第80話:奪われる温度
ドラクロワ城の前庭を埋め尽くしていた白銀の軍勢は、今や、明白な敗北の波に呑み込まれつつあった。
誇らしげに掲げられていた王都の軍旗は、氷の魔力によって無惨に引き裂かれている。
砕けた石畳の上には、白銀の装甲が砕けた残骸が、無数に転がっていた。
アマンダが呼び寄せた極彩色の菌糸は、沈黙した魔導兵器を貪るように侵食する。
その銃身から、二度と熱線が放たれることはない。
戦場に立ち込めるのは、凍てついた鮮血の匂い。
そして、ルシアンが放つ蒼い氷炎の、静かな揺らぎだけだ。
王都軍の陣形は、目に見えて後退していた。
兵士たちの瞳に宿るのは、理路整然とした正義ではなく、理解不能な異形に対する根源的な恐怖だ。
勝利の気配が、ドラクロワの陣営に確かに漂った、その時だった。
ルシアンの耳が、ぴくりと鋭く立つ。
爆ぜる魔力の残響や、負傷兵の呻き声とは別のなにか。
異質な静けさが、戦場の片隅から染み出してきたのを、彼の野性が捉えた。
「……嫌な予感がしやがる」
彼の尾の毛並みは逆立ち、本能が危険を察知して叫んでいる。
ルシアンは喉の奥で低く唸り、視線を後方のヴィクトルへと向けた。
ヴィクトルは惨憺たる戦況を前にしてもなお、一糸乱れぬ佇まいで立ち尽くしている。
彼は冷静に、そして冷酷に戦場を検分していた。
ベルローズの魔力出力。精霊たちの連携。
そして何より、あの蒼い幻獣の戦闘能力と、彼女に与えている、精神的な安定。
それら全てが、ヴィクトルの想定を上回る、幸福な調和を生み出している。
(……救いようがないな。君は優しすぎるんだよ、ベルローズ。その優しさが君を濁らせ、停滞させていく。やはり、私が正してあげなければ)
ヴィクトルは、懐から取り出したアンプルを眺めた。
内部で揺らめく液体は、美しくも禍々しい燐光を放っている。
それは即死させるための毒ではなく、対象の魔力同期を強制的に狂わせる。
精神と魔導回路を根底から破壊する、『共鳴崩壊触媒』だ。
ベルローズ本人を、真っ先に壊す必要はない。
彼女を幸福にしている周辺を崩せば、彼女は再び、独りでは息もできないほどに衰弱する。
そして、私の元へと縋りつくように戻ってくるだろう。
「大丈夫だよ。抱え込みすぎた不要なゴミを、私が掃除してあげよう」
彼は心からの慈しみに満ちた笑みを浮かべ、傍らの魔導銃を手に取った。
ヴィクトルが最初に狙いを定めたのは、ピピだった。
城の制御中枢を担う精霊が倒れれば、ドラクロワの防衛機構は即座に瓦解する。
ピピは今、全神経を城の魔力経路の維持に注いでいた。
石畳を変形させ、王都軍の進路を阻むその集中力は凄まじい。
だがそれゆえに、自らへ向けられた殺意への反応が一瞬遅れる。
放たれたのは、精霊の肉体をも抉るだろう、強化聖銀弾だった。
空気を切り裂く高音が響いた瞬間。ピピの視界に、蒼い背中が割り込んだ。
鈍い衝撃音と共に、血飛沫がピピの頬を濡らす。
ルシアンが、その身を挺して弾丸を弾き飛ばしていた。
聖銀の弾丸は、彼の頑強な肩口を深く貫き、内側から肉を焼くような白銀の煙を上げる。
「……相変わらず、胸糞悪ぃもん作ってやがるな」
忘れたくとも、忘れられるはずがない。
魔力を寸断し、獣としての輪郭を内側から削り取るような、王都の不愉快な玩具。
「な……、なんで、庇ったんだよ! 君、馬鹿じゃないのか!?」
ピピの声が、ひどく幼い響きで震えた。
肩口から、聖銀の拒絶反応である白煙を上げるルシアンを見て、指先からの城の制御式が一瞬だけ途切れる。
石畳の隆起が止まり、回廊封鎖が僅かに遅延するまでに、ピピは動揺していた。
(そうだな、珍しく気が合うじゃねぇか、ピピ……。俺もそう思うぜ。昔の俺なら……、見捨てただろうな)
それでも、考える前に身体が動いた。
命令でも主のためでもなく、小うるさいこの精霊が目の前で砕ける未来が、どうしても許せない。それだけだった。
ルシアンは口内に溢れた血を吐き捨て、傲慢に鼻を鳴らした。
「喧嘩相手に死なれたら、後味が悪ぃだろ。……黙って仕事してろ」
「……わかってる!」
本当にこの幻獣は、ふざけている。
自分の言った言葉を、ここで持ち出すことに文句を言いたい。なぜ己の命よりも他人を優先するのかと、叱責してもやりたい。
それでも、彼の負傷を無駄にはできない。
ピピは湧き上がってくる小言と、ヴィクトルへの憎悪を飲み込み、石畳に触れる手に力を込め直した。
その光景を見ていたベルローズは、心臓を直接握りつぶされるような衝撃に、深紅の瞳を見開いた。
ルシアンはもう、単に主である自分だけを見ている獣ではない。
彼はこの城を、ピピを、アマンダを。
ドラクロワという居場所そのものを、自分の命を賭して守るべき群れとして受け入れているのだと、彼女は思い知らされていた。
「なるほど。野生を捨てて、家畜にでもなったつもりかい?」
ヴィクトルの声が、風に乗って冷ややかに届く。
彼はルシアンの献身を、愚かな不具合として切り捨てた。
そして、本命であるアンプルを魔導銃の装填口へと滑り込ませる。
「安心したまえ。少し眠れば、また元の君に戻れる。不純物の混じっていない、清らかな、私だけのベルローズに」
白銀の魔力が、銃身を伝って禍々しく脈動を始める。
ベルローズの身体が、本能的な恐怖で縫い止められた。
かつて王都で、ヴィクトルの管理下に置かれていた時の絶望。
何をしても無駄だと思い知らされた、あの無力感。
白銀の光が、彼女の網膜に焼き付いた過去の呪縛を呼び起こす。
ヴィクトルの指が、引き金にかかった。
アンプルが放たれた瞬間も、ベルローズは動けずにいる。
ルシアンは、その姿を蒼い瞳に捉えていた。
負傷したばかりだろうと、ルシアンに迷いはなかった。
彼は回避も、反撃も考えない。
ただ、一歩でもベルローズの前に立ち、その悪意を彼女に届かせまいと、狂おしいまでの速度で跳躍する。
深紅の瞳が彼を捉え、ベルローズの指先が、時間を取り戻したかのように動いた。
けれど、もう遅い。
魔力を編もうとした意識よりも、ルシアンの身体が前へ出る方が遥かに早かった。
蒼い影が、彼女の視界を塞ぐ。
いつもそうだ。
彼は、彼女が痛みを受け取るより先に、その身を差し出してしまう。
――直撃だった。
ルシアンの胸元でアンプルが砕け、中に封じられていた触媒が、彼の魔力回路を侵食する。
魔力共鳴崩壊、聖銀の毒、肉体の損壊。あらゆる異常が一気に彼を蝕んでいく。
蒼い魔力が制御を失い、彼の身体から血の混じった霧となって噴き出した。
ルシアンの身体から、急速に温度が失われていく。
「……っ、ルシアン!」
力なく崩れ落ちる彼の身体を、ベルローズは悲鳴を上げる間もなく抱き止めた。
ルシアンの喉から、血の混じった咳が漏れる。
「こんなもん、大したことねぇ……」
胸元から噴き出す蒼い魔力が、制御を失って霧散していく。
それでもルシアンは、震える指でベルローズに触れようとした。
ベルローズはその手を取り、自分の頬へと導く。
「……嫌。そばにいて、お願い、……」
「そんな顔すんな。……ここに、いるだろ」
ようやく彼女の口から告げられた、命令ではない要求。
ルシアンは、サファイアブルーの瞳で彼女を真っ直ぐに見据え、微かに口角を上げて見せると、ゆっくりとその瞼を閉じた。
膝をついたベルローズの腕の中で、彼の呼吸が浅く、冷たくなっていく。
ベルローズの視界から、戦場の雑音が遠ざかる。
残されたのは、指先から伝わってくる、愛する獣の熱が死へと向かって滑り落ちていく感触だけだった。
「だから言っただろう? 君は、不要なものを愛しすぎるんだ」
ヴィクトルの声が、どこか遠い場所から聞こえる。
彼は、自らの教育が成功したことを確信し、恍惚とした表情でベルローズを見つめていた。
ベルローズの瞳に宿っていた光が、ふっと搔き消えた。
抱きしめたルシアンの身体は、徐々に、だが確実に冷たくなろうとしている。
あれほど彼の身体から溢れていた、蒼い魔力も、荒い呼吸も。
自分を何度でも呼び戻してくれる、低く優しい声も。
全てが指の間から零れていく。
(そう。……また、奪うというのね。私から……)
脳裏を過るのは、奪われ続けた人生の断片だった。
ドラクロワとしての誇りや、平穏な日々。
そしてこの不器用で、けれど絶対的な、隣にある温度。
(ようやく手に入れた……、この温もりを……)
ドラクロワ城全体が、断末魔のような地響きを上げた。
ベルローズの角が、網膜を灼くほどの、漆黒の雷光を放つ。
ピピがその強大すぎる圧力に青ざめ、アマンダも恐怖に身を竦め、息もできずに膝をつく。
「……ああ。素晴らしい。やはり君は、極限の絶望の中でこそ、最も美しく輝く」
崩壊を始める世界の中で、ヴィクトルだけが、狂おしいほどの歓喜に震えていた。
ベルローズの深紅の瞳が憎悪と絶望に染まり、彼女は獣のように咆哮する。
ドラクロワ城そのものが、彼女に合わせて、嗚咽にも似た叫びを上げていた。




