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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第2章:騎士の形成

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第12話:茨のまどろみ

 深夜、ドラクロワ城は青白い月光の海に深く沈んでいた。

 城を囲む禁忌の森も今は静まり返り、時折、夜鳥が不吉な声を上げるだけだ。


 ルシアンは、人としての規律ある生活に馴染み始めている。

 だが、体内で渦巻く魔力の高まりと、己を律しようとする過酷な訓練による疲労が、その魂を一時的に、本来の荒ぶる形へと回帰させていた。


 ルシアンが人間の姿を維持しているのは、ベルローズの魔力を精密に制御するためだ。

 体内に溜まった魔力を放熱するのには、幻獣の姿のほうがかえって効率がよかったのだろう。


 テラスの隅、影の溜まり場で深い眠りに落ちているのは、一匹の蒼狼。

 冷たい月光が、夜の底を写し取ったような豊かな毛並みを一本一本、鋭く縁取っている。

 その姿は、まるで夜の闇に溶け込むようだった。


 太い首元には、人間の時と同じ、あの紫の薔薇が静かに咲いている。

 だがそれは、主の魔力の変幻に応じて別の形を成していた。


 紫に発光する、細い(いばら)()

 それは、幻獣の喉を締め上げる無機質な首輪ではなく、慈しむように、あるいは優しく縛るように絡みついている。

 毛並みの奥深くに沈み込み、脈動に合わせて淡く瞬く茨は、彼の命がベルローズの魔力と深く結びついていることを、静かに、独占的に主張していた。


「……う……、うぅ……」


 穏やかだった寝息が、次第に湿った、苦しげな(うな)りに変わる。

 伏せられた耳が微かに震え、ルシアンの前足が、何か目に見えぬ敵を追い払うように石床を鋭く掻いた。

 硬い爪が石を削る音が、静寂を乱す。


 夢の淵を浸食するのは、決して拭い去ることのできない暗い記憶の(よど)みだ。


 鼻を突く消毒液の刺激臭。

 焦げ付いた鉄の、生理的な嫌悪感を呼び起こす匂い。

 冷たい銀の檻が肌を焼き、自分の価値を検品する冷徹な声が、耳元で幾重にも重なり響く。


(……生きたまま魔導回路に繋げば、変換効率も飛躍的に上がる。死なせるなよ、これは『高価な部品』だ……)


(……強靭な幻獣である君なら……あの熱量も容易に制御し、永続的にエネルギーを産み出せるだろう?)


 幻獣であるルシアンは、人語をも解する。

 だが、王都の研究者たちは、彼が言葉を完全に理解していると知りながら、家畜を値踏みするような言葉を平然と投げつけてきた。


 意思が通じる尊厳ある生き物としてではなく、言葉を理解する、便利な高知能パーツとして。

 それが何よりの屈辱だった。

 過去の呪縛は、深い眠りの中にさえ牙を剥き、彼の魂をあの暗い泥濘(でいねい)へと引き戻そうと、しつこく脚に絡みついてくる。



「……また、何かに追われているのかしら。それとも、失った群れの影を追っているの?」


 静寂を裂く、柔らかな衣擦れの音。

 私室から出たベルローズが、そこに音もなく立っていた。

 彼女は、悪夢に喘ぎ、体を震わせる獣を静かに見つめる。


 激しい呼吸に合わせ、大きく上下するその背。

 彼がどのような地獄を再体験しているのか、彼女に知る術はない。

 けれど、必死に何かを拒むように石床を掻く爪の音は、かつて絶望の中にいた自分自身の呼吸と、酷く似通ったリズムを刻んでいる。


 量られる側の痛み。

 それは、彼女の魂に刻まれた消えない(あざ)と同じ色をしていた。


 ベルローズは、迷うことなくその場に(ひざまず)き、荒い毛並みに白く細い指先を沈めた。

 熱を帯びた獣の体温が、彼女の冷たい掌を包み込む。


 起きている時の彼ならば、人間の姿の彼ならば――。

 この距離に近づくことさえ、互いの矜持(きょうじ)が許さなかっただろう。


「人の姿でいるのが、そんなに苦しいの?」


 ベルローズは独り言のように囁きながら、指先から丁寧に、静謐な魔力を流し込んでゆく。


「未だに夢の中でまで、檻に閉じ込められているのかしら」


 彼女の魔力は、夜風よりも穏やかで、けれど外界の不浄を一切寄せ付けない、絶対的な断絶の力。

 チョーカーの茨が呼応して紫の光を強めると、ルシアンの体内を巡る不吉な記憶が、春の雪解けのように鎮められていく。

 ベルローズの手のひらを通じて、獣の強張りが、波が引くように解けていった。


 喉の奥の(うめ)きは消え、呼吸は深く、安らかなものへと変わる。

 ベルローズはしばらくの間、無防備な獣の毛並みを愛おしむようになぞり続けていた。


 相手が眠っているからこそ許せる、彼女自身の心の防壁を解いた束の間の休息。

 触れられているのは彼のはずなのに、癒されているのは自分の方ではないかと、自嘲気味に息を吐く。


「……おやすみなさい。人のままでも、獣のままでも……好きなように。怯えずに眠るといいわ」


 彼女は、ルシアンの額をそっと指先で撫でた。


「ここには、あなたを量る(はかり)なんて存在しないのだから。……ましてや、誰かのための部品になんて、私がさせはしない」


 その指先が、名残惜しそうにルシアンの耳の付け根を一度だけ、熱を確かめるように撫で、彼女は月影の中に消えた。

 彼女が去った後のテラスには、ただ浄化されたような清冷な空気だけが残されていた。


 ◆


 翌朝。

 眩しい陽光がテラスを(あぶ)り、ルシアンは目を覚ました。


 視界に入ったのは、狼の太い前足ではなく、もはや見慣れた自分の人間の手だ。

 いつの間にか形態は安定し、服の乱れもない。


(……何か、温かい夢を見た気がする。あんなに、何かに追い詰められていたはずなのに)


 首元のチョーカーに触れても、そこにはいつもの柔らかな布の感触と、一輪の薔薇があるだけだ。

 茨の棘が自分を癒したことなど、彼は露ほども知らない。


 (かたわ)らで、昨夜の痕跡を消すように念入りに石畳の掃除を始めていたピピに、ルシアンはそれとなく尋ねた。


「……なぁピピ。暗いうち、誰かここに来たか?」


「ふん、君がだらしなく、犬みたいに丸まって眠っていただけだろ?おかげで毛の掃除が大変だよ」


 ピピは鼻で笑い、無頓着に箒を動かした。

 その表情には、主の秘密を守る精霊としての、わずかな誇らしさが隠れている。


「城の景観を損なうから、次からはちゃんと寝室で寝なよ。……まあ、昨夜はこの城の空気も、少しだけ優しかった気がするけどさ。石が冷えすぎなかったというか」


「……あ?」


「なんでもないよ。さっさと顔を洗ってきな! 訓練の時間に遅れるだろ!」


 ルシアンは自分の手のひらを見つめ、指先に微かに残る、あの柔らかな熱の正体を知らぬまま立ち上がる。

 なぜか今日は、身体の芯に残っていた重苦しい魔力の(おり)が消え、驚くほど体が軽い。


 彼はその熱を、昇り始めた太陽のせいだと思い込み、再び己を律するための訓練へと向かった。

 その凛とした背中を、城の奥――、ステンドグラスの影から見つめる、深紅の瞳があることを、彼はまだ知らない。

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