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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第2章:騎士の形成

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第6話:サファイアの原石と潔癖な精霊

「左の肩が三ミリ下がっているよ。そんな不格好な立ち姿で、ベルローズ様の前に出すわけにはいかないね。城の品位に関わる問題なんだから」


 ピピの小言は、青年が寝台から立ち上がった瞬間から、止まない雨音のように絶え間なく始まっていた。


 差し出されたのは、このドラクロワ城の静謐(せいひつ)な空気に似つかわしい、(のり)のきいた真っ白なシャツと、深い紺色のベスト。

 どちらも指先が滑るほど滑らかで、月光を吸い込むような上質な生地。

 それは、野生のなかで生きてきた彼の手には、あまりに過分で、恐ろしいほど清潔な文明の証だ。


「……着る。着るから、そう四方八方から眺めるんじゃねえよ。獲物を値踏みするみたいな真似はやめろ」


 彼はまるでうるさい虫でも追い払うかのように、尻尾を大きく左右に揺らした。

 苛立ちと共にシャツに腕を通そうとすると、ピピはすぐさま音もなく背後に回り込んだ。


「背筋を伸ばして。野生特有の猫背なんて、この城の美学には存在しないんだ」


 まるで見本の彫刻でも整えるかのように、ピピはその広い背筋をぴしゃりと叩く。

 少年らしい外見に似合わぬ、精霊としての毅然(きぜん)とした強さがその掌には宿っていた。


「いいかい。ベルローズ様が救い上げたのは、そこらで腹を空かせた野良犬じゃないんだから。最低限の形を整えるのは、僕に対する、ひいては城に対する義務だと思ってほしいね」


 ピピが指を鳴らすと、寝室の石壁の一部が魔力によって磨き上げられ、曇りなき鏡へと変質する。

 青年は、そこに映し出された自分の姿を、憎しみを込めて睨みつけた。


 整えられた濃藍色の髪の間から覗くのは、鋭く、凍てつくようなサファイアブルーの瞳だ。

 一族の群れにおいて、この色の瞳を持つ者は他にはいなかった。

 それは彼にとって、調和を乱す不吉の証であり、群れから疎外された記憶の表れ。

 忌々しい、烙印(らくいん)でしかなかった。


「……反吐(へど)が出る。この目も、この姿も」


 青年が低く、地を這うような声で吐き捨てると、ピピは不思議そうに小首を傾げた。


「何がだい? その瞳、この城の奥底で眠るサファイアの原石みたいに透き通っていて、僕は悪くないと思うけど。……ま、救いようのない性格の悪さが眼光に滲み出てるのは否定しないけどさ」


 ピピにとって、それはただの美しい色彩だった。

 一族の序列も、不完全さの烙印も、ピピの苛烈なまでの美学の前では(ちり)ほどの意味も持たない。


 ただ、城の景観を彩る一つのピースとして、合格か否か。

 その無頓着なまでの肯定に、青年は毒気を抜かれたように押し黙るしかなかった。


「おい、いつまで呆けてるんだよ。鏡が曇る前にさっさと着て! あんたの傷だらけの剥き出しの体なんて、僕の視神経にはノイズでしかないんだからさ」


「……分かってんだよ。触んな」


 青年は忌々しげに鏡から視線を()らし、シャツを引っ掴んだ。

 苛立ちからボタンを力任せに引きちぎろうとした瞬間、ピピの鋭い制止が入る。


「やめて! 貸して、僕がやるから! 万が一ボタンの掛け違えなんてあったら、ベルローズ様に顔向けできないよ」


 ピピの細く、硬質な指先が、シャツの僅かな歪みすら許さず、正確無比に整えていく。

 その執着は、王都の檻の中で受けた、商品としての検品作業よりも執拗しつようだった。

 けれど、そこには肉を焼くような痛みも、人格を(さげす)むような侮蔑(ぶべつ)も伴わない。

 ただ、至高の美を完成させようとする、狂気的なまでの情熱があるだけだ。


「……形ばかり整えてどうする。中身は、化け物のままだ」


「中身なんて、僕が掃除できるものじゃない。僕が責任を持つのは、この城の景観を損なわないようにする外側だけさ。……ほら、動かないで」


 ピピは一番上のボタンを留める際、青年の喉元にある紫の薔薇に触れないよう、壊れ物を扱うような細心の注意を払った。

 清潔な石鹸の香りと、糊のきいた硬い布の、首筋を圧迫する独特の感触。

 それは死線を彷徨っていた彼にとって、あまりにも異質な重みだった。


 シャツのボタンを留め、ベストを重ねていくごとに、自分の野生が文明という檻に閉じ込められていくようだ。

 だがそれとは裏腹に、何かに守られているような奇妙な安堵感を感じることも、また事実だった。


「……おい、そっちの毛。ブラッシングさせて。この城の空気には、清潔な毛並みが一番馴染むんだから。その状態は許しがたいよ」


 ピピが差し出したのは、城の石材と同じく硬質で、それでいて滑らかに磨き上げられた獣毛用のブラシだった。

 青年は一瞬、喉の奥で野性の(うな)りを鳴らしかけたが、ピピの灰色の瞳に宿る、職人のような、あるいは求道者のような真剣さに気圧(けお)された。


「……触んじゃねぇ、と言いたいところだが。好きにしろ」


 彼は腰元から垂れ下がる重厚な蒼い尾を、観念したように差し出す。


 ピピはそれを、獣の体の一部としてではなく、まるで王冠に嵌められた宝石を磨くような手つきで、根元から毛先まで丁寧に梳いていく。

 青年は一瞬だけ、本能的に尾を引こうとしたが、ブラシが通るたびに内側の熱が逃げていくような、そして汚れが削ぎ落とされるような心地よさに、ふっと肩の力を抜いた。


 青年は牙を剥く代わりに、重く溜まっていた熱を吐き出すように細く息をつく。


 ピピの小言は相変わらず耳障りなほど喧しいが、その掌から伝わるのは、王都の男たちが向けた、査定の冷たさではなかった。

 主の住まうこの城を、一点の曇りもなく美しく保ちたいという、精霊としての純粋で無垢(むく)な献身だ。


「よし。これでようやく、不快指数が許容範囲内に収まったかな」


 数分後。ピピに促され、鏡代わりの石壁の前に再び立った青年は、思わず息を呑んだ。

 そこに映っていたのは、泥と血にまみれ、冷たい雨の中で絶望を噛み締めながら死を待つだけだった、あの蒼い獣の成れの果てではない。


 糊のきいた上質なシャツがその肢体を包み、首元には深い夜の色を溶かし込んだようなチョーカーが、彼の新たな輪郭を象っている。

 その中央に結実した紫の薔薇は、鏡の中で、彼の新たな命の鼓動と共鳴するように、淡く、けれど揺るぎない紫の光を放っていた。


「……行こうか。ベルローズ様がお待ちだ」


 ピピの声が、静まり返った地下室に凛と響く。

 その言葉に背を押されるように、彼は初めて、己の意志で回廊へと踏み出した。


 ――逃げるためでも、戦うためでもなく。

 あの、傲慢(ごうまん)で気高い、深紅の瞳の女の元へ向かうために。

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