第85話:長い夜の終わり
ドラクロワ城に、静かな夜が戻ってきた。
戦いの喧騒は遠のき、壊れた壁の隙間からは、星々が寒々しく瞬いている。
あたりには、燃え残った木々の焦げ付いた匂いが、微かに漂っていた。
崩れた回廊の奥で、砕けた石材が遅れて崩落する音が響く。
ルシアンは、ベルローズの私室にある寝台へと運び込まれ、深い眠りについていた。
ベルローズは、彼の手を一度も離さずに指を絡め、その微かな拍動を確かめる。
彼女の蒼い角は暗闇の中で、ルシアンと呼吸を合わせるように、小さく、優しく共鳴し続けている。
その光が、彼の壊れた内側をゆっくりと繋ぎ直していた。
ピピは唇を固く結び、その様子を見守っていた。けれどやがて、窓際の椅子に腰かけたままで、力尽きたように窓枠に突っ伏して眠りについた。
アマンダもまた、壁際で小さく丸まり、うとうとと舟を漕いでいる。
誰もが限界だった。それでも、誰もこの部屋から出て行こうとはしない。
孤独な魔女の寝室は今や、不器用な家族たちが寄り添う場所へと変わっていた。
ベルローズは、ルシアンの手を握りしめたまま、眠れずにいた。
少しでも眠りに落ちてしまったら、その間に彼が遠くへ行ってしまう気がする。
ルシアンの呼吸がほんの僅かに浅くなるだけで、ベルローズの指先から血の気が引く。
彼の名を呼び、怯えたように頬へ触れ、胸元へ耳を寄せる。
規則的な鼓動を確認して、ようやく息を吐く。
蒼角へ触れるたび、あの瞬間の冷たさが蘇る。
腕の中で失われていこうとしていた体温と、弱々しい呼吸。
今も消えない、もう二度と目を開けないのではないかという恐怖。
それでも、今はこの角だけが彼と繋がっている証だと思うと、角に触れた手を暫く離せない。
微かな冷気と熱が、まだ見慣れぬ蒼い角から、指先へと伝わってくる。
ルシアンの魔力が、自分の中で息をしているかのようだ。
眠ったままのルシアンは、驚くほど静かだった。
いつもなら鬱陶しいほどに感じる尾は少しも動かず、耳も微かに伏せられたままだ。
規則正しい呼吸だけが、辛うじて彼の生を証明している。
ベルローズは、眠るルシアンの横顔を幾度も見つめ、彼と過ごしてきた日々を反芻していた。
朝、欠伸をしながら窓辺へ寄りかかっていた、眠たげに目を細めた表情。
訓練後、濡れた髪を乱暴に掻き上げながらこちらを見た、獰猛さを残した眼差し。
それから、彼女の角の熱を冷まそうとする手。あの労わりと愛情に満ちた、真っすぐに見つめてくる蒼い瞳。
そんな何気ない断片が、硝子片のように胸へ刺さっていく。
ベルローズは結局、一睡もせずに夜を過ごした。
外が白み始め、夜の終わりが告げられる。
彼女はルシアンの呼吸が乱れるたびに身体を強張らせ、その名を小さく呟いた。
「……私を、置いて行かないで。ルシアン」
その祈りに、夜明けが応えた。
朝日が窓の隙間から滑り込み、寝台を淡い黄金色に染め上げていく。
彼女の蒼角が、朝露のように澄んだ光を放った瞬間。
ルシアンの指先が、ぴくりと跳ねた。
ベルローズは音を立てぬよう、静かに息を呑む。
はじめ彼女は、彼に目覚めてほしいという自分の願望が見せた、ただの幻覚であると考えた。
だが、絡めた長い指が、確かに彼の意志で握り返される。
ゆっくりと、重そうに瞼が開き、サファイアブルーの瞳が彼女を見据えた。
ルシアンが最初に感じたのは、庭園から漂う薔薇の香り。
そして、冷たくも温かい、愛しい彼女の匂いだった。
次に、指先へ絡みつく柔らかな体温と、聞き慣れた呼吸音。
瞼の向こう側には、確かなドラクロワの朝があった。
「……そんな顔してんな。ちゃんと帰ってきただろ」
掠れた、けれど確かに聞き覚えのある、ぶっきらぼうで傲慢な声。
ルシアンの言葉に反応して、ピピが跳ね起きた。
彼はふらつきながら椅子から立ち上がり、転がるようにして寝台に近寄ってくる。
「この馬鹿! 本当に、なかなか……、死なないんだから……」
ピピは小さな拳を握りしめ、溢れだす涙をぬぐった。
アマンダもゆっくりと目を開け、眩い朝日に目を細めながら、穏やかに微笑む。
「……おかえりなさい、ルシアンさん」
ベルローズは息を詰め、震える両手で口元を覆った。
彼女の中にあった魔女としての理性が、音を立てて決壊していく。
言葉にならない嗚咽が喉の奥で詰まり、肩が激しく波打つ。
抱き締めたくなるのを、彼の傷を案じて必死に堪えるが、握り締めた手には、指が白くなるほどの力がこもる。
「……しぶとい、わね。……本当に、……っ」
限界だった。みるみるうちに顔が歪み、ベルローズの紅い瞳から、堰を切ったように涙が溢れていく。
棘のある言葉に反して零れ、止まることのないその涙に、ルシアンは面食らったように耳を伏せる。
「……悪かった」
彼は眉を寄せ、ベルローズだけに聞こえる程の声でぼそりと呟くと、繋がれていない方の手で彼女の涙を拭い続けた。
ベルローズは、その指先の不器用さと優しさに、更に涙が溢れるのを抑えられなかった。
心から求めていた、ルシアンの温もりがそこにある。
ルシアンは、ベルローズと繋がれた自らの手を見つめ、それから彼女の頭上に輝く蒼い角を見やった。
朝日を受けて輝くその角は、もはや忌むべき呪いではなく、二人が共に生き抜いた証そのものだ。
窓の外では、アマンダが育てた花々が朝日に照らされ、破壊された魔導兵器の残骸を覆い隠すように開花していく。
傷跡はすぐには消えず、城壁も崩れたままだ。
けれど、その廃墟の上に新しい命が芽吹いている事実に、ベルローズの心は震えた。
部屋の中には、穏やかな沈黙だけが満ちていた。
ルシアンの確かな呼吸音が、夜明けの清浄な空気へと溶け込んでいく。
その静寂を、不意にどこからか聞こえた、ぐぅ、という、妙に間の抜けた音が破った。
眉を顰めてなんとか上体を起こし、周囲を見回すルシアンに、アマンダが小さく手を挙げる。
「すみません。……わたしのお腹の音です」
「お前な……」
ルシアンはアマンダを黙って見つめていたが、やがて気の抜けたように耳を下げ、警戒を解いた。
「安心したら、お腹が空いてしまって。ピピ……、なにか作ってください」
ピピは頬に残った涙の痕をなんとか隠そうと、頬を執拗に擦り続けていたが、諦めたように手を止めた。
そして、アマンダを呆れた表情で睨みつける。
だがその瞳には、日常の空気が微かに戻ってきたことへの安堵が、確かに滲んでいた。
「アマンダ、君ってやつは……。あぁもう、わかったよ。ルシアンにも、水粥でも作ってやるか」
「……粥? 肉にしてくれ」
「さっきまで死にかけてたやつが何言ってるんだよ。頼むから、大人しくしといてよね」
不満そうに尾を振りながら要望を述べるルシアンに、ピピが呆れながらも笑みを浮かべて返す。
アマンダは穏やかに、食事を催促する。
ベルローズはその光景に、涙を拭いながら笑い声を漏らした。
戦いの果てにようやく辿り着いたのは、傷だらけで不格好な、けれど二度と手放したくない、愛おしい日常だった。
崩れた城壁や、荒れ果てた森は、今すぐには元に戻らない。
失ったものはあまりに多かったが、窓から差し込む光は、かつてないほどに温かい。
孤独ではない朝が、そこにはあった。
ドラクロワの長い夜が、今ようやく明けていく。




