第82話:蒼い獣
ドラクロワ城の西に聳え立つ、尖塔の影。
王都の砲火からも、ベルローズの放つ黒茨からも辛うじて逃れたその一角。
そこには、死の静寂が沈殿していた。
空は赤黒く染まり、城を飲み込もうとする漆黒の茨が、大気を震わせるほどの轟音を立ててのたうち回っている。
その狂乱のただ中で、ルシアンは冷たい石床に横たわっていた。
彼の肉体は、もはや生存の境界線を踏み越えようとしていた。
肩口を貫いた聖銀の毒が、内側から肉を焼き、神経を侵食し続けている。
ヴィクトルが放った触媒は、彼の精緻な魔導回路を無惨に引き裂き、暴走した氷の魔力が、自身の血管を内側から凍てつかせていた。
ピピは、震える手でルシアンの胸元に触れ、城の魔力経路から強引に引き出した光を注ぎ込んでいく。
冷たい石畳を伝って、ピピ自身の魔力が削られていく感触があるが、彼は手を離さない。
「死ぬなよ……、こんなところで君が終わったら、絶対に許さないからな……!」
ピピは必死に冷静さや余裕を保とうとしたが、そんなものはどこにも見当たらない。
その隣で、アマンダは静かに、森から集めた生命力の奔流をルシアンへ捧げていた。
彼女の周囲では、焦げた土から新しい芽が次々と吹き出し、傷口を覆うようにして癒やしていく。
「くそ、侵食が止まらない……!」
ルシアンの胸元を押しつぶさんばかりに、ピピは両手に力を込める。
アマンダは焦燥に震えるピピの手に、そっと優しく手を添えた。
「ピピ、落ち着いて。……大丈夫。……まだ、戻れます」
ピピははっとしたように顔を上げ、アマンダを見つめた。
彼の声とは対照的に、彼女の声は、風に揺れる葉の音のように穏やかだった。
アマンダの手から、柔らかな魔力が流れ込む。
「ルシアンさんは、まだベルローズ様のところへ帰ろうとしています。魂が、その手を離していません」
ピピはアマンダの瞳に宿る真摯な光を受け取り、静かに頷いた。
ドラクロワの城と、禁忌の森。
その全てが、ひとりの幻獣の命を繋ぎ止めようとしている。
ピピは、この城に瀕死で流れ着いたルシアンを運んだ、あの日を思い返していた。
「こんな汚らわしい獣を城に入れるなんて」と、嫌悪感を露わにしていた記憶。
自分と彼の日常が、ここまで変わるなど、考えもしなかった。
磨き上げた床を汚し、厄介ごとを増やすだけの、迷惑な侵入者。
そう思おうとしていたのに、今ではこの重さが失われることの方が、ずっと恐ろしい。
ピピは自嘲気味に息を吐き出し、魔力を練る手元に力を込め直す。
(まだ、土に還してはいけない。ルシアンさんは、終わりたがっていないのだから)
アマンダもピピに併せて、魔力を送り込む。
彼女は、ルシアンの胸元で明滅する触媒の忌まわしい輝きを視界の端に留めながら、その命を繋ぎとめることに集中していた。
ルシアンは彼女を鬱陶しがることはあっても、決して無理に追い払ったり、傷つけたりはしなかった。
尖っていた彼の魔力は、いつしかこの城と森へと馴染むものへと変わっていった。
雪の日の戦いで、自分へと吹き付ける吹雪を遮ってくれた、温かい背中が過る。
アマンダは唇を噛み、小さな拳を握りしめた。
石畳の下を流れる古い魔力が、冷え切った血管へ無理やり流し込まれていく。
焦げた根と菌糸、そして砕けた薔薇の枝や森の木々の歪んだ魔力。
それらが細い縫い糸のようにルシアンの傷口へ絡みつき、剥がれ落ちかけた命を乱暴に縫い合わせる。
それは癒やしなどという穏やかなものとは、どこか違っていた。
崩れかけた器を、割れ目ごと抱え込んで砕けさせまいとする、城と森の執着だった。
暫くして、ルシアンの指先が微かに動いた。
暗く、冷たい。
もはや痛みすらも遠く、己の輪郭が深い水底へと沈んでいくようだ。
その暗闇の奥底で、誰かが泣いている。
泣き喚く声でも、名を呼ぶ声でもないその叫びが、ルシアンの耳に確かに届く。
胸の奥を焼き切るような絶望が、首元のチョーカーを通じて流れ込んでくる。
肺を焼くような呼吸と共に、鉄の味が口内に広がる。
視界は赤黒く濁り、自身の心臓の音が、遠くで鳴る弔鐘のように聞こえた。
魔力を練ろうとすれば、血管を硝子片でも流れているかのような激痛が走る。
それでも重い瞼を押し上げ、濁った蒼い瞳を開く。
はじめに目に入ってきたのは、天を突くほどに巨大化した黒薔薇。
彼の耳が拾い上げたのは、愛する魔女が上げる、絶望の咆哮だった。
「……ベル、ローズ……」
彼は掠れた声で、その名を呼ぶ。
ルシアンの首元から、彼女の焼けつくような慟哭が溢れだしている。
「起きた! ルシアン、聞こえるか!?」
「まだ安心できません。今のルシアンさんは、薄氷の上に立っているようなもの」
ピピが安堵の声を上げるが、アマンダが鋭く制した。
彼女は珍しく硬い表情を見せ、ピピとルシアンへと視線を向ける。
「……無理に動けば、その瞬間に魔導回路が崩壊して、死ぬかもしれません」
だが、ルシアンはその警告を即座に切り捨てた。
「知ったことか。……聞こえるだろ。……あいつが、泣いてる」
血を吐きながらも、震える腕で石床を押し、無理やり身体を起こす。
立ち上がっただけで、視界が白く明滅した。
「無茶だよ! 今の君じゃ、ベルローズ様のところまで辿り着く前に死ぬ!」
ピピが必死に立ち塞がる。
だが、ルシアンの瞳に宿る光は、死を目前にしてもなお研ぎ澄まされていた。
ルシアンは、よろけながらもピピとアマンダを振り返った。
「そう、かもな。……だが、あいつを、独りにしたままじゃいられねぇ」
全身の傷口が開き、温かい血が服を汚していく。
呼吸をするたびに、肺が凍りつくような激痛が走る。
それでも、ルシアンは静かに前を見据えた。
「お前らは、下がってろ。これ以上、あいつの暴走に巻き込まれるんじゃねぇ」
「……今さら、何言ってんだ!」
ピピが、自身の無力さを呪うように叫んだ。
鋭く尖った彼の瞳が、ルシアンを射貫く。
アマンダもまた、諦めと信頼の滲んだ表情で、彼を見ていた。
「君とベルローズ様を置いて、逃げるわけないだろ。……僕の魔力、くれてやるから。持ってきなよ」
「ルシアンさん。あなたはもう、ドラクロワの一部です。私たちが、あなたを支えます。ベルローズ様の元まで、届くように」
もはや彼を止められないことも、止めてしまえば、主もろとも崩壊へと至ることも。
精霊たちは、深く理解してしまっていた。
ピピが城の魔力循環を、アマンダが森の再生の灯火を、惜しみなくルシアンへと預ける。
ルシアンの蒼い魔力に、石の灰色と森の緑が混ざり合う。
それは主従の契約を超えた、ドラクロワという家の全員が、一匹の頑なな獣を支えるための奔流だった。
ピピが注ぎ込む魔力は、冷たく硬かった。
磨き上げられた石の床、朝毎に開かれる重い扉。
誰もいない夜を何百年も抱えてきた、壁の記憶。
石造りの静けさと共に、歴史が持つ重みを、ルシアンの背に負わせていく。
アマンダから流れる生命力は、湿って温かい。
新しい命の芽吹き。死を飲み込んで次の命へと変えていく、森の循環。
腐葉土と雨の匂いが、彼の焼けた肺腑を無理やり押し広げる。
「……重てぇよ、お前ら」
ルシアンが毒づくが、その声には温もりが混じる。
同じ屋根の下で過ごしてきた時間が、彼を立たせるための、不格好で強固な骨組みとなっていた。
精霊たちの想いをその背に負い、蒼い獣は一歩踏み出す。
愛する魔女の憎悪と悲しみが広げた、燃え盛る深紅の地獄へと。




