第7話:サファイアブルーを肯定する唇
「尻尾の先っちょを持ち上げて歩いてよ! この石床を磨き上げるのに、僕がどれだけの魔力と時間を練ったと思ってるんだ!」
尾の先が、鏡のように磨かれた漆黒の石床を微かに擦るたびに、ピピの口うるさい指示が夜の回廊に響き渡る。
青年はその執拗さに苛立ちを覚え、鼻に皺を寄せつつも、不思議と胸の内に不快な澱は溜まらなかった。
尾を汚さぬよう慎重に、かつ背筋を伸ばして堂々と歩くこと。
それは、泥を啜り、家畜のように扱われて地に堕とされていた彼の自尊心を、一枚ずつ丁寧に拾い集めていくための、静かな儀式のように感じられた。
高い窓の向こうには、銀色の霧に煙る禁忌の森が、意志を持つ怪物のようにどこまでも不気味に広がっている。
だが、この城の内に流れる空気は驚くほど澄み、安らかだった。
自分を殺し、魂まで銀の術式で縛り付けようとした、あの焦げ付くような忌々しい金属臭は、もうどこにもない。
ここにあるのは、古い石の冷たさと、微かな香草の残り香。
そして主の圧倒的な魔力がもたらす、暴力的なまでに安定した静寂だ。
やがて、最上階のテラスへと続く、重厚な彫刻が施された黒檀の扉の前に辿り着いた。
ピピは扉の取っ手に小さな手をかけると、動きを止め、青年を振り返った。
その瞳には、いつもの毒舌とは違う、鋭くもどこか期待の入り混じった熱が宿っている。
「いいかい。ベルローズ様の前では失礼のないように。特に、無駄な牙は剥かないことだ。分かったね?」
ピピは背筋をぴんと伸ばし、居住まいを正した。
そして、月光が溢れ出す扉を、重厚な音と共に静かに押し開く。
夜風がテラスを激しく吹き抜け、庭園から運ばれた夜の薔薇の香りを、乱暴に、けれど優雅に散らしていく。
手すりの傍ら、銀の月光を一身に背負って立つベルローズは、振り返ることもなく口を開いた。
その声は、夜の冷気を含んだ透徹な刃のように硬く、そして狂おしいほどに美しかった。
「……随分と時間をかけたのね、ピピ。掃除に熱が入りすぎて、素材をすり減らしてしまったのかしら」
「申し訳ありません、ベルローズ様。少々、磨き上げるのに苦労いたしまして。ですが、仕上がりは最高級かと」
ピピが恭しく、深く頭を下げる。
青年はその横で、ただ圧倒されて立ち尽くしていた。
夜空を背景にした彼女の横顔。
その頭部から伸びる漆黒の角が月を刺す。
彼女が纏う孤独は、この城そのものを守護する高い壁のようだった。
ベルローズがゆっくりと、重厚なドレスの裾を翻して振り返る。
その深紅の瞳には、弱者を憐れむ慈悲など微塵もなかった。
ただ、研ぎ澄まされた理性と美学だけで、整えられた男の姿を、その魂の深淵まで見透かすように冷淡に射抜く。
「……綺麗に整ったわね。やはり、その方がよく見えるわ」
青年はその言葉に僅かな苦味を感じ、一瞬だけ視線を逸らした。
自分をただの動力源として、便利な道具として扱おうとした王都の連中。
そして、自分を混じり物だと、不完全だと蔑んだ同族たち。
忌み嫌われ、疎まれてきた、この呪われた青い瞳。
彼は鏡の中で見た、あのサファイアブルーの異質さを思い出し、吐き捨てるように言った。
「……あんたも、この色が『綺麗』だなんて言うつもりかよ。……一族じゃあ、これは不完全な出来損ないの証なんだ」
「出来損ない? ……随分と狭い世界の話ね」
ベルローズは微笑む代わりに、冷ややかに鼻で笑った。
彼女の瞳に宿るのは、憐れみではない。
かつて彼を縛った、矮小で愚かな価値基準に対する、明確な侮蔑だ。
「その瞳は、あなたが弱いために宿ったのではない。あなたが誰よりも『命』に近く、繊細な魂を持っている証よ。私は、そのサファイアブルーに宿る深い孤独と、折れぬ誇りを……、評価したいわ」
「…………っ」
青年は、息を呑んだ。
(評価、だと……?)
かつて彼を道具として検品したあの男も、確かに同じ言葉を使った。
だが、あいつが求めたのは魔力の変換効率や、肉体の耐久性という性能だけだった。
目の前の女が肯定したのは、そんな機能ではない。
あの日、冷たい雨の中で踏みにじられ、誰にも届かなかったはずの、彼の心そのものだ。
彼女は「愛したい」だとか、「守りたい」のような、そんな甘く、無責任な言葉は使わなかった。
ただ、他者が出来損ないと断じた彼の性質を、一つの至高の美学として淡々と、冷徹に肯定したのだ。
それが、今の彼にはどんな救いの言葉よりも、深く、痛烈に胸に刺さった。
「……あんた、俺を助けて、こんなものまで付けて……。何が望みなんだ。俺をこれからどうするつもりだ」
「どうするつもりか、ですって?」
ベルローズは手すりから手を離し、一歩、彼へと歩み寄った。
彼女が全身から放つ魔圧が、青年の肌を心地よく刺激する。
ベルローズに近寄られるにつれ、青年の喉元の薔薇は熱を帯び、鼓動を急かすかのように脈動していた。
「私は、私の庭に相応しくないものは置かない。銀の鎖を噛みちぎり、誰にも屈さずに死のうとしていたあなたの魂は、この城の景色に馴染むと思った。……絶望の中でもなお牙を研ぐ獣なら、傍についてもいい。それだけ」
ベルローズは淡々と告げる。
青年の首元の薔薇が、主の言葉に呼応するように淡い紫の光を放ち、夜の空気を震わせた。
「あなたが私の騎士として、その研ぎ澄まされた牙を、次に誰に向けるのか。それを見届けたいだけよ」
「……景観の一部、かよ」
青年は自嘲気味に鼻を鳴らした。
だが、その胸の奥では、長く凍り付いていた心臓が、熱い血液を全身に送り出すように激しく疼いていた。
復讐でも、生存本能でもない。もっと別の、何かに応えたいという熱。
彼は、一瞬だけ足が震えそうになるのを必死に堪え、踏みとどまった。
「……あんたに、命を拾った礼など言うつもりはねぇ。だが……、俺の瞳を『出来損ない』と笑わなかったことには……。不本意だが、借りを返さなきゃならねぇと思ってる」
不器用で、ひどく掠れた言葉とともに、彼は自身の首に手をやった。
そして、紫の薔薇のチョーカーにそっと指を滑らせる。
それはもはや不快な異物ではなく、彼の体の一部として馴染み始めていた。
「俺は……、北方の霊峰に棲んでいた、古の幻獣の生き残りだ。……一族はもう滅びた。生き残ったのは、俺一人だ」
多くを語るつもりはなかった。
ただ、自分を縛っていた過去がもうどこにも存在しないこと。
そして、目の前の主以外に自分を定義する者がいないことを、自分自身に言い聞かせるように伝えた。
「あんたが、俺を『騎士』として置くってんなら……、一つだけ、言っておく。……俺の名前は、ルシアンだ」
「……ルシアン」
ベルローズはその名を一度だけ、冷たい唇で愛おしげに、あるいは残酷に、なぞった。
「そう。覚えたわ、ルシアン。私の騎士に……ふさわしい名だわ」
彼女は満足げに顎を引くと、再び、興味を失ったかのように銀の月へと視線を戻した。
まだ二人の間に、心を通わせるような温かさはない。
だが、月下のテラスで交わされたその名は、チョーカーを通じて魂に刻まれ、ドラクロワ城の歴史に新たな影を落とす。
その影は、いつか光よりも強く彼女を守るだろうことを、ベルローズはまだ予感の端に留めているだけだった。




