第9話:名もなき若木の添え木
あの月下の誓いから、ドラクロワ城の時計は静かに、けれど確実に、新たな運命の歯車を刻んでいった。
ドラクロワ城の朝は、ピピの容赦ないカーテンの開閉音――。
乾いた布が空気を切り裂く音から始まる。
「いつまで寝てるんだよ。騎士を名乗るなら、主が目覚める前に城の巡回を終えておくのが道理だろ? それとも、一生シーツの上で腹を見せて転がってるつもりか?」
ルシアンは喉の奥で低く威嚇の唸りを上げ、慣れない柔らかすぎる寝台から身を起こす。
最初の数日は、沈み込みすぎる羽毛に牙を抜かれるような落ち着かなさを感じ、床に直接丸まって眠ったこともあった。
硬い岩肌の冷たさこそが、彼の知る眠りの質感だったからだ。
だが、今ではこの人型の体を横たえるための作法を、飽きるほどに身体が覚え始めている。
食事の席もまた、彼にとっては戦場だった。
焼きたての黒パンや、香草で煮込まれた柔らかな肉。
獲物を鋭い爪と牙で裂き、生温かい血肉を啜っていた彼にとって、火の通った料理の繊細な味は、毒かと思うほどに複雑すぎた。
目覚めてからひと月。
ルシアンの生活は劇的に、そして残酷なほど穏やかに変わった。
追われるように荒野を駆け、血と泥にまみれて他者の喉笛を狙っていた日々が嘘のように、この城の時間は止まったように静かで、それでいて鋼のような規律に守られていた。
日中はピピによる、騎士としてのしつけに近い過酷な訓練。
夕刻はアマンダが廊下の隅や天井の闇から音もなく現れ、彼の傷跡を観察していく奇妙な儀式。
そして夜は、テラスや書庫で過ごすベルローズの、物言わぬ影のような護衛。
彼はもう、鏡に映るサファイアブルーの瞳を見て、自身の不完全さに吐き気を催すことはなくなっていた。
「違う! 腕の力だけで振るうから、重心がぶれるんだ。あんた、いつまで尾に頼りって動いてるんだよ!」
城の中庭に、ピピの容赦ない怒声が響き渡る。
ルシアンは黒鉄の長剣を握りしめたまま、肩を大きく上下させ、荒い息をついていた。
目の前には、ピピが魔法で具現化した訓練用の石人形が、無機質な威圧感を放って立っている。
「……っせぇな! 分かってんだよ、理屈は!」
ルシアンは苛立ちに任せて石人形の胸元を蹴り飛ばしたが、その動きは人間の足の構造に縛られ、鈍い。
彼にとって、この人の体は依然として屈辱の象徴であり、魂を閉じ込める檻でしかなかった。
幻獣の姿に戻れば、こんな石の塊など一撃で粉砕できるはずだ。
それなのに、あえて脆弱な人間の手足で、重い鉄の道具を使って挑まされる。
それは牙を抜かれ、弱者として生きることを強要されているような、言いようのない焦燥感を彼に与えていた。
「……情けねぇな。こんな鈍い体で、何が騎士だ」
濃藍色の獣耳は、苛立ちか、それとも己への不甲斐なさからか、力なく外側へと伏せられている。
彼を突き動かしていたのは、忠誠心などという綺麗な言葉ではない。
もっと泥臭く、生存に根ざした恐怖だ。
(ここで役に立てなけりゃ、どうせまたあの霧の中に放り出されるだけだ)
役に立たない部品がどう処理されるかなんて、嫌というほど知っている。
「……おい、ピピ。なんで俺は魔力を使っちゃいけねぇんだ。幻獣の力さえ出せれば、こんな人形、一瞬で消し飛ばせる」
剣を杖代わりに突き立て、ルシアンは忌々しげに吐き捨てた。
「君みたいな幻獣は、人語を解するほど知能が高い。それなのに、力任せに暴れるだけなんて知性の無駄遣いだろ」
ピピは手に持った羽はたきを、まるで指揮棒のように軽やかに振った。
「だから、今は君の本来の戦闘スタイルがどうだろうと関係ない。力の繊細な制御の仕方が掴めるまでは、剣での訓練に付き合ってもらうよ」
その灰色の瞳は、ルシアンを言葉の通じない獣としてではなく、磨き上げれば光る知性ある存在として、冷徹に見定めている。
「それに、ベルローズ様が望んでいるのは庭を更地にすることじゃない。美しく守り抜く力だよ。……壊すだけなら、森の魔物たちと何も変わらないじゃないか」
ピピは冷淡に言い放つと、汚いものに触れるような手つきではなく、工芸品を修正するような厳格な手つきで彼の構えを整える。
そして顎で上方にある、テラスの影を指し示した。
苛立ちに任せて膨れ上がろうとしたルシアンの魔力が、内側から弾けそうになる。
その時、ルシアンの首元にある紫の薔薇が、ドクンと淡く熱を持つ。
血管を伝って直接脳髄へと流れ込んでくるのは、ベルローズの濃密な魔力だ。
それはルシアンの体内で制御不能な濁流となって暴れ回る幻獣の力を、その荒ぶる本性を、細く鋭い一本の理性へと整えていく。
自分の荒々しい咆哮が冷たい絹で縛り上げられ、望まぬ形に矯正されるような、もどかしい強制。
彼は思わず、わずかに尾の先をピクリと震わせ、喉を鳴らした。
欄干に手をかけ、眼下の訓練を見下ろすベルローズの瞳には、やはり感情の色はない。
だが、彼女がこうして魔力を送り続けているのは、彼を支配し、意のままに操るためではない。
強すぎる力がその未熟な器を内側から焼き切ってしまわないよう、彼女自身の魔力を緩衝材として、彼の魂の節々に添えているのだ。
彼女にとってルシアンは、嵐の中で折れかかった、名もなき若木。
それを真っ直ぐに、高く伸ばすために。
彼女は静かに、添え木のような魔力を絶やさず送り続けていた。
(……あの女。俺を騎士にするって言ったのは、本気なのかよ。こんな、不完全な出来損ないを)
自分でも持て余すこの呪われた体を、彼女は景観の一部だと言って受け入れた。
その真意は、まだ深い霧の向こうにある。
けれど、生まれて初めて「殺すか、利用するか」以外の目的で、自分の存在を形作ろうとしてくれる者の視線を背中に受けている。
ルシアンは不器用に、けれど力強く、再び剣を構え直した。
理由はどうあれ、今の自分をこの世界に繋ぎ止めているのは、あの上で静かに佇む主の魔力なのだ。
野性の掟に、借りを作ったまま生きるという選択肢はない。
彼なりの意地を剣に込め、ルシアンは石人形の喉元へと、鋭い一突きを繰り出した。
今度は、尾の力に頼ることなく。
ただ、己の意志と、主の魔力が示す導線に従って。




