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古川英雄の場合 その3

退勤のタイムカードを切ると、俺は逃げるように店を飛び出した。昨日のように一秒でも早く布団に潜り込みたかったが、それ以上に昨夜からほとんど飲まず食わずだった胃袋が、悲鳴のような痛みを訴えていた。


真っ直ぐ帰る気力もなく、いつものコンビニへ吸い込まれるように立ち寄る。手に取ったのは一番安いカップ麺と、手っ取り早く脳を麻痺させるための度数の高い缶チューハイだ。レジ袋をぶら下げて駐車場のアスファルトにへたり込み、プラスチックのフォークで麺をがむしゃらに掻き込む。熱いスープと強烈なアルコールが胃の腑へ一気に流れ込むと、ほんのわずかだが、張り詰めていた神経が緩んでいくのを感じた。


煙草に火をつけ、震える指先で紫煙をくゆらせながら、ポケットから押し付けられたばかりの最新スマートフォンを取り出す。


控えの契約書に書かれていた名義は『田中太郎』。提示された免許証も確かにその名前だったはずだが、あのいかにも裏社会に身を置く男の風貌からして、偽造身分証である可能性は極めて高い。確かなのはただ一つ、あの男は俺と日下部が昨夜あの駐車場にいたことを確実に知っている、ということだけだ。


胃袋が満たされて一息ついた途端、底知れぬ恐怖が再び胸の奥からせり上がってくる。


「よーっす。何、仕事で嫌なことでもあったの?」


不意に頭上から掛けられた間の抜けた声に、心臓が跳ね上がった。


見上げると、アリエルがいつもの薄汚れたピンクのスニーカーを鳴らして立っていた。


「昨日来なかったじゃーん。何かあったのー?」


相変わらずのマイペースな口調に、ガチガチに強張っていた肩の力がふっと抜けた。それと同時に、昨夜から一睡もしていなかった反動で、鉛のような眠気がどっと押し寄せてくる。


「……ああ、ちょっとダチと遊んでてさ。寝不足なんだよ。今日はもう帰るわ」


本当のことなど話せるはずもない。俺はアリエルに背を向け、スクーターのスタンドを蹴り上げた。すると、背後から温かい体温が急に背中に押し付けられた。アリエルが後ろからそっと抱きついていた。


「……無理すんなよ」


耳元で落とされたボソッとした呟き。


「バーカ、無理なんかしてねーよ」


俺は精一杯の虚勢を吐き捨ててアクセルを回した。走り去るスクーターのサイドミラーには、小さくなるアリエルがずっと手を振っている姿が映っていた。俺も片手を上げて振り返す。家に着くなり、泥のような疲労感に引きずり込まれるように、俺は気を失うように眠りに落ちた。


翌朝目を覚ますと、憑き物が落ちたように頭が妙にすっきりしていた。


考えても分からないことを悩むのはもうやめだ。なるようにしかならない。


そう割り切った俺は、何事もなかったかのようにいつもの日常へ戻った。昼は携帯ショップで適当に客をあしらい、夜はコンビニの駐車場でアリエルと無駄話を交わして帰る。そんな薄氷を踏むような平穏が、数日間続いた。


そして四日後の夕暮れ時。店から駐車場へ向かう裏路地を歩いていると、ポケットの中で例のスマートフォンがけたたましく震え出した。


画面に光る番号に息を呑む。


「……もしもし」 『やあ、元気そうだね』 「何の用だ」 『この間言ったじゃない。日下部のことだよ』 「何を聞きたいんだよ」


通話を繋いだまま駐車場にたどり着き、スクーターのシートに腰を下ろした瞬間、受話器の向こうの男が喉を鳴らして笑った。


『わかってるでしょー?』


違和感を覚えて顔を上げると、スクーターを取り囲むように、例のスウェットの男と数人の屈強な取り巻きたちが立っていた。


「なっ……」 「だから言ってるでしょ。日下部のことを聞かせてよ」


絶句する俺を睥睨し、男は薄く笑った。


「こんな吹きさらしの場所で話すのもなんだしさ。ちょっと来てくれるかな?」


モータルバレットで皆殺しにする考えが一瞬だけ脳裏をよぎったが、この人数が一斉に心臓発作で倒れれば、街中を巻き込む大騒動になる。俺は引きつった顔のまま、男たちの車へ乗り込むしかなかった。


連れて行かれたのは、この街で一番有名で悪名高い高級クラブだった。俺のような底辺の人間はエントランスを跨ぐことすら許されない場所だ。重低音が腹に響くダンスフロアを抜け、案内されたのは最深部にあるVIPルームだった。


「とりあえず、そこに座ってよ」


革張りのボックス席に放り込まれ、俺は完全に縮こまっていた。剥き出しの怯えを隠せないでいると、男が楽しそうに両手を広げた。


「説明不足で悪かったけどさ、安心してよ。警察なんかにチクりゃしないから」


その言葉に、胸の奥でわずかに息が通った。俺は必死に声を低くし、強がりを絞り出す。


「……で、日下部の何を聞きたいんだよ」 「ふっ、そんな虚勢張らなくてもいいのに。俺が聞きたいのはたった一つだよ。どうやってあの日下部を沈めたの? ビルの監視カメラの映像を見たけどさ、一瞬だったからさ」


――監視カメラ。 その単語を聞いた瞬間、脳内でパズルのピースが組み合わさった。


そうだ。あいつらにモータルバレットの銃は見えない。あの画質の粗い防犯カメラの映像では、俺が何らかの超絶的な体術で、日下部を一瞬で返り討ちにして即死させたようにしか見えていないのだ。


俺は胸を張り、握りこぶしを相手の鼻先へ突き出した。


「……これさ」


確信めいたハッタリをかますと、男は目を見張り、パンと手を叩いた。


「おおー、兄さんやるねえ! 今まで喧嘩が強いなんて評判、これっぽっちもなかったのにね。古川英雄くん」


やはり俺の素性はすでに調べ上げられていた。だが、このハッタリは確実に効いている。


「無駄な喧嘩が嫌いなだけだ。ただ、降りかかる火の粉は払う主義でね」


「頼もしいな。大体の状況はわかったよ。この街の裏の喧嘩番長に、一杯奢らせてくれ。自己紹介が遅れたね、俺の名前は氷室。ここらへんじゃちょっと知られた顔だよ」


氷室が指を鳴らすと、露出度の高い美女たちが何本もの高級シャンパンを抱えて部屋に入ってきた。ガラガラと組まれたシャンパンタワーに黄金の液体が注ぎ込まれていく。


「それじゃあ、ヒーロー英雄くんの活躍に――乾杯!」


グラスが合わさり、歓声が上がる。警戒しなければならないはずなのに、生まれつき浅薄な俺の頭は、生まれて初めて口にする高級シャンパンの甘美な刺激と、裏社会の有力者に持ち上げられる全能感に、あっという間に呑まれていった。


深夜、泥酔した俺は氷室の運転手付きの高級外車に乗せられ、いつものコンビニの前で降ろされた。


『英雄くん、これからもよろしくね』


厄介な要求も脅迫もなく、ただ良好な関係を築けたような別れ際だった。夜風を浴びながらふらつく足元を整えていると、暗闇から聞き慣れた声が飛んできた。


「よう、ヒーロー。ご機嫌なご帰宅じゃん」


ピンクのスニーカーを履いたアリエルが、缶コーヒーを片手に立っていた。


「なんだ、ずいぶん羽振りの良さそうな友達ができたのね」 「友達じゃねえよ……たまたま知り合っただけだ」


アリエルの弛みきった笑顔を見た途端、胸の中にあった小さな澱のような不安すらも、アルコールと一緒に綺麗に消え去っていった。


強力なスキルがあり、裏社会の有力者にも一目置かれた。俺の人生は、ここから完全に好転していくに違いない。


――あとは、なるようになるだろう。


俺は夜空を見上げ、だらしなく緩んだ笑みを噛み殺していた。

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