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古川英雄の場合 その4

翌日、仕事を終えてスクーターのキーをポケットからまさぐっていると、背後から聞き覚えのある軽薄な声が降ってきた。


「よう、英雄くん。今日も遊ぼうよ」


振り返ると、そこに立っていたのは氷室だった。これ以上深く関わりたくなかった俺は、愛想笑いを浮かべて首を振った。


「悪いっす、今日はちょっと用事があって」 「何? アリエルちゃんとデート?」


心臓が跳ね上がった。なぜアリエルの名前を知っている。恐怖で身体が完全に硬直した。ここで頑なに拒絶し続ければ、その矛先がアリエルに向かうかもしれない。


「……そんなんじゃないっすよ」 「だったら行こうよ」


俺に拒絶の選択肢は残されていなかった。


連れて行かれたのは、昨日とは別のキャバクラのVIPルームだった。案内されたボックス席で落ち着かないままグラスを傾けていると、遠くのエントランスの方からけたたましい怒号が響いてきた。


声は廊下を伝って急速に近づいてくる。次の瞬間、乱暴にVIPルームの扉が蹴破られた。


現れたのは、坊主頭にポロシャツ、スラックスを履き、露出した両腕にびっしりと刺青を刻み込んだ、いかにも本職のヤクザだった。


「おい氷室! なんだこの店は。俺たち鬼神組に何の筋も通してねえぞ!」 「いやー、もうちょっと軌道に乗ってからご挨拶に伺おうと思いましてね」 「なんだその舐めた態度は! まずは土下座して誠意を見せろや!」 「わかりました」


氷室は争う様子もなく、床に両手をついて綺麗に土下座した。ヤクザは嘲笑いながら、その氷室の後頭部を革靴で踏み躙った。


「物分かりがいいじゃねえか。せっかくだから楽しませてもらうぞ」


男は氷室の座っていたソファーにどっかりと腰を下ろすと、隣に座っていたホステスの肩を乱暴に抱き寄せ、胸をまさぐり、無理やり酒を注がせようとした。


「兄さん、ここはそういう店じゃないんですよ」


床に這いつくばったまま氷室が制止した瞬間、ヤクザの硬い拳が氷室の顔面を捉えた。鈍い音を立てて氷室が吹き飛び、床に崩れ落ちる。


「兄さん、ちょっと悪ふざけが過ぎますよ。いつまでも腕力だけで通じる時代じゃないでしょう」 「あんだとてめえ!?」


逆上したヤクザは立ち上がり、倒れた氷室の腹を容赦なく踏み荒らした。


「素人が小銭稼ぎでうまくいってるからって粋がってんじゃねえぞ! 本職を舐めてんのか!」 「舐めてなんかいませんよ。ただ……我々素人に力で負けて転がった本職の方が、最近いたじゃないですか」


その言葉に、ヤクザの顔色が激変した。血相を変えて氷室の襟首を掴み上げ、吊るし上げる。


「てめえ……まさか、日下部兄貴をやったのはてめえか!?」 「そうだと言ったらどうします?」 「犯人は誰だ、吐け!」


怒り狂ったヤクザの拳が何度も氷室を打ち据える。顔中を血で染めながら、氷室はニチャリと口元を歪め、視線をこちらへ向けた。


「英雄くん……この店の防犯カメラはダミーだし、情報は外に一切漏れない。申し訳ないが、助けてくれないか」


ヤクザの血走った目が、弾かれたように俺を捉えた。


「てめえか……てめえが日下部兄貴を!」


咆哮とともに、巨体が猛然と俺目掛けて突っ込んでくる。殴りかかられたその刹那、俺はポケットの中で構え続けていた指先を突き出し、心の中で引き金を引いた。


(モータルバレット)


見えない弾丸が胸を貫いた瞬間、男は白目を剥き、崩落するように床へ叩きつけられた。心臓はすでに停止している。


氷室は鼻血を拭いながら、薄気味悪く笑った。


「そんな簡単に沈められるのに、ずっと見殺しにしてくれちゃって……人が悪いなあ」


その夜はそのまま解放され、何事もなかったかのように家へ帰された。


奇妙なことに、その件は警察沙汰にもならず、街の噂にも上がらなかった。死体はどう処理されたのか。あまりの静けさに、あれは自分の妄想だったのではないかと錯覚し始めた数日後の夕暮れ、いつもの駐車場で再びあの声が響いた。


「英雄くん、ご無沙汰だね。また遊びに行こうよ」


逃げ場のないまま、俺はまた別のクラブのVIPルームへ連れて行かれた。


数十分後、案の定、扉の外から怒号が響き渡った。だが、今回扉を開けて入ってきた二人のヤクザに対し、氷室の態度は前回とまるで違っていた。怯える素振りすらなく、傲然と脚を組んでいる。


「てめえ、俺のシマって知ってここに来たのか?」 「当たり前だ! 鬼神組舐めてんじゃ――」


言葉の途中で、氷室が電光石火の踏み込みからヤクザの顎を撃ち抜いた。一人が即座に昏倒する。


「悪いけど、もう一人は英雄くんにお願いしていいかな」


残る一人が怒声とともに俺へ飛びかかってきた。俺はカウンターパンチを放つモーションを装いながら、至近距離で引き金を引いた。


(モータルバレット)


男は何の抵抗もできず、前のめりに倒れ伏した。


「英雄くんは、本当に俺の期待以上だなあ」


満足げな氷室の言葉を聞き流し、その夜も車で送られて解散となった。


二度も同じ構図が続けば、どんな馬鹿でも察しがつく。氷室は俺のこの「一撃必殺の腕っぷし」を利用して、敵対する鬼神組の戦力を確実に削り、潰そうとしているのだ。完全に鉄砲玉として利用されている。


このまま言われるがままに人を殺し続けていいのか。


重い足取りでいつものコンビニへ向かい、カップ麺をすすりながら冷たい水を喉に流し込む。


「おう、今日もノリノリじゃーん」


ふらりと現れたアリエルが、いつも通りの呑気な笑顔で隣に腰を下ろした。俺が氷室の要求を断れば、この平穏は一瞬で壊され、アリエルにどんな危険が及ぶか分からない。


毛玉だらけのジャージを着て、何一つ積み上げないまま笑っている幼馴染の顔を見つめる。


胸の奥で、鉛のような覚悟が静かに固まった。


利用されていると分かっていても、もう後戻りはできない。大切な日常の吹き溜まりを守るためなら、降りかかる火の粉をすべてその手で撃ち抜くだけだ。


――やってやる。誰が相手だろうと、全員心臓を止めてやる。

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