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古川英雄の場合 その2

朝、目を覚ました瞬間から、俺はベッドの中でモータルバレットを出したり消したりして遊んでいた。


指先を銃の形にして意識を向けると、掌にあの冷たい金属の重みが吸い付くように現れ、力を抜くと煙のように消え去る。


「おい英雄! いつまで手遊びしてんだ、とっとと飯食って仕事行きな!」


襖の向こうから母親の怒鳴り声が響いた。母親の様子を見る限り、この銃が俺以外の人間にはまったく見えていないというのは紛れもない事実らしかった。


悪魔マモンが言った通り、使い方は脳裏に鮮明に焼き付いている。構えれば銃が現れ、引き金を引けば目に見えない弾丸が放たれ、命中した人間は心臓発作で即死する。ただそれだけだ。だが、冴えない頭でどれだけ使い道を絞り出そうとしても、具体的なアイデアなど何一つ浮かんでこなかった。


出勤したものの、一日中、心ここにあらずだった。


ぼんやりと突っ立っている俺を見咎めた店長が、バックヤードで怒鳴りつけてくる。だが不思議なことに、いつもなら胃を痛めるような怒りも惨めさも、まるで湧いてこなかった。


――こいつも、俺がその気になれば一瞬で心臓を止めて殺せるんだよな。


そう思うと、店長の怒声が遠くでキャンキャン吠えている小型犬の鳴き声のようにしか思えなくなった。説教を食らっている最中も、俺はポケットの中でモータルバレットを具現化させては消すという暇つぶしを繰り返していた。


午後には、いつもの理不尽なクレーマーの爺がやってきた。意味不明な難癖から始まり、聞いてもいない昔話、そして若者への説教と日本社会の未来論へと続く。人が変わっても、この手の爺どもはテンプレートをなぞったように判で押した同じ話ばかり垂れ流す。まるでYouTubeで流行ったネタを猿真似して、誰もが同じような動画を量産している構図そっくりだと思ったら、急に笑いが込み上げてきた。この爺も、若者に説教するごとに誰かから動画の再生報酬でももらっているんじゃないか――そう妄想すると、さらに吹き出しそうになる。


カウンターの下で銃の感触を確かめながら、ふと黒い考えが脳裏をよぎった。


こいつなら、今ここでいきなり心臓発作を起こしてくたばっても、誰も疑問に思わないんじゃないか。


どうしようか、引き金を引いてやろうか。のたうち回って息絶える爺の姿を脳内でリアルにシミュレーションしながら指をもぞもぞと動かしたが、結局、度胸も湧かず何もしないままその日のシフトが終わった。


退勤後、薄暗くなった駐車場でスクーターのキーをポケットからまさぐっていた時だった。


「おう、ひでおー」


背後から掛けられたその不吉な声に、心臓が跳ね上がった。


振り返ると、そこには昨日に輪をかけてギラついた、満面の笑みを浮かべた日下部が立っていた。


「おう偶然だなー! 二日連続たァよ」 「は、はは……そっすね」 「こりゃ運命だな。とりあえず行くぞ」 「え、どこにっすか」 「いいところだよ」


ついていけば間違いなく、例のヤバい闇バイトの片棒を担がされる。俺は冷や汗を流しながら、引きつった声で拒絶した。


「すいません、今日どうしても外せない用事があって……」


その瞬間、日下部の笑顔が完全に消え去り、露骨な殺意を孕んだ怒りの表情へと一変した。


「おめー……昨日も断ったよな? 俺の誘いを二日連続で蹴るってのが、どういう意味かわかってんのか?」


日下部は逃げ場を塞ぐように間合いを詰め、乱暴に俺の腕を掴んできた。


「おい、いいから来い」


腕に食い込む暴力的な痛みに、頭の中の何かがプツンと弾けた。


恐怖と焦燥の極限で、俺は反射的に右手を突き出し、引き金を引いていた。


(モータルバレット)


不可視の弾丸が吸い込まれた瞬間、日下部は声も上げず、糸の切れた操り人形のようにアスファルトへ崩れ落ちた。


本当に、倒れた。


本当だった。あの悪魔の言葉も、この銃の力も、全部本当だったんだ。


「ひっ……!」


とにかくここから逃げ出さなければならない。震える手で何度もキーを差し損ねながら、どうにかスクーターのエンジンをかけ、俺は全開のアクセルで夜の街を一目散に駆け抜けた。


晩飯も喉を通らず、自分の部屋の二段ベッドに飛び込んで毛布を頭から被った。


本当だった。俺は、人を殺した。


もし見つかったらどうなる? 誰かに見られていたら? いや、あんな時間、あんな薄暗い駐車場に誰もいるはずがない。凶器も傷口もない、ただの心臓発作として処理されるはずだ。絶対に捕まりっこない。でも、もし防犯カメラがあったら? いや、あそこのカメラは壊れてるってバイト仲間が言っていたはずだ――。


最悪の結末と根拠のない楽観が頭の中で激しく衝突し、日下部が倒れ込んだ瞬間の光景が網膜に焼き付いて離れない。


一睡もできないまま、気づけば朝の六時を回っていた。


仕事なんてサボりたかった。だが、この狭い布団の中に一人でいたら、恐怖で頭がどうにかなりそうだった。冷たいシャワーを浴び、いつもより大幅に早い時間に家を出てショップへ向かった。


いつも遅刻ギリギリに出勤してくる俺の姿を見て、店長が不審そうに眉をひそめた。


「おい古川、昨日からどうしたんだ? お前、なんかおかしいぞ」 「そ、そんなことないですよ……」


必死に虚勢を張ったが、顔が青ざめて声が上擦っているのは自分でも痛いほど分かった。


それでも、何事もなく時間は淡々と過ぎていった。警察が踏み込んでくる気配もなく、張り詰めていた神経が夕方近くになってようやく弛緩しかけた時――そいつが来店した。


上下グレーのスウェット姿に、根本の伸びた金髪と真っ黒なサングラス。両手の指には安っぽいシルバーリングがジャラジャラとつけられている。一目で真っ当な人間ではないとわかる風貌だった。


「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」


喉の渇きを覚えながら、マニュアル通りの接客を始める。


「ああ、新しい携帯が必要になってね」


完全新規の客だった。普段の俺なら売上ノルマが一気に片付くと小躍りしたはずだが、今の俺には仕事の数字など心底どうでもよかった。頭の九割以上を日下部の死体が占領していた。


過去の記憶を頭から追い出すように機械的な説明を続けていると、男が退屈そうに遮った。


「細かいことはよくわかんないからさ。一番高い、一番いい契約にしてよ」


「か、かしこまりました……」


俺は震える手で端末を操作し、店頭で最も高額な最新スマートフォンと、最高額のデータ無制限プランの契約手続きを済ませた。開通確認のテスト通信を終えて端末を手渡すと、男はその新しいスマートフォンを耳に当て、どこかへ発信した。


ツルルル……と受話器からワンコールだけが響き、男は通話を切った。


そして次の瞬間、手にしたばかりの最新スマートフォンを、カウンター越しに俺の胸元へ放り投げてきた。


「えっ……?」


受け止めた端末を呆然と見つめる俺に、男はサングラスの奥から歪んだ笑みを向けた。


「その電話、あんたにあげるよ。また電話するからさ、今度ゆっくり話し合おうね」


「あ、あの……何をおっしゃって……」


パニックで言葉を失い硬直する俺の肩に、男がぬっと顔を近づけてきた。


そして、耳元で冷たく囁いた。


「――日下部のこと、ゆっくり聞かせてね」


心臓が凍りついた。


金縛りに遭ったように微動だにできない俺の横をすり抜け、男は口笛を吹きながら、何食わぬ顔で自動ドアの向こうへと消えていった。


なんで。


なんでだ。なんで、こんなに早く――。


誰も見ていなかったはずだ。証拠なんて残るはずがない。それなのに、なぜこいつは俺がやったと知っているのか。


手の中に残された、まだ新品の熱を帯びたスマートフォンを見つめながら、俺の思考は真っ黒な濁流に呑まれるように、ぐちゃぐちゃに崩壊していった。

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