていた。
「くっ、『影の追撃者』……! ここまで追ってくるとは!」
女が杖を構え、呪文を唱え始める。しかし、長旅で疲弊しているのか、杖の先から小さな火花が散るだけで、魔法は不発に終わった。
影が容赦なく襲いかかる。八木沢の身体が勝手に動いた。長年の業務で叩き込まれた「お客様の安全確保」という本能だ。女を抱え込み、とっさに券売機のメンテナンス用裏口へと滑り込む。
「うわっ、狭い! ちょっと静かにしててください!」
狭いメンテナンスルームの中、ふたりは密着していた。目の前には、普段八木沢がメンテナンスで見慣れている券売機の「裏側」がある。複雑に入り組んだ基板、配線、そして大量の光ファイバーケーブル。
女――名をエルザと言った――が、目を丸くしてその基板を見つめた。
「な……なんて見事な魔導陣なの!? この無数の銅線(回路)の密度の高さ……そして光を放つ精霊の導管(光ファイバー)! これは古代の超上位召喚陣ではありませんか!」
「いや、ただの定期券発行ユニットですけど」
「八木沢さんと言いましたね! この機械、魔力が足りていないだけです。私の残りの魔力をこの回路に流し込めば、異界への転移扉が開きます! お願いです、端末の制御権を開放してください!」
外では、影が重い金属音を立てて扉を叩いている。ドスン、ドスンと扉が歪む。迷っている時間はない。
「制御権……これのことか!?」
八木沢はメンテナンスパネルを開き、管理者モードの鍵をひねった。画面に『設定変更モード』の文字が浮かび上がる。
「よし、エルザさん、魔力をそこに流してくれ! ただし……」
八木沢は迅速に画面のパラメータを打ち替えていく。
「うちのシステムは精密なんだ。過電流を流されたら一発で基板が焼き切れる! 魔力の入力電圧を抑えて、脈流を平滑化してくれ!」
「平滑化!? ええと、こうですか!?」
エルザが両手を基板にかざすと、青白い光が配線を駆け巡った。
ピコーン。
券売機のスピーカーから、聞き慣れた爽やかなアナウンスが響いた。
『いらっしゃいませ。ご利用の路線を選択してください』
「動いた! ええと、行き先は!?」
「『アストラル王都』です!」
「そんな駅名は登録されてない! 近い読みのやつは……よし、『新王都前』で登録(手入力)!」
外の扉が破られた。泥のような影が、触手を伸ばしてふたりへ襲いかかる。
「運賃はいくらだ!?」
「魔力手形一枚分、約二万ルノです!」
「よし、特別補正レート適用! テンキーで手動金額入力――20,000円!」
八木沢はエルザから受け取った発光する羊皮紙を、紙幣挿入口へ強引に押し込んだ。普段なら「紙詰まり」で弾かれるはずの異物が、激しい光を放ちながらズルズルと吸い込まれていく。
『チャージが完了しました。ご乗車ありがとうございます』
ガコン!
取り出し口から吐き出されたのは、いつもの緑色のICカードではなく、虹色に輝く一枚の『乗車券』だった。
「エルザさん、これを持ってタッチしろ! 改札へ走るんだ!」
「はいっ!」
ふたりはメンテナンスルームから飛び出した。迫りくる影の触手をくぐり抜け、自動改札機へとダッシュする。
エルザが虹色の乗車券を読み取り部にかざした。
ピンポーン♪
心地よい通過音が響くと同時に、自動改札機の扉の向こう側に、満点の星空と巨大な城塞が聳え立つ異世界の光景が広がった。
「す、すごい……本当に繋がった……!」
エルザは感極まった様子で八木沢を振り返った。
「八木沢さん、ありがとうございました! あなたの素晴らしい魔導技師(駅員)としての腕前、一生忘れません! さあ、あなたも一緒に!」
「いや、僕は行きませんよ」
八木沢は苦笑いしながら言った。
「明日も早番ですし。それに……駅員が改札を無断で通るわけにはいきませんから」
「そんな……!」
エルザは一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐに力強く頷いた。
「分かりました。では、また必ずお礼に伺います! この『定期券』で!」
エルザは改札を飛び越え、光の中へと消えていった。
直後、改札の扉が閉じ、いつもの静けさが駅構内に戻ってきた。襲いかかってきていた泥の影も、跡形もなく消え去っていた。
八木沢は深く息を吐き、制服の乱れを整えた。
足元を見ると、券売機の取り出し口に小さな『領収書』が落ちていた。
『但し書き:魔導移送代金として。またのご利用をお待ちしております』
八木沢はその領収書を胸ポケットにしまい、静かに呟いた。
「……さてと。明日の始発までに、システムログの修正理由、なんて始末書に書けばいいんだかな」




