第6話:深淵に咲く契約の薔薇
地下の静寂を支配していたのは、石の精霊であるピピが発する、神経質なまでの魔力だった。
彼が城の体温を確かめるべく、黒曜石の壁に掌を預け、冷え切りすぎぬよう魔力の循環をミリ単位で調整していた、その時だ。
音もなく、扉が開く気配すらない。
部屋の隅、湿り気を帯びた影が意志を持って膨らんだかと思うと、そこには既にアマンダが『滲み出して』いた。
彼女はたとえ室内でも手放さない、大きなキノコそのものの傘を揺らし、軽い足取りで近づいてくる。
傘からはきらきらと、淡い陽光のように輝く胞子がこぼれた。
身に着けている靴や衣服にも、やわらかな苔や胞子が付着し、彼女の異質さを際立たせている。
「……アマンダ!まったく君ってやつは……もう少し普通に入ってこられないのか!心臓に悪いって何度言ったらわかるんだよ」
ピピの潔癖な抗議を、彼女は瞬き一つで聞き流した。
彼女の意識は既に、寝台に横たわる『新しい異物』へと注がれている。
アマンダは滑るような足取りで寝台へ近づくと、迷いなくその身を乗り出した。
彼女は無防備な青年の胸元に鼻を近づけ、クン、と小さく鼻を鳴らして、その深層にある香りを確かめる。
「冷たい鉄の味がします。……崩れて、壊れかけの、古い土の匂い。とても、お腹が空いている匂いですね」
感情の起伏が削ぎ落とされた声。
彼女が細い指を青年の傷口にかざすと、編み込まれたベージュの髪の隙間から、純白の菌糸が生き物のように溢れ出した。
それは糸というにはあまりに生命力に満ち、青年の裂かれた肉の合間を縫うように這い回り、驚くべき速度で欠損を埋めていく。
傷口を塞ぐその様子は、人間が知る治療とは根本から異なっていた。
それは別の生命が肉体を侵食し、細胞を糧として取り込みながら、欠落したパーツを再構築していくような、静かな凄絶さを孕んでいた。
「……――――」
青年の喉から、熱を帯びた呼気が漏れた。
肉を内側から焦がしていた聖銀の、あの神経を逆なでするような痛みが、アマンダが放つ土の底のような、ひんやりとした無感覚な冷気に塗り替えられていく。
菌糸が神経の末端を優しく麻痺させ、毒を分解すると、強張っていた彼の肩から重力に従うように力が抜けた。
「……ほら、ピピ。見てください。とてもおいしそうな生命力ですよ」
「おいアマンダ、あまり胞子を飛ばすなよ!石の隙間に入り込んだら掻き出すのが大変なんだから!城の石が脆くなっちゃうよ」
ピピが目尻を吊り上げて小言を飛ばすが、彼女は琥珀色の瞳で、せっせと治療を続ける菌糸をじっと見つめるだけだ。
彼女にとって、この青年が『人間』であるか『獣』であるかは些細な問題だった。
ただ、ベルローズが与えた生を繋ぐための土壌として、彼を最適化することに没頭している。
「ピピは、綺麗すぎるのが好きですね。大丈夫、この糸は彼の命と混ざり合って、やがて消えてしまいます。……ただ、食べて、食べられるだけですから。この城のすべてが、そうであるように」
青年の肌から、まとわりついていた死の影が引いていく。
不作法な客人として、命を削りながら城に辿り着いた青年の呼吸はもう、この城の最深部を流れる魔力の脈動と同じリズムで、静かに、深く刻まれ始めていた。
アマンダが治療の手を止め、ふと顔を青年の喉元へと近づける。
菌糸の白さが引いていくにつれ、そこに残された異質な支配が、魔光石の淡い燐光の中で鮮明に浮かび上がった。
「……あ、見てください、ピピ。とても、強い色がついています」
アマンダの小さな感嘆の声に誘われ、ピピもまた身を乗り出した。
青年の首筋を飾る、夜の底を溶かしたような漆黒のベルベット。
その中央に、静かに、しかし確固たる存在感を放って咲く一輪の紫の薔薇。
ピピは灰色の瞳を細め、その装飾に秘められた魔力の残滓を読み取ろうとした。
触れずともわかる。
その奥底で脈打っているのは、城の主であるベルローズの、鋭くも気高い魔力そのものだ。
それは、彼女の魂の一部を切り取って嵌め込んだかのような、重く、逃れようのない質量を持っていた。
「……ベルローズ様の魔力が、ここまで深く、魂の根元にまで定着しているなんて。ただの応急処置じゃない。この魔力の結び目は……重層的な『契約』だよ。――ベルローズ様は、この男を名実ともに、自分の所有物として定義したんだ」
ピピの声に、隠しきれない動揺が混じる。
精霊である彼らへの慈愛とは違う。
それはもっと、執着に満ちた、一対一の支配の形。
単なる迷い込んだ獣を憐れんで救ったのではない。
ベルローズは自らの明確な意志で、この男をドラクロワ城という閉ざされた秩序の中に繋ぎ止めたのだ。
それは、この青年がもはや不作法な客人ではなく、自分たちと同じように――あるいはそれ以上に重い意味で、彼女の絶対的な庇護下に置かれた眷属になったことを意味していた。
アマンダは琥珀色の瞳を輝かせ、薔薇の花弁をなぞろうとして、寸前で指を止めた。
主の魔力への敬畏が、彼女の本能にブレーキをかけさせたのだ。
「綺麗ですね……。この薔薇、私たちが中庭で咲かせたどの花よりも、深い夜の色をしています。ベルローズ様の、いちばん静かな場所の色……。悲しみと、怒りが混ざった、いちばん深い場所の色です」
彼女の言葉通り、紫の薔薇は青年の肌の上で、誇らしげに、そしてどこか孤独に咲き誇っている。
それは王都の銀がもたらした死を、ベルローズが自分自身の魔力で塗り替えた証。
そして、二度と彼女の許可なく壊れることも、何かに屈することも許さないという、呪いにも似た強烈な執愛の形だった。
「……ま、いいさ。ベルローズ様が決めたことなら、僕に異論なんてあるわけないよ。気に入らないけどね、こんな不潔そうな獣が『仲間』になるなんてさ」
ピピはわざとらしく大きな溜息を吐くと、仕上げとばかりに青年の枕の位置を、定規で測るような手つきでミリ単位の微調整をした。
その手つきには彼なりの、新しい同居人に対する不器用な受け入れの意思が混じっていた。
「アマンダ、行くよ。主人はもう、自室でお休みだ。……この男が目覚めて、最初に目にするこの場所が、最高に清潔であるように保っておかないとね。ドラクロワの名に恥じないように」
「はい。さようなら、新しいお友達。いい夢を見てくださいね。……独りで死んでいく、腐った土の夢は、もうおしまいです」
アマンダは影に溶けるようにその姿を消し、ピピは硬質な、規則正しい足音を響かせて、地下の寝室を後にした。
残されたのは、青白く光る魔光石の灯火と、静かに、一定のリズムで胸を上下させる青年。
そして、彼の首元で、主の加護を誇示するように静かに、濃密に香り続ける、紫の薔薇だけだった。
ドラクロワ城の地下深く。
止まっていた時間が、青年の新たな鼓動と共に、静かに、けれど確実に動き始めていた。




