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【完結】夜の庭にサファイアは咲く~冷徹な魔女は、拾った幻獣にだけ様子がおかしい~  作者: 彩羽やよい
第10章:呪縛の上書き

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第74話:優しい飢え

 ドラクロワ城の午前は、硝子窓(がらすまど)から差し込む冬の陽光に満ち、静寂の中にあった。

 王都からの追撃を退け、地下祭祀場から宝珠を持ち帰った後。

 城を包む結界は、かつてないほどに安定している。


 城の呼吸が整い、(よど)んでいた魔力が浄化されるにつれて。

 皮肉にもそこに住まう者たちの内面は、これまでにない微かな揺らぎを帯び始めていた。


 ルシアンは、食堂から続く長い回廊を、ベルローズの数歩後ろについて歩いていた。

 これまでなら、獣特有の奔放さで、彼女との距離を詰めたかもしれない。

 だが今の彼は、目に見えない境界線でも引かれているかのように、奇妙なほど一定の距離を保っていた。


 一歩足を踏み出すたびに、ルシアンの視線は無意識に彼女の目元から、その下へ。

 あの日熱が重なった唇へと、吸い寄せられてしまう。

 ピピから聞いた言葉が、呪いのように、あるいは福音のように耳の奥で反芻(はんすう)される。


『――触れられるのを許すっていう信頼だし、何より、自分からその相手を選ぶっていう意思表示なんだ』


 あれが気まぐれでも、命令でもなかったこと。

 ベルローズという一人の人間が、自らの意志で選んだ接触であったと、知ってしまった今。

 これまで無邪気に許されていたあらゆる触れ合いが、急激な重みと意味を持って、彼に圧し掛かっていた。


「……ルシアン?」


 ふいに前を行くベルローズが立ち止まり、振り返った。

 漆黒の角が陽光を浴びて、深い赤紫の陰影を石床に落とす。


「どうしたの? ……今日は妙に静かね。いつもなら、私が止まる前に背中にぶつかってくるくらいなのに」


「別に……。なんでもねぇよ」


 ルシアンは、反射的に視線を逸らした。

 だが、一度外したはずの視線が、また無意識に彼女の唇へ戻ってしまう。

 耳が落ち着きなく揺れ、喉の奥で、抑えきれない低い唸りが漏れかけた。


「……そう? ならいいけれど。午前中のうちに、東塔の魔力経路を確認しておきたいの。あなたもついていらっしゃい。……私から離れすぎないで」


「……ああ」


 ベルローズは、その不自然なほど慎重な態度を、(いぶか)しげに見つめた。

 サファイアブルーの瞳が、自分を直視することを避けている。


 彼が以前のように、無遠慮に距離を詰めてこない。

 鼻先を寄せてくることも、低く唸るように、甘えるように名を呼ぶこともない。

 それを(わずら)わしいと思うべきなのに、胸の奥に残るのは、ぽっかりと空いた奇妙な空白感だった。


 階段を上る彼女の背を追いながら、ルシアンはまた、彼女の横顔を盗み見る。

 ベルローズがふと立ち止まり、書架から古い魔導書を取り出す。

 その指先が、考え込むときの癖で唇に触れ、難解な記述を追う際に、唇が僅かに動く。


 そのたびに、ルシアンの喉が渇いたように鳴った。

 あまりにも切実で、ただ純粋に、またあの場所に触れたいという渇望。


 獲物を追う飢えとは違う。

 もっと近くで、もっと深く、あの熱を覚えていたい。

 そんな欲求が、喉の奥で静かに牙を立てていた。


 昼下がり、東塔のテラスで結界の調整を終えたベルローズは、ふらりと身体を揺らした。

 宝珠によって魔力が調律されたとはいえ、長年の歪みが一朝一夕で消えるわけではない。

 集中力を使い果たした彼女の角は、排熱のために妖しく発光している。

 その肌は、微かな熱に浮かされたように、朱が差していた。


 ルシアンは、彼女の呼吸が僅かに乱れたことを、即座に察知している。

 これまでなら、迷わずその大きな手で角の根元を包み込み、冷気を流し込んでいた。

 だが今、彼は伸ばしかけた手を、空中で止めてしまった。


(勝手に触れたら。……あいつがくれたものを、雑に踏みにじることになるんじゃねぇか)


 もしもあれが、彼女にとっての特別だったなら。

 今までのように無遠慮に触れてはいけないのではないか。


 迷いを見透かしたように、ベルローズが彼を見上げる。

 その瞳には、彼に触れられないことへの焦燥が、仄かだが、確かに混じっていた。

 ルシアンは彼女の視線から逃げ出したい衝動を抑えながら、重く、細く息を吐いた。


「……冷やさねぇと、辛いんだろ。我慢すんな」


 絞り出すような声でそう告げると、ルシアンはようやく彼女の角に触れた。

 指先が彼女の髪を分け、熱を帯びた角へ、細心の注意を払って氷の魔力を浸透させていく。

 その手の動きには、かつてないほどの丁寧さと、慈しみが籠められていた。


 ベルローズは、その感覚にほんの少し目を見開いた。

 以前と同じように触れられているはずなのに、その手つきはまるで違った。

 それが、彼女の胸の奥を、魔力の過熱とは別の理由で熱くさせていく。


「……ねぇ、ピピ。見ましたか」


 回廊の陰から、アマンダがこっそりと琥珀色の瞳を輝かせた。

 ピピは盆を抱えたまま、テラスの二人を遠巻きに眺め、深く重い溜息をついた。


「見たくなくても目に入るって。……なんだい? あのルシアンの慎重すぎる手つきは。わかりやすいにも程があるよ」


「でも、匂いが変わりました。ルシアンさんの周りに、春が近いような、芽吹く前の土の香りが混じっています。とても、優しい空気ですね」


「……アマンダさぁ、そういう言い方やめてくれる? 胃が痛くなってくるよ」


 ピピは茶化そうとしながらも、ルシアンの変化がただの従者の域を、もはや完全に超えてしまったことを悟っていた。

 主の(かたわ)らに(はべ)る獣が、その牙を隠し、ただ一輪の薔薇を護るための盾に成り果てようとしている。


 それは城の管理者として、歓迎すべき安定だ。

 同時に、一度壊れればすべてを焼き尽くしかねない、ひどく危うい均衡でもあった。


 夜の(とばり)が降りきったころ、ルシアンは一人、西の薔薇園へと(おもむ)いた。

 自分が泥を舐め、死を待っていたこの場所。

 月明かりの下で、彼は自らの内面を見つめ直していた。


 鼻先を擦り寄せた時の、彼女の震えるような呼吸。

 頬に添えられた、白く細い指の驚くほどの冷たさ。

 そして、自分を「選んだ」のだと言った、ピピの言葉。


 所有したい、閉じ込めたいという獣の欲求とは、もう種類が違っていた。

 ただ、もう二度と彼女を冷たい顔で、一人きりにさせたくない。

 ヴィクトルのような男に、その存在を無価値だと断じさせ、心を殺させたくなかった。


 彼女が選んだのが、この不完全な、蔑まれた獣である自分なのだとしたら。

 その選択を、一生をかけて正解にしたかった。

 それは、主への忠誠という言葉では到底収まりきらない。

 一つの魂がもう一つの魂に捧げる、純粋なまでの慈しみだった。


「……こんなところで、何をしていたの」


 背後から、どこか寂しげな声が響く。

 振り返ると、薄い寝衣の上に黒いショールを羽織ったベルローズが、月光を背に受けて立っていた。


 ルシアンは黙って、彼女を見つめた。

 その視線は、やはり彼女の口元へ、そして揺れる紅い瞳へと彷徨(さまよ)う。


 ベルローズは、彼の視線の意味を正しく理解した。

 彼女はその視線を拒絶せず、静かに彼の傍らまで歩み寄る。

 ルシアンは、近寄ってくる彼女に動揺したように耳を伏せ、ぽつりと呟いた。


「……近づくなって言われても、多分無理だ。……俺は、もう元には戻れねぇ」


「ルシアン……?」


「あんたを見てると……。また、ああしたくなる。近くにいるだけじゃ、落ち着かねぇ」


 ルシアンの唇から、零れ落ちるように呟きが漏れた。

 本能による告白。

 駆け引きも装飾もない、あまりにも率直な、飢えた獣の言葉。


 ベルローズは息を呑み、固まった。

 夜の風が二人の間を通り抜け、ルシアンの首元の薔薇を揺らす。

 彼女は、月明かりの下で射抜くような蒼い瞳を真っ直ぐに見つめ返し、小さく、けれど確かな響きで答えた。


「……そう。それなら、我慢しなくてもいいのよ。私は、ここにいるのだから」


 ルシアンが思わず伸ばしかけた腕は、途中で躊躇(ためら)うように止まった。

 それでも意を決し、恐る恐る抱き寄せたベルローズの身体は、夜の冷気に曝されてひどく冷たい。

 ルシアンは彼女の顎を軽く持ち上げ、親指で唇を慎重に、そっとなぞった。


 あまりにも、近い。吐息が触れ合う距離で、蒼い瞳と深紅の瞳が絡み合う。

 ルシアンが顔を寄せても、ベルローズは逃げなかった。

 むしろ静かに瞼を伏せ、その距離を受け入れる。


 だが、彼はその僅かな距離を、どうしても踏み越えることができなかった。

 触れてしまえば、自らの情動を、これ以上抑え込める自信がなかったのだ。


「……悪い」


 ルシアンは眉根を寄せ、睫毛を震わせながら目を閉じた。

 口づけの代わりに、彼女の額に自らの額を優しく預ける。


 やがて彼は静かに身を離し、気まずげに視線を逸らすと、逃げ出すようにして(きびす)を返した。

 背を向けたまま、首だけを巡らせて振り返り、なんとか呟きを絞り出す。


「あんたも、早く寝ろよ。……冷えるからな」


 耳を伏せ、尾を揺らしながら闇に溶けていくルシアン。

 その後ろ姿を目で追いながら、ベルローズは無意識に自分の唇へ、指先を添えた。

 つい先ほどまでそこに触れていた、彼の指の感触を確かめるように。

 その小さな仕草に自分でも戸惑いつつ、彼女は静かに彼を見送っていた。


 冷たい月が照らす、夜の中で。

 二人の間には、これまでよりもずっと濃密で優しい熱が、確かに息づいている。

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