5話…仕事の代理
「カナン様、……お願いします。せめてベッドを別にしていただけませんか」
ベッドの上で上体だけを起こしているカナンに、床に座り込んでヒナミは懇願する。
「……」
「カナン様?」
返事が無いカナンに、ヒナミは首を傾げる。
カナンの顔を覗き込むと、まだ眠たいのか瞬きがゆっくりだ。
……可愛い。
けれどこの様子では、1時間ほど前に言ったことは全く覚えてないだろう。
ほんの少し待つと、カナンが意識を覚醒させたのか、目をぱちぱちさせた。
「カナン様、おはようございます。あのですね、せめてベッドだけでも別にしてくださいませんか。ほら、カナン様もその方がゆっくりとお休みできますし」
「……次期当主が、いや、男爵家の子息が床に座るなんて何事よ」
「……お願いする時は、相手より目線を下げるものですよね」
「床に座りこまれるほど、カナンの身長は低くないと思うけど」
会話になっている。いつものカナンだ。
よし、意識がしっかりしているみたいだ。
カナンは「うーん……」と唸った後、きっぱりと言った。
「カナンね、リヒター男爵に言われたの。『もしヒナミの態度と口調が変わらなかったら無視をしてもいい。荒療治でもしないと変わらんだろう』って」
「えっ……?」
「だから今までは甘くしてたけど、これから敬語なら返事しなーい。同居初日にカナンも言ったし」
「……嫌です。カナン様、お話したいです」
いくら可愛いカナンでも、そればかりは聞けない。
でもカナンは見るからに不機嫌そうだ。
頬がぷくっと膨れている。
……正直、その顔も可愛い。
「そこは『嫌です』じゃなくて、『善処する』ってところじゃない?……カナンにタメ口使いたくない理由何?」
「えっ……。……20年間、ずっと敬語で様付けでしたし、今更変えるなんて……」
「つまり難しいだけ?」
「……はい」
カナンは腕を組んで、考えてるみたいだった。
「なるほど、タイミングときっかけがあれば変わると。そういうわけね?」
「……おそらく」
「そう。じゃあ、たまーになら返事しようかな。カナンもヒナミをいじめたいわけじゃないし」
「ありがとうございます」
カナンは腕を組んだまま、うんうんと頷く。
そして、少し明るめの口調で言う。
「でもね、昨日部屋を同室にしたから、何人かの使用人さん、誤解すると思うなー」
「……誤解?」
何だろう。さっぱり想像もつかない。
「だって、もうヒナミ30歳でしょー?カナンも25歳だし。2人ともいい年齢でしょ?そして同室。婚約者。『昨夜はお楽しみでしたね』って言えば、ヒナミも分かる?」
「……っ!!!」
ヒナミは真っ赤になってしまう。
一昨日はカナンの残り香で。そして昨日はカナンと同じベッドだったから、全く眠れていないのに。
手を出すなんて、夢のまた夢だ。
「ねぇ、噂になるんだったら、本当にしちゃわない?」
「……っ!?」
ヒナミの反応を見て、カナンはニヤニヤ笑う。
「……ヒナミ本当に初だね。そんな赤くなっちゃって、可愛い」
「っ……」
カナンの方が可愛いのに。
そう思うことは出来ても、なかなか口には出せない。
カナンは「うーん」と言いながら、伸びをした。
「しょうがないなー。このままぶっ倒れたら困るから、今のうちに寝ておきなよ」
「えっ……、その間カナン様はどこにおられるおつもりですか?」
「……」
返事が無い。
タメ口で喋らないと言わないつもりらしい。
ヒナミはバクバク心臓が動くのを感じながら、つまりづまり言う。
「……その間、か、か、カナンっ……は、どこに、いるつもり、なの……」
「仕事部屋。この様子じゃ仕事あんまり進んでないでしょ」
「……えっ」
いや、待て待て待て。
カナンは男爵の仕事を理解してるのか?
兄や姉から教えてもらっているのか……?
ノエルからは婿入りしたクラウス家とリヒター家で、仕事のやり方が違うと文句を言われたことは無いが。
「心配ならついてくれば?その代わり、カナンが出来るって理解したら部屋に戻って寝ること」
「……分かりました」
*
カナンは仕事部屋の椅子に座ると、書類に目を通す。
まじめな顔も可愛い。思わず見惚れてしまう。
だけどそれと同時に、カナンが当たり前のように書類を読んでいることに驚いた。
そしてカナンはペンを手に取る。
……めちゃくちゃな握り方だ。
じゃんけんのグーのように、ペンを握り締めている。
「え、ちょっ、カナン様……?」
声を掛けるのとほぼ同時にカナンは書類に文字を書いていた。
……そんなめちゃくちゃな持ち方で、字なんて書けるのか?
そんな心配をしていたが、カナンは文字を書いた書類を見せてくる。
「どう?合ってるでしょ」
「……完璧です」
いや、それどころじゃない。
ヒナミが仕上げるよりも綺麗で分かりやすい。
まるでお手本のような仕上がりだった。
しかもあんなめちゃくちゃなペンの握り方なのに、字がヒナミよりも綺麗だ。
「分かった?分からない書類は何も書かずに置いとくから、まずは部屋に戻ってしっかり寝て」
「……はい、ありがとうございます」
カナンが男爵の仕事が出来るとは知らなかった。
でも確かに、ヒナミが読むのをやめた公用語の本も内容をきちんと理解しているようだった。
きっと、ヒナミよりもカナンの方が頭が良いんだ。
ヒナミは少し重い足取りで、部屋へと戻っていった。




