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【完結】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―  作者: 彩羽やよい
第2章:騎士の形成

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第8話:月下の残り香

 ルシアンとピピがテラスを去り、重厚な黒檀(こくたん)の扉が閉まる音が、低い余韻を残して、石造りの空間に響き渡った。

 再び静寂に沈んだテラスで、風がドレスの(すそ)(くすぐ)る音だけがやけに鮮明に聞こえる。


 ベルローズは、手すりに置いた自らの指先をじっと見つめた。

 そこには先ほどまで、確かに一人の青年の、荒々しくも生気に満ちた命の拍動が、自身の魔力を通じて伝わっていた。


 人の指よりも熱く、獣の爪よりも鋭く。

 そして何よりも「ここに生きている」という自己主張を(はら)んだ、抗いがたい熱量。

 制御できないほどに野性的にも思えたが、それゆえに彼女をどこか安堵あんどさせていた。


(……ルシアン。サファイアブルーの、瞳)


 彼女は、夜の森が吐き出す冷えた空気を、肺の奥深くまで吸い込んだ。

 微かに波立つ心を、物理的な冷気で(しず)めようと試みたのだ。

 だが、一度呼び覚まされた熱は、容易には消え去らない。


「自分は不完全な出来損ないだ」と自嘲(じちょう)した、あの青年の痛々しいほどに澄んだ瞳。


 あの目に宿っていたのは、王都の片隅で、己の頭上に(そび)える漆黒の角を忌まわしい異形と感じ、誰の目にも触れぬよう生きていた自分と同じもの。

 救いようのない、孤独な光だった。


 だからこそ、彼女は傲慢(ごうまん)な主としての言葉でしか、彼を肯定することができなかった。

 優しさという名の柔らかな衣を、彼女はとうの昔に、あの冷淡な王都の床に脱ぎ捨ててしまったから。


「……私は、何を浮かれているというの」


 独りごちた声が、虚空に溶けて消える。

 彼に名を告げられた瞬間、胸の奥で小さな火が灯ったような、微かな熱を感じた。


 それは、長い間この城を凍てつかせていた停滞を、ほんの(わず)かだけ溶かすような。

 喜びと呼ぶにはあまりに不慣れで、不器用な鼓動だった。


 だが、溢れ出したのは温もりだけではすまなかった。

 その熱はやがて、刺すように鋭い(おび)えへと変質していく。


 ベルローズは、自らの首元にそっと指を添えた。

 そこには今、何も触れてはいない。

 だが、かつて自分を所有していたあの男の感触が、まるで亡霊のように残っている。


 (まばゆ)いばかりの金髪に、すべてを透かすような冷たい碧眼(へきがん)

 汚れ一つない白手袋を嵌めたその手が、(いつく)しむような所作で、彼女の角を矯正すべき不備として覆い隠した、あの冬の日の記憶。


 男の微笑みは常に正しく、美しく、そして完璧に計算されていた。

 彼がベルローズを『美しい装置』として定義したとき、彼女はそれを、自分を想うがゆえの献身だと信じ込んでいた。

 (いびつ)な形で管理されることを、愛だと取り違えていたのだ。


(信じてもよいものかしら。……あの眼差しを。あの、誓うように紡がれた名を)


 ルシアンを城に置いたのは、単なる気まぐれでも、王都への意趣返しでもない。

 自分と同じ傷を抱えながら、それでも牙を剥いて生きようとする者への、抗いがたい魂の共鳴だ。


 だが、その共鳴こそが恐ろしい。

 誰かを招き入れるということは、自らの内に、裏切られるための余白を作ることに他ならない。


 思考の影が、耳元で毒を吐くように囁く。


 彼がいつか、この城の静寂に飽きたら。

 白手袋を嵌めたあの男のように、自分を異形と呼び、(さげす)むのではないか。

 喉元を繋ぐその薔薇を、呪わしい首輪だと牙を剥くのではないか。


 裏切られる痛みなら、もう嫌というほど知っている。

 骨の髄まで、魂の形が変わるほどに刻みつけられている。


 初めから一人でいるがゆえの静かな孤独より、一度差し出した手を無残に振り払われること。

 その方が、今の彼女にとっては遥かに恐ろしく、耐えがたい絶望だった。


「……騎士などと。我ながら、滑稽(こっけい)な夢を見ているわ」


 彼女は自嘲するように目を伏せた。

 自分自身さえ信じきれぬ、人間不信の塊が、行き場のない獣を繋ぎ止めて。

 あろうことか忠誠などという、高潔なものを期待している。


 これは救済などではなく、ただの歪な共依存の始まりに過ぎないのではないか。

 あるいは、森の奥で寂しさに耐えかねた女が見る、一時の、あまりに儚い幻想に過ぎないのか。


 けれど。

 指先に残る魔力の残滓(ざんし)

 ルシアンの首元で、彼の命を繋ぎながら、確かに自分の存在を求めて脈打つ薔薇の拍動が、彼女の冷え切った内に微かな温度を刻み続けていた。


 ルシアンの鼓動は、あの碧眼の男のように一定で機械的なものではない。

 それは迷い、焦り、時に高揚し、そして今この瞬間も「ここにいる」と叫んでいる。

 その規則正しくも生命力に満ちたリズムが、彼女の疑念を静かに否定しようとする。


「もし……、もしあなたが、私を裏切るのなら」


 彼女の呟きは、森の霧を切り裂くような冷たさを帯びていた。

 残酷な断罪のようでありながら、その震える語尾には、どこか(すが)るような祈りが混じっていた。


「その期待を、私の誇りを、再び踏みにじるというのなら」


 テラスの隅に置かれた石の彫像が、彼女の魔力にあてられて微かに震える。

 彼女の角が、不穏な赤紫色に強く発光した。

 それは警告の色であると同時に、彼女自身が壊されることを、極限まで恐れている証でもあった。


「その時は、他の誰でもない。私のこの手で、あなたを終わらせてあげる。……あの聖銀の鎖よりも、ずっと深く、残酷に」


 それは、彼女にできる最大級の誓いに近いものだった。

 裏切られる前に殺す。

 それは、かつて自分を人間ではなく部品として扱った者への、遅すぎた抵抗の形でもある。


 ベルローズは再び、凍てつく月を見上げた。

 月の光は冷たく、均整の取れた彼女の輪郭を、白く縁取っている。


 このドラクロワ城で、ただ腐り落ちるのを待っていた日々。

 そこに、招かれざる新しい命が灯った。

 それは祝福ではなく、いつか自分を焼き尽くす劫火(ごうか)となるかもしれない。


 彼女は、かつてない恐怖と、認めがたい微かな期待が泥濘(でいねい)のように混ざり合った、酷く不安定な心地のまま、静かに瞳を閉じた。

 風に揺れる漆黒のドレスが、夜の闇に同化していく。


(……ルシアン。あなたなら、夜の庭に、決して枯れぬ花を咲かせてくれるかしら)


 彼女は、自分の中に生まれたその甘い問いかけを、即座に冷徹な理性で押し殺す。


 だが、その夜の眠りの中で彼女が見たのは、王都の白い牢獄ではなかった。

 深い森の霧の中で、一頭の蒼い狼が自分の隣に寄り添う、静かな夢だった。

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