↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】夜の庭にサファイアは咲く~冷徹な魔女は、拾った幻獣にだけ様子がおかしい~  作者: 彩羽やよい
最終章:夜の庭にサファイアは咲く

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

81/87

第81話:黒薔薇の魔女

 世界から、音が消えた。

 そう錯覚するほど、ベルローズの意識は狭窄(きょうさく)し、一点へと収束していた。


 膝の上で横たわる、急速に熱を失いゆく身体。

 愛しい、蒼い幻獣。

 指先に触れるルシアンの肌は、分かち合っていたあの柔らかな体温を裏切るように、無機質な温度へと変じつつある。


 ――彼の肌が、冷たいはずがない。

 つい先程まで、彼は自分の前に立っていた。

 低い声で憎まれ口を叩き、あの蒼い瞳をこちらに向け、当然のように自分の隣を選んでいた。


 そう、だからこれは、一時的な錯覚で。

 指先の感覚が狂っているだけで。

 もう一度名前を呼べば、いつものように面倒そうな表情で、目を開けるはずだ。


 視界の端では、白銀の装甲を纏った王都兵たちが恐怖に顔を歪めて後退し、ピピやアマンダが何かを叫んでいるのが見える。

 けれど、その声は水底深く沈んだような、ぼんやりとした輪郭となり、彼女の鼓膜には届かない。

 脳裏を(よぎ)るのは、呪詛のようにこびりついた過去の断片だった。


 外界から隔絶された、白すぎる実験室。

 角という異形を隠すためだけに与えられた、重苦しいヴェールや飾り。

 ヴィクトルから日々繰り返される「正しく在れ」という、個を否定する調律。

 ドラクロワの地に独り降り立ったあの時、城を満たしていた、吐き気がするほどの静寂。


 誰も、私に触れなかった。

 誰も、私の体温を欲しなかった。


 けれど、彼だけは。

 許可も遠慮も踏み越えて近づいてきて、勝手に隣に居座り、当たり前の顔でベルローズの世界に体温を残していく。

 彼女の空虚を、泥と血に塗れて倒れていたあの蒼い幻獣が、傲慢なまでに踏み荒らして埋めてくれた。


「……ルシアン」


 震える唇でその名を呼ぶが、返事はない。

 彼を蝕む触媒の燐光が、その胸元で嘲笑うように明滅している。


(嫌、……嫌よ。そんなの、認めない。この温もりを失うなんて、……絶対に、嫌)


 ぶつりと、ベルローズの中で何かが切れる。

 恐怖でも怒りでもなく。

 もっと静かな、生存の諦めにも近い断絶だった。


 ベルローズの願いが、あるいは世界を呪う想いが、臨界点に達した。

 玉座の間に安置されている『始祖の涙』が、血のような赤黒い光を放ち、彼女の魂と完全な共鳴を起こす。


 ドラクロワの城が、悲鳴を上げている。

 前庭の石畳が、内側から爆ぜた。

 鋼よりも鋭く、夜よりも深い漆黒の茨が、地底から噴き出していく。


 それは、もはや魔法という技術の範疇を超えた、感情の具現化そのものだった。

 ベルローズを中心に、城壁を、塔を、そして周囲の森を。

 黒い茨が猛烈な速度で覆い尽くす。


 茨の節々からは、業火のような熱を帯びた黒薔薇が、次々と開花した。

 花弁の縁には赤紫の光が脈打ち、中心には血を凝固させたような艶が宿っている。


 美しさと悲しみ、そして憎悪。

 それらを、無理矢理一つの形に縫い合わせたような花だった。


 その花弁が舞い散るたび、大気は歪み、吸い込むだけで肺が焼けるような死の熱気が、戦場を支配する。

 王都から逃げ出したあの日の魔力暴走にも似ていたが、それとは比にならない出力だった。


 ベルローズ自身に、敵を討とうという明確な殺意はなかった。

 ただ、彼女の魂が「これ以上、自分の領域を侵すな」と世界を拒絶し、排出しているのだ。


 黒茨は、ルシアンへと近づこうとする存在を無差別に、かつ執拗に排除する。

 逃げ遅れた兵士たちは、意志を持つかのように動く茨に貫かれ、黒薔薇が放つ熱に焼かれ、地獄へと叩き落とされた。


「魔女だ……」


「ドラクロワの魔女だぞ! 逃げろ、化け物に殺される!!」


 白銀の軍勢が恐慌状態に陥る中、ヴィクトルだけは、一歩も引かずにその惨状を見つめていた。

 頬を掠めた茨が肉を削り、血が流れても、彼は恍惚とした笑みを崩さない。


「素晴らしい……。実に、素晴らしいよ。やはり君は、愛するもの、信じるものを全て叩き壊された、その絶望の極限でこそ完成する。これこそが、私が求めていたものだ」


 ベルローズは、ルシアンをそっと傍らに横たえ、暴走の中心で立ち上がった。

 血に塗れたドレスの布地を固く握りしめ、彼女はもはや、言葉を失っていた。

 喉の奥から漏れるのは、掠れた嗚咽(おえつ)と、咆哮に似た魂の叫びだけ。


「……森が、泣いています。ベルローズ様が、壊れてしまう」


 アマンダが、虚ろな瞳で空を仰ぐ。

 彼女の足元の菌糸は熱に焼かれ、森の木々は黒茨に締め上げられて、赤黒く染まった空の下で火柱を上げていた。


「ベルローズ様! お願い、止まってください! このままじゃ城まで……、あなたの居場所まで壊れてしまう!」


 ピピが必死に叫ぶが、その声もまた、黒薔薇の爆ぜる音にかき消されていった。

 このままでは、彼女の自死にも等しい暴走に、ルシアンまでもが焼き尽くされる。

 そう直感したピピは、顔を覆うほどの熱気の中、アマンダの手を引いて暴走の渦中へと走り出した。


「アマンダ、行くぞ! あいつを回収しないと、ベルローズ様は止まらない!」


 ルシアンの周囲は、暴走した魔力が物理的な防壁となって渦巻いている。

 近づくだけで肌が焼け、結界が軋む。


 このままここに留まれば、ドラクロワの眷属である自分たちですら、例外なく排除される。

 そんな予感が、ピピとアマンダを貫いていた。


「あっつ……! 何なんだよ、この出力は……。これじゃ、ルシアンより先に僕たちが蒸発しちゃうよ」


 ピピは魔力を絞り出し、自身とアマンダを包むように幾重もの多重結界を張る。

 アマンダも無数の菌糸を盾のように広げ、熱気を逸らしながら、ルシアンの元へと辿り着いた。


 横たわるルシアンは、ぴくりとも動かない。

 胸元では、聖銀の毒と触媒の共鳴が荒れ狂っている。

 その魔導回路は、過電流を流されたように、内側から焼き切られようとしていた。


「起きろよ……。起きろ、ルシアン! 君が止めないと、ベルローズ様が本当に壊れちゃうんだよ」


 ピピが叫びながらルシアンの肩を揺さぶるが、返事は返ってこない。

 瞼は固く閉じられ、力強い意志が宿っていた瞳の光は隠されている。

 アマンダが静かに、震える指先でルシアンの胸元へと触れた。


「……大丈夫、消えていません。微かな灯火が残っている。ルシアンさんはまだ……、生きようとしています」


 その言葉にピピはほんの一瞬だけ安堵し、膝を折りそうになった。

 だが、すぐに歯を食いしばり、自分よりも遥かに大きなルシアンの腕を担ぎ上げる。


「死ぬな。今ここで勝手に死んだら、絶対許さないからな……」


 ピピが隆起させた石畳の上にルシアンを慎重かつ迅速に載せ、アマンダが彼の身体を(つた)で固定する。

 アマンダは、この防衛戦で取り込んだ生命力を、蔦からルシアンへと送り込んでいた。

 春の陽光にも似た温かな光が、ルシアンの身体を包み込んでいく。


「これで、少しは持つはず……、ピピ、急ぎましょう」


「……くそ、またこいつを運ぶことになるなんて……。重いん、だよ……!」


 精霊たちは、これまでルシアンと共に過ごし、幾度となく彼を救い、救われてきた。

 彼を、自分たちの(あるじ)を救う(くさび)として生かす、という事実を抜きにしても。

 ピピとアマンダの内には、ただ彼を死なせたくないという、単純で固い意志が宿っている。

 二人は命懸けで、黒茨がのたうつ暴走域の外部へと、沈黙したルシアンを運び出した。


 ルシアンが自分の傍らから回収されたことにすら、ベルローズは気づいていなかった。

 彼女の周囲だけが、理性を欠いた災害となっていく。


 黒薔薇の蔓は空へと伸び、ドラクロワ城の優美な尖塔を侵食し、空を赤黒い闇で塗り潰す。

 燃え盛る禁忌の森が放つ火の粉が、雪のように舞い散っていく。


 ヴィクトルは、その破滅的な美しさを歓喜に満ちた表情で見上げ、両手を広げた。

 かつて彼女が王都から逃げ出した日に、自分の前で見せた暴走よりも、遥かに強大な魔力。


「美しいよ、ベルローズ。それでこそ、ドラクロワの名を冠するに相応しい」


 その声に反応し、ベルローズが顔を上げた。

 溢れ出た涙は、頬を伝う暇もなく熱に蒸発し、白い肌に薄く跡を残している。

 ようやく愛を灯しはじめた深紅の瞳は、今はただ、絶望と空虚に塗りつぶされていた。


「大丈夫だ、君はまた正しく整うよ。私がすべて元通りにしてあげるから、安心してこちらへ来なさい」


 ドラクロワ城の背後で、あまりにも巨大な漆黒の薔薇が開花する。

 薔薇はまるで、世界そのものを閉じ込める檻の如く、ゆっくりと鎌首をもたげ、花弁を広げていく。

 その花弁が閉じる時。城も王都も、そして自分自身さえも、全てを無へと帰してしまおうとするかのようだ。


 空を覆い尽くした、黒い茨。

 慟哭(どうこく)の色に満ちたそれは、静かに地上を見下ろしていた。

 あらゆるものを拒み、跪かせるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。