第78話:王都の正義
禁忌の森が吐き出す濃霧を、王都の魔導兵器が放つ白銀の閃光が焼き払っていく。
ドラクロワ城の正門前に設けられた、美しい薔薇が咲き誇っていたはずの前庭。
今やそこには、踏み潰された薔薇の残骸と、砕けた白銀装甲が無残に散乱している。
硝煙の臭気へ混じるように、凍りついた血液の鉄臭さが漂う。
蒼い氷に閉じ込められた兵士の断末魔だけが、異様な静けさの中へ置き去りにされていた。
ヴィクトルは、軍靴が泥を噛む感触を楽しみながら、平然と戦場を歩いていた。
彼の周囲では、恐怖に顔を強張らせた王都兵たちが、震える手で魔導銃を構えている。
「本当に、魔女の住処に……。あんな化け物まで飼ってやがるなんて、どうやって勝てば……」
「ドラクロワの魔女は、死体を操って森を広げてるっていう噂だ。見ろ……、あの不気味な茸を」
兵士たちの囁きは、王都が教え込んできた正義と恐怖の混濁だった。
彼らにとってこの森は、管理不能な異形が蔓延る汚染された地であり、ドラクロワの血筋はその根源だ。
「皆、安心したまえ。じきに全てが終わる」
ヴィクトルは、慈愛に満ちた声音で兵士たちに告げた。
彼はこの侵攻を、虐殺とは捉えていなかった。
狂った自然を去勢し、暴走する異能を檻に収める。世界を正しい管理下に戻すための、人道的処置なのだ。
手元の端末に表示される、ルシアンの戦闘データを見つめ、ヴィクトルの唇が綻ぶ。
「蒼い幻獣……。期待以上の進化だ。やはり君は、私のコレクションの中でも極めて優秀で、美しい個体だね」
ヴィクトルにとってルシアンは、王都の技術とベルローズの才能を繋ぐための、高価な代替品だ。
そして、自らの手元にあるべき所有物のひとつにすぎない。
城門の前には、崩れた薔薇のアーチを背に、ドラクロワの陣営が集結していた。
中心に立つベルローズの漆黒のドレスは、返り血を浴びて、より深い闇の色を纏っている。
その横には、全身から冷気を立ち昇らせ、蒼い瞳を獣の如く細めたルシアンが、影のように寄り添う。
背後には、魔力経路の過負荷で肩を荒く上下させているピピと、無表情のまま周囲の地面を菌糸で侵食させ続けているアマンダ。
孤独だった魔女の城に、今、奇妙な結束を持った家族が並んでいた。
「……西側の、第三障壁が突破されました。ベルローズ様、これ以上は……」
「いいのよ。ありがとう、ピピ……。よくやってくれたわ。ここからは、私が決めること」
ベルローズの声は、凍てつく冬の湖面のように静かだった。
ピピが苦しげに唇を噛む。彼の身体には、微細なひび割れが走っていた。
「……ごめん、ちょっと借りるよ」
ピピは、足元の石畳に手をやり、城の魔力を自分自身へと引き入れる。石材は黒ずみ、土くれのようにぼろぼろと崩れていく。
自分の手で城の石材を壊すことは、出来る限り避けたかった。
それでも今ここで、城の防衛の要となる自分が崩れて、足手まといになるわけにはいかない。
ピピは息を長く吐き出し、改めてその灰色の瞳に闘志を宿らせた。
ルシアンは、隣に立つベルローズの横顔を盗み見た。
清らかなその表情には、王都で枯れかけていた面影はどこにもない。
(俺が引き留めるまでもない。こいつはもう、あっち側には戻らねぇ)
その確信が、ルシアンの胸に熱い殺意を灯す。
彼女が自分の足で立とうとする限り、自分はその足元を凍てつく氷で固め、何者にも揺るがせない盾となろうと。
ベルローズは、そうして隣に立つルシアンの魔力の昂りを、改めて強く感じていた。
誰にも歪められない、自分自身の意志でこの場所を選び、この仲間を、彼を選んだのだ。
彼に守られるために、ここに立っているのではない。
白銀の軍勢が足を止め、中央からヴィクトルが静かに歩み出た。
彼は硝煙の向こう側に立つベルローズを見つけ、心からの喜びに目を細めた。
その表情には、一点の曇りもない愛情が宿っている。
「戻っておいで、ベルローズ。泥と血だらけじゃないか。……そんな汚らわしい姿でいてはいけないよ」
ヴィクトルの声は、広い前庭に朗々と響き渡った。
「贈り物があるんだ。君にきっと、良く似合うだろう。王立魔導院の技術を結集して作った品だよ」
そう言うと彼は、背後の従者から何かを受け取った。
彼が包みを広げて取りだしたのは、小花が繊細に刺繍された、白銀の美しいドレスという名の拘束具だ。
ベルローズはそれを目にしただけで、自分が雁字搦めに拘束されたかのような錯覚に陥った。
背後に控えるピピも、かつて彼女が血に塗れた白いドレスで、この城に現れた日の姿を思い出し、瞳を鋭く尖らせる。
「私に……、そんなものを見せないで」
ベルローズは息を詰まらせながら、やっとのことで拒絶の言葉を絞り出す。
首元に冷たい鎖を感じるような錯覚に陥り、呼吸が浅くなっていく。
「君の美しさは、こんな廃墟で浪費されるべきではないよ。歪んだ魔力は君を蝕むだけだ。さあ、私と共に王都へ帰り、正しい管理の下でその力を完成させよう」
以前のベルローズなら、その正しさの重圧に呼吸を詰まらせ、俯いていただろう。
ヴィクトルの言葉には、常に反論を許さない合理的な正義があったからだ。
だが、今の彼女は一歩、前へ出た。
ルシアンの影に隠れるのではなく、自分の足を泥に汚しながら、ヴィクトルと正面から向き合う。
「……嫌よ、ヴィクトル」
その一言は、風に乗って消えるほど小さかったが、重い拒絶を孕んでいた。
「私はもう、あなたの正しさの中で息をする気はない。あんな、死んでいるのも同然の檻の中には、二度と戻らない」
彼女の脳裏には、王都の屋敷での冷え切った生活が、はっきりと蘇っていた。
愛という名の拘束と痛みに満ちた記憶が、彼女の身体を冷たく縛りあげていく。
それでも震える手を握りしめ、ベルローズは深紅の瞳で、真っ直ぐにヴィクトルを見据えて続けた。
「……ここで、この醜いと言われた角を晒して生きている方が、ずっと人間らしい呼吸ができるの」
ヴィクトルの顔から、笑みが消えた。
代わりに、哀れみを含んだ冷たい影が、その瞳を覆う。
無秩序な異能は、いずれ必ず人を不幸にする。
ならば、管理しなくてはならない。
危険な獣を檻へ戻し、安全を確保することと、何が違うというのか。
「……残念だよ。君は、自由と放縦を履き違えてしまったようだね。私はずっと、君を壊さない方法を探していたというのに」
ヴィクトルは視線をルシアンへと転じ、その喉元に輝く紫の薔薇のチョーカーを見つめる。
ルシアンはその視線を受け、隠しきれない殺意を漏らしながら、低く唸った。
「いい首輪じゃないか。君がそんな姿になれるなんて知らなかったよ……。なぜあの時、檻の中で教えてくれなかったんだい?」
「……見てんじゃねぇよ。今すぐ縊り殺してやりたくなるからな」
「おや……。お喋りも上手なようだね」
ヴィクトルは威嚇を続けるルシアンを眺めると、眉を寄せた。
その表情は、まるで駄々をこねる幼子を見るかのようだ。
「ベルローズが逃げ出さなければ、君たちのような幻獣が狩られることもなかったんだよ。君たちの魔核は本来、彼女というシステムの欠損を埋めるための、代替品に過ぎないのだから」
ヴィクトルの善意は、刃よりも鋭く、ルシアンの尊厳を削ろうとする。
それと同時に、ベルローズの心をも深く抉っていた。
(そうね。……私が逃げ出さなければ、ルシアンは故郷を失うことはなかった。その通りよ)
彼女は唇を噛み、無意識にルシアンの様子を伺った。
ルシアンはちらりと彼女を見つめ返したが、その瞳は驚くほどに凪いでいた。
無言のなかに、否定と慈しみが混じっている。
「君が今感じている忠誠心とやらも、単なる魔力の従属が生んだ錯覚だ。それなのに、どうしてそこまで彼女に執着する?」
「……忠誠、ね。あいにく、そんな安いもんで俺は動いてねぇよ」
ルシアンは心底軽蔑したように鼻を鳴らすと、ヴィクトルを真っ向から睨みつけた。
獣の咆哮と共に、飛び掛かるような真似はしない。
今の彼は、極めて静かな、そして深い殺意の中にいた。
家族を侮辱され、己の居場所を否定された者の、研ぎ澄まされた沈黙。
ルシアンの足元から、硬質な音を立てて蒼い氷が広がり始める。
折れた薔薇の枝を、前庭の泥を、王都兵たちの足元を。無慈悲な凍気が侵食していく。
「……おい。一つだけ言っておいてやる」
ルシアンの低い声が、鋭い刃のようにヴィクトルを射抜いた。
「次、ベルローズの名前をその薄汚ねぇ口で呼んでみろ。その首、氷漬けにして砕いてやるよ」
「……やれやれ。野蛮な犬だ」
庭園に差し込む光が、漆黒の城と白銀の軍勢を真っ二つに分かち、血の色の空が彼らを照らしていた。
その門前に立つ黒と白は、もう決して相容れない。




