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氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―  作者: 彩羽やよい
第1章:契約の薔薇

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第5話:蒼狼の残照

ドラクロワ城の地下。

そこは地上を吹き抜ける風の囁きも、禁忌の森が発する騒がしい生命の謳歌も届かない、静止した時間の層である。


天然の黒曜石を思わせる、硬質な岩肌を贅沢に削り出して作られた客室。

そこは洞窟のような無骨な力強さと、かつての主が客人をもてなしたであろう古き良き宮殿の品格を併せ持っていた。


冷たく澄んだ空気が沈殿するように滞留するこの場所は、深手を負った幻獣がその身体を休めるには最適な、孤独で静謐な揺り籠かもしれない。


「――ふんっ、と。……重いんだよ、あんた。図体ばかりデカいんだから」


血に汚れたシーツを剥ぎ取り、新たな純白の布へと青年を横たえ直したピピは、額に滲んだ汗を乱暴に拭った。

小柄な精霊である彼にとって、成人の、それも鍛え抜かれた肉体を持つ者を運ぶのは、いくら床を浮かせる魔法を使ったとはいえ、骨の折れる作業だった。


寝台に横たわるのは、先刻まで蒼い狼として死を待っていた青年だ。

ピピは病的なまでの執念で、シーツの一ミリの歪みも、一粒の塵の付着も許さず指先で伸ばしながら、その灰色の瞳で、この招かれざる客を冷徹に検分する。


「……全く、ベルローズ様も人使いが荒い。こんな、人間かどうかも怪しい拾い物を、よりによって城の中に運び込めだなんて」


月光を模した魔光石の淡い輝きが、青年の肢体を青白く照らし出す。

蒼白な肌に、夜の底を溶かしたような濃藍色の髪。

ピピは、その整いすぎた造形が癪に障ったようで、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……はぁ。なんでこんな、無駄に整ってるんだよ。腹が立つくらい、見た目だけは一丁前だな」


眠りに落ちた彼の表情には、先ほどまで見せていた峻厳な殺気はなく、どこか幼さの残る端正な輪郭が、微かな光に縁取られている。

それでいて、横たわった体つきは、子供の姿をした精霊であるピピとは根本から異なっていた。


広い肩幅から、腰へと続くしなやかなライン。

その四肢に纏う筋肉は、ただ見せつけるための無骨な塊ではない。


過酷な原野を駆け抜け、強大な敵と対峙し、生き残るために余分なものを極限まで削ぎ落とした末に残ったであろう、洗練された機能美の結晶だ。

それは一本の美しい槍のように鋭利な、戦うための肉体だった。


ピピは忌々しげに、青年の腰から伸びる太くしなやかな蒼い尾を指先でつまみ上げた。


「この尾も邪魔だ。それに、その耳。人間になりきる気も、隠す気もないのか?そもそも、こんな獣を持ち込むなんて……不浄極まりないよ」


城が汚れるのを嫌うピピにとって、血と泥の臭いを纏った獣は本来なら排除の対象だ。

だが、その指先が触れた蒼い毛並みは、驚くほど柔らかく、そしてベルローズの魔力を吸い込んだことで、微かな香気の粒子を放っていた。


ピピがシーツを整えるたびに、青年の濃藍の髪から覗く獣耳がピクリと震えた。

眠りの中でも解けぬ警戒心が、野生の生存本能としてそこに刻まれている。


不意に、ピピの視線が青年の喉元で止まった。

そこには、先ほどまで彼の命を削り、魂を焼き焦がしていた銀の鎖の代わりに、一輪の紫の薔薇が静かに花開いている。


「……信じられない。ただの『拾い物』に、ご自分の魔力をここまで直接分け与えるなんて。あの冷徹なベルローズ様が、一体何を考えてるんだ」


ピピは壁に掌を預けると、魔力の脈動を伝えて、薬を置くための棚を壁面からせり出させた。


彼の指先から伝わってくる城の振動は、異質な、それでいて強大な魔力の流入に、新たな住民の存在に、僅かにざわついているように感じられた。

部屋の石たちは、慣れない獣の重みに驚き、いつもより冷たく引き締まっているようだ。

地下の空気も、彼の呼吸を吸い込み、わずかな熱を帯びている。


「少し、城が驚いてるな。……あんたのせいだよ」


ピピは最後にもう一度、ぴんと張り直したシーツの角を叩き、満足げに頷く。

その完璧主義な性格が、青年を今やこの部屋の美しき展示品の一部として扱わせていた。

だがその直後、彼の目に人間の子供には決してない、冷徹な光が宿る。


「……あんたが、あの方の平穏をかき乱す不純物じゃないといいんだけど。もしそうなったら、僕がこの石の下に埋めてあげるよ」



その頃――。

静寂に包まれた最上階の私室で、ベルローズは一人、窓の外に広がる黒い森を見つめていた。

手元のハーブティーはとうに冷め、表面には月光が薄氷のように張り付いている。


不意に、指先がわずかに熱を帯びて疼いた。


遠く離れた地下の底。

自分の魔力を分け与えたあの獣の、重く、けれど確かな鼓動が、指先を通じて自分の胸元まで響いてくるような錯覚。

火傷しそうなほどに生々しい、命の感覚がそこにあった。


彼と魔力を繋ぎ、その魂の檻を壊した瞬間。

彼女の深層に流れ込んできたのは、ひりつくような孤独と、諦めきれない生への、凄絶な執着だった。


「あの瞳……。王都の人間にどれだけその価値を踏みにじられたというの」


彼女は誰に聞かせるともなく、月を射抜くような低い声で呟いた。

首輪を壊した際の魔力の残滓が、いまだ彼女の深紅の瞳に鮮烈な火を灯している。


それは自分自身の手で、他者がゴミだと定義したものを、価値あるものへと定義し直したことへの高揚感だったのか。

あるいは、他者の干渉を許さないこの城に、初めて自分と同じ痛みを共有できる種を植えたことへの期待か。


支配と被支配では納まらない、名状しがたい繋がり。

それを彼女はまだ、王都への意趣返しという冷徹な理屈の陰に隠し、自らの本心から遠ざけていた。


「――死なせてはあげないわよ。あなたが私の庭を彩る、最も美しく、最も無慈悲な牙になるまでは」


城の奥深く、地下の寝台と最上階の窓辺。

物理的な距離を越えて、二人の鼓動は、紫の薔薇という媒介を通じて静かに共鳴を始めていた。


心が凍りついた孤独な魔女と、どれだけ虐げられても折れなかった牙を持つ、蒼き獣。

絶望という名の土壌に、新たな契約の芽が、静かに、けれど力強く根を張り始めていた。


この城の空気がどのように変わってゆくのか。

ベルローズは、冷めきった茶を一口含み、かつてないほど長く、そして充実した夜の終わりを待った。

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