第10話:月下の残り香
ルシアンとピピがテラスを去り、重厚な黒檀の扉が閉まる音が、低い余韻を残して石造りの空間に響き渡った。
再び静寂に沈んだテラスで、風がドレスの裾を擦る音だけが、やけに鮮明に聞こえる。
ベルローズは手すりに置いた自らの指先をじっと見つめた。
そこには先ほどまで、確かに一人の青年の、荒々しくも生気に満ちた命の拍動が、自身の魔力を通じて伝わっていた。
人の指よりも熱く、獣の爪よりも鋭く。
そして何よりも「ここに生きている」という自己主張を孕んだ、抗いがたい熱量。
制御できないほどに野性的にも思えたが、それゆえに彼女をどこか安堵させていた。
(……ルシアン。サファイアブルーの、瞳)
彼女は、夜の森が吐き出す冷えた空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
微かに波立つ心を、物理的な冷気で鎮めようと試みたのだ。
だが、一度呼び覚まされた熱は、容易には消え去らない。
「自分は不完全な出来損ないだ」と自嘲した、あの青年の痛々しいほどに澄んだ瞳。
そこに宿っていたのは、かつて王都の片隅で、己の頭上にそびえる漆黒の角を忌まわしい異形と感じ、誰の目にも触れぬよう、闇に隠れて生きていた自分と同じ。
救いようのない孤独な光だった。
だからこそ、彼女は傲慢な主としての言葉でしか、彼を肯定することができなかった。
優しさという名の柔らかな衣を、彼女はとうの昔に、あの冷淡な王都の床に脱ぎ捨ててしまったから。
「……私は、何を浮かれているというの」
独りごちた声が、虚空に溶けて消える。
彼に名を告げられた瞬間、胸の奥で小さな火が灯ったような、微かな熱を感じた。
それは、長い間この城を凍てつかせていた停滞を、ほんの僅かだけ溶かすような……。
喜びと呼ぶにはあまりに不慣れで、あまりに不器用な鼓動だった。
だが、解け始めた氷の隙間から溢れ出したのは、温もりだけではなかった。
その熱はやがて、刺すように鋭い怯えへと変質していく。
ベルローズは、自らの首元にそっと指を添えた。
そこには今、何も触れてはいない。
だが、かつて自分を所有していたあの男の感触が、まるで亡霊のように残っている。
眩いばかりの金髪に、すべてを透かすような冷徹な碧眼。
汚れ一つない白手袋を嵌めたその手が、慈しむような所作で彼女の角を矯正すべき不備として覆い隠した、あの冬の日の記憶。
男の微笑みは常に正しく、美しく、そして完璧に計算されていた。
彼がベルローズを『美しい装置』として定義したとき、彼女はそれを、自分を想うがゆえの献身だと信じ込んでいた。
歪な形で管理されることを、愛だと取り違えていたのだ。
(信じてもよいものかしら。……あの眼差しを。あの、誓うように紡がれた名を)
ルシアンを城に置いたのは、単なる気まぐれでも、王都への意趣返しでもない。
自分と同じ傷を抱えながら、それでも牙を剥いて生きようとする者への、抗いがたい魂の共鳴だ。
だが、その共鳴こそが恐ろしい。
誰かを招き入れるということは、自らの内に、裏切られるための余白を作ることに他ならない。
思考の影が、耳元で毒を吐くように囁く。
彼がいつか、この城の静寂に飽きたら?
白手袋を嵌めたあの男のように、再び自分を『異形』と呼び、蔑むのではないか?
喉元を繋ぐその薔薇を、呪わしい首輪だと牙を剥くのではないか?
裏切られる痛みなら、もう嫌というほど知っている。
骨の髄まで、魂の形が変わるほどに刻みつけられている。
最初から一人でいることの静かな孤独よりも、一度差し出した手を無残に振り払われることの方が、今の彼女にとっては遥かに恐ろしく、耐えがたい絶望だった。
「……騎士などと。我ながら、滑稽な夢を見ているわ」
彼女は自嘲するように目を伏せた。
自分自身さえ信じきれぬ人間不信の塊が、行き場のない獣を繋ぎ止め、あろうことか忠誠などという、高潔なものを期待している。
これは救済などではなく、ただの歪な共依存の始まりに過ぎないのではないか。
あるいは、森の奥で寂しさに耐えかねた女が見る、一時の、あまりに儚い幻想に過ぎないのか。
けれど。
指先に残る魔力の残滓――ルシアンの首元で、彼の命を繋ぎながら、確かに自分の存在を求めて脈打つ薔薇の拍動が、彼女の冷え切った内に微かな温度を刻み続けていた。
ルシアンの鼓動は、あの碧眼の男のように一定で機械的なものではない。
それは迷い、焦り、時に高揚し、そして今、この瞬間も「ここにいる」と叫んでいる。
その規則正しくも生命力に満ちたリズムが、彼女の疑念を静かに否定しようとする。
「もし……もしあなたが、私を裏切るのなら」
彼女の呟きは、森の霧を切り裂くような冷たさを帯びていた。
残酷な断罪のようでありながら、その震える語尾には、どこか縋るような祈りが混じっていた。
「その期待を、私の誇りを、再び踏みにじるというのなら」
テラスの隅に置かれた石の彫像が、彼女の魔力に当てられて微かに震える。
彼女の角が、不穏な赤紫色に強く発光した。
それは警告の色であると同時に、彼女自身が壊されることを、極限まで恐れている証でもあった。
「その時は、他の誰でもない。私のこの手で、あなたを終わらせてあげる。……あの銀の鎖よりも、ずっと深く、残酷に」
それは、彼女にできる最大級の誓いに近いものだった。
裏切られる前に殺す。
それは、かつて自分を人間ではなく部品として扱った者への、遅すぎた抵抗の形でもある。
ベルローズは再び、凍てつく月を見上げた。
月の光は冷たく、均整の取れた彼女の輪郭を白く縁取っている。
このドラクロワ城で、ただ腐り落ちるのを待っていた日々。
そこに、招かれざる新しい命が灯った。
それは祝福ではなく、いつか自分を焼き尽くす劫火になるかもしれない。
彼女は、かつてない恐怖と、認めがたい微かな期待が泥濘のように混ざり合った、酷く不安定な心地のまま、静かに瞳を閉じた。
風に揺れる黒レースのドレスが、夜の闇に同化していく。
(……ルシアン。あなたなら、夜の庭に、決して枯れぬ花を咲かせてくれるかしら)
彼女は、自分の中に生まれたその甘い問いかけを、即座に冷徹な理性で押し殺した。
その夜の眠りの中で彼女が見たのは、王都の白い牢獄ではない。
深い森の霧の中で、一頭の蒼い狼が自分の隣に寄り添う、静かな夢だった。




