第11話:野性と制御の境界線
ドラクロワ城を包む霧は相変わらず深く、外界との断絶を保ち続けている。
しかし、その内側で繰り返される生活が日常の体温を帯びるにつれ、ルシアンの心境には、かつての剥き出しの不信感とは別の、落ち着かない居心地の悪さが芽生え始めていた。
決して不快なものではない。
ただ、これまで誰にも、同族にさえ踏み込ませなかった自分の領域に、他者の気配が当たり前のように存在することへの戸惑いだった。
「……あ、そこ。右から二番目の毛束、まだ少し跳ねてるね。まったく、どんな寝相をしたらこんなに絡まるんだか」
鏡の前。
ピピは、至極当然といった顔をして、椅子に座ったルシアンの背後に立っていた。
その手には、精緻な紋様が彫りこまれた、木製のブラシが握られている。
「じっとしてて。動くと地肌を傷つけるよ。騎士の身だしなみは、城の品格そのものなんだから」
ピピの少し冷たい指先が、密集した厚みを持つルシアンの尾の付け根に、迷いなく潜り込んだ。
「まったく、君がこんなボサボサのままで廊下を歩くのは、僕が磨いた床に泥をぶちまけるのと同じくらい耐え難いんだよ」
かつてのルシアンなら、己の急所の一つである尾に触れようとする者の指など、言葉を交わす前に噛みちぎっていただろう。
だが今の彼は、「勝手にしろ」と低く鼻を鳴らして、前を見据えたままだ。
ピピがブラシを動かすたび、藍色の長い毛が空気を孕んでふわりと広がり、光の加減で深い群青から鮮やかな蒼へと色彩を変える。
丹念に梳かされた尾は、まるで極上の絹を何層にも重ねたような、積もったばかりの新雪を集めたような、弾力のある密な質感を取り戻していく。
(……こいつ、完璧主義を気取ってる割には、右側の梳かし方が甘いんだよな。さっきからそこだけ毛並みが逆立ってる)
一定のリズムで繰り返されるブラシの刺激に、不覚にも喉の奥が鳴りそうになるのをルシアンは必死に堪えていた。
梳かされるたびに、皮膚の裏側に溜まっていた熱が毛の隙間から逃げていき、驚くほど身体が軽くなる。
藍色の獣耳をピクリと震わせながら、彼は心の中で密かな、そしてひどく矮小な不満を漏らしていた。
かつては泥にまみれ、毛並みが固まろうが血に汚れようが、命さえあればそれで構わなかった。
だが今、この清潔な城でピピに手入れをされていると、わずかな毛並みの乱れさえも自分を不完全に見せているような錯覚に陥る。
ピピの小言は相変わらず耳障りだが、そこに自分を蔑む響きはない。
ただ城の一部として、日々使われる食器や、調度品と同じ熱量で磨き上げようとする。
ただ、ルシアンをあるべき形へと整える。
そんな無機質ゆえの誠実さがあった。
「おい、ピピ。毛繕いはもういいだろ。今日は三体同時に出せ。少し試したいことがある」
「へぇ。君、ずいぶん真面目だね。ベルローズ様に毛並みを褒めてもらいたいわけ?」
ピピは手に持ったブラシをあえてゆっくりと銀のトレイに置くと、唇の端に小さな、いたずらめいた笑みを浮かべた。
わざとらしくルシアンの横顔を覗き込むその灰色の瞳には、新入りの騎士が必死になっている様を楽しんでいるような余裕がある。
「……うるせぇ、さっさと準備しろ。あんたの魔法、掃除のしすぎで鈍ってんじゃないのか?」
「ふん、誰に言ってるんだ。僕は『城そのもの』から生まれた完璧な精霊だよ? ……いいよ、後で泣き言を言っても知らないからね」
軽口を叩くピピを背に、ルシアンは中庭へと降りた。
身に着けた訓練着が、動きに合わせて微かに擦れる音を立てる。
窮屈に感じたはずのその布地は、自分の輪郭を律するための心地よい拘束へと変わりつつあった。
踏みしめる石畳の感触は、かつての獣の爪では捉えきれなかった硬度を正確に伝えてくる。
ルシアンの動きは、以前のような過剰な力みから解放されていた。
ピピの合図と共に、周囲の影から染み出すように、三体の石人形が立ち上がる。
ルシアンはそれを迎え撃ち、捌きながら、かつては不自由な檻だと忌み嫌っていたこの人間の体の特性を、ようやく客観的に捉え始めていた。
幻獣の姿は、すべてを破壊し尽くす原初の暴力だ。
その力は圧倒的だが、あまりに強大すぎて繊細さに欠ける。
敵も、周囲も、立っている大地さえも等しく粉砕してしまう。
かつての自分なら、この場にいる石人形ごと、中庭の美しい石畳を広範囲に抉り取り、ベルローズの愛でる薔薇の根元まで吹き飛ばしていただろう。
けれど、この人の姿は違う。
首元の紫の薔薇から、絶え間なく流れ込むベルローズの魔力。
ルシアンはそれを、自分の血液を巡らせるように指先、そして重い黒鉄の剣の切っ先まで浸透させた。
それは、荒れ狂う嵐を一本の細い絹糸に紡ぎ直すような、奇妙で不可思議な全能感だった。
これならば、石人形の表面の薄皮一枚だけを斬り裂き、核にのみ衝撃を届けるような、精密な芸当も可能になるだろう。
(……悪くねぇ。これなら、あの女の側にいても、余計なものを壊さずに済む)
ふと、石人形の首筋に鋭い剣先を滑らせながら、そんな思考が脳裏をよぎった。
その瞬間、ルシアン自身が自分の考えに驚き、わずかに剣筋が揺れる。
「彼女を守りたい」という明確な忠誠心に辿り着くには、彼はまだあまりに野性的すぎた。
だが、この城の静かな空気。
鏡のように磨き上げられた廊下。
ピピが用意する冷たい湧き水の入った杯の輝き。
それらを、自分の制御しきれない暴力で汚したくない。
その奇妙な縄張り意識に近い独占欲が、彼の胸の奥で静かに根を張っていた。
彼女が守っているこの静寂を、自分が壊すわけにはいかないのだ。
「……おい! 何ボーッとしてるんだ、隙だらけだよ!」
背後から、石人形の剛腕が風を切って迫る。
ピピの鋭い警告に、ルシアンは一瞬で我に返った。
「……っ、分かってんだよ!」
ルシアンは地を蹴り、滑らかな旋回と共に剣を閃かせた。
かつては尾で取っていた重心を、今は鍛えられた体幹と、体内を巡るベルローズの魔力の均衡で支える。
吸い込まれるような鋭い一閃が、石人形の喉元を的確に貫いた。
火花も散らさず、周囲の花壇の土をひと粒も動かすことなく、対象の機能だけを鮮やかに斬り伏せる。
テラスの上。
欄干に白い手をかけ、こちらを静かに見つめるベルローズの視線が肌に刺さる。
その深紅の瞳が何を見ているのか、何を期待しているのか。
その真意は依然として深い霧の中だ。
それでも。
自分を騎士という正当な名で呼び、持て余していた力に、制御という道を示した彼女への、これは彼なりの意地だった。
あるいは、王都の人間が部品としてしか扱わなかった力を、彼女が技術として価値を見出したことへの、彼なりの回答。
(ただ……あいつがそう呼んだのなら、その名に見合う動きくらいはしてやる。それだけだ)
ルシアンは、額に張り付いた藍色の前髪を、戦いの熱と共に無造作に掻き上げた。
テラスの主に背を向けたまま、カチリと硬い音を立てて鞘に剣を収める。
その背中は、もはや迷い傷だらけの獣のそれではなく、城の静寂を背負う、揺るぎない一人の騎士の輪郭を帯び始めていた。




