第74話:優しい飢え
ドラクロワ城の午前は、硝子窓から差し込む冬の陽光に満ち、静寂の中にあった。
王都からの追撃を退け、地下祭祀場から宝珠を持ち帰った後。
城を包む結界は、かつてないほどに安定している。
城の呼吸が整い、澱んでいた魔力が浄化されるにつれて。
皮肉にもそこに住まう者たちの内面は、これまでにない微かな揺らぎを帯び始めていた。
ルシアンは、食堂から続く長い回廊を、ベルローズの数歩後ろについて歩いていた。
これまでなら、獣特有の奔放さで、彼女との距離を詰めたかもしれない。
だが今の彼は、目に見えない境界線でも引かれているかのように、奇妙なほど一定の距離を保っていた。
一歩足を踏み出すたびに、ルシアンの視線は無意識に彼女の目元から、その下へ。
あの日熱が重なった唇へと、吸い寄せられてしまう。
ピピから聞いた言葉が、呪いのように、あるいは福音のように耳の奥で反芻される。
『――触れられるのを許すっていう信頼だし、何より、自分からその相手を選ぶっていう意思表示なんだ』
あれが気まぐれでも、命令でもなかったこと。
ベルローズという一人の人間が、自らの意志で選んだ接触であったと、知ってしまった今。
これまで無邪気に許されていたあらゆる触れ合いが、急激な重みと意味を持って、彼に圧し掛かっていた。
「……ルシアン?」
ふいに前を行くベルローズが立ち止まり、振り返った。
漆黒の角が陽光を浴びて、深い赤紫の陰影を石床に落とす。
「どうしたの? ……今日は妙に静かね。いつもなら、私が止まる前に背中にぶつかってくるくらいなのに」
「別に……。なんでもねぇよ」
ルシアンは、反射的に視線を逸らした。
だが、一度外したはずの視線が、また無意識に彼女の唇へ戻ってしまう。
耳が落ち着きなく揺れ、喉の奥で、抑えきれない低い唸りが漏れかけた。
「……そう? ならいいけれど。午前中のうちに、東塔の魔力経路を確認しておきたいの。あなたもついていらっしゃい。……私から離れすぎないで」
「……ああ」
ベルローズは、その不自然なほど慎重な態度を、訝しげに見つめた。
サファイアブルーの瞳が、自分を直視することを避けている。
彼が以前のように、無遠慮に距離を詰めてこない。
鼻先を寄せてくることも、低く唸るように、甘えるように名を呼ぶこともない。
それを煩わしいと思うべきなのに、胸の奥に残るのは、ぽっかりと空いた奇妙な空白感だった。
階段を上る彼女の背を追いながら、ルシアンはまた、彼女の横顔を盗み見る。
ベルローズがふと立ち止まり、書架から古い魔導書を取り出す。
その指先が、考え込むときの癖で唇に触れ、難解な記述を追う際に、唇が僅かに動く。
そのたびに、ルシアンの喉が渇いたように鳴った。
あまりにも切実で、ただ純粋に、またあの場所に触れたいという渇望。
獲物を追う飢えとは違う。
もっと近くで、もっと深く、あの熱を覚えていたい。
そんな欲求が、喉の奥で静かに牙を立てていた。
昼下がり、東塔のテラスで結界の調整を終えたベルローズは、ふらりと身体を揺らした。
宝珠によって魔力が調律されたとはいえ、長年の歪みが一朝一夕で消えるわけではない。
集中力を使い果たした彼女の角は、排熱のために妖しく発光している。
その肌は、微かな熱に浮かされたように、朱が差していた。
ルシアンは、彼女の呼吸が僅かに乱れたことを、即座に察知している。
これまでなら、迷わずその大きな手で角の根元を包み込み、冷気を流し込んでいた。
だが今、彼は伸ばしかけた手を、空中で止めてしまった。
(勝手に触れたら。……あいつがくれたものを、雑に踏みにじることになるんじゃねぇか)
もしもあれが、彼女にとっての特別だったなら。
今までのように無遠慮に触れてはいけないのではないか。
迷いを見透かしたように、ベルローズが彼を見上げる。
その瞳には、彼に触れられないことへの焦燥が、仄かだが、確かに混じっていた。
ルシアンは彼女の視線から逃げ出したい衝動を抑えながら、重く、細く息を吐いた。
「……冷やさねぇと、辛いんだろ。我慢すんな」
絞り出すような声でそう告げると、ルシアンはようやく彼女の角に触れた。
指先が彼女の髪を分け、熱を帯びた角へ、細心の注意を払って氷の魔力を浸透させていく。
その手の動きには、かつてないほどの丁寧さと、慈しみが籠められていた。
ベルローズは、その感覚にほんの少し目を見開いた。
以前と同じように触れられているはずなのに、その手つきはまるで違った。
それが、彼女の胸の奥を、魔力の過熱とは別の理由で熱くさせていく。
「……ねぇ、ピピ。見ましたか」
回廊の陰から、アマンダがこっそりと琥珀色の瞳を輝かせた。
ピピは盆を抱えたまま、テラスの二人を遠巻きに眺め、深く重い溜息をついた。
「見たくなくても目に入るって。……なんだい? あのルシアンの慎重すぎる手つきは。わかりやすいにも程があるよ」
「でも、匂いが変わりました。ルシアンさんの周りに、春が近いような、芽吹く前の土の香りが混じっています。とても、優しい空気ですね」
「……アマンダさぁ、そういう言い方やめてくれる? 胃が痛くなってくるよ」
ピピは茶化そうとしながらも、ルシアンの変化がただの従者の域を、もはや完全に超えてしまったことを悟っていた。
主の傍らに侍る獣が、その牙を隠し、ただ一輪の薔薇を護るための盾に成り果てようとしている。
それは城の管理者として、歓迎すべき安定だ。
同時に、一度壊れればすべてを焼き尽くしかねない、ひどく危うい均衡でもあった。
夜の帳が降りきったころ、ルシアンは一人、西の薔薇園へと赴いた。
自分が泥を舐め、死を待っていたこの場所。
月明かりの下で、彼は自らの内面を見つめ直していた。
鼻先を擦り寄せた時の、彼女の震えるような呼吸。
頬に添えられた、白く細い指の驚くほどの冷たさ。
そして、自分を「選んだ」のだと言った、ピピの言葉。
所有したい、閉じ込めたいという獣の欲求とは、もう種類が違っていた。
ただ、もう二度と彼女を冷たい顔で、一人きりにさせたくない。
ヴィクトルのような男に、その存在を無価値だと断じさせ、心を殺させたくなかった。
彼女が選んだのが、この不完全な、蔑まれた獣である自分なのだとしたら。
その選択を、一生をかけて正解にしたかった。
それは、主への忠誠という言葉では到底収まりきらない。
一つの魂がもう一つの魂に捧げる、純粋なまでの慈しみだった。
「……こんなところで、何をしていたの」
背後から、どこか寂しげな声が響く。
振り返ると、薄い寝衣の上に黒いショールを羽織ったベルローズが、月光を背に受けて立っていた。
ルシアンは黙って、彼女を見つめた。
その視線は、やはり彼女の口元へ、そして揺れる紅い瞳へと彷徨う。
ベルローズは、彼の視線の意味を正しく理解した。
彼女はその視線を拒絶せず、静かに彼の傍らまで歩み寄る。
ルシアンは、近寄ってくる彼女に動揺したように耳を伏せ、ぽつりと呟いた。
「……近づくなって言われても、多分無理だ。……俺は、もう元には戻れねぇ」
「ルシアン……?」
「あんたを見てると……。また、ああしたくなる。近くにいるだけじゃ、落ち着かねぇ」
ルシアンの唇から、零れ落ちるように呟きが漏れた。
本能による告白。
駆け引きも装飾もない、あまりにも率直な、飢えた獣の言葉。
ベルローズは息を呑み、固まった。
夜の風が二人の間を通り抜け、ルシアンの首元の薔薇を揺らす。
彼女は、月明かりの下で射抜くような蒼い瞳を真っ直ぐに見つめ返し、小さく、けれど確かな響きで答えた。
「……そう。それなら、我慢しなくてもいいのよ。私は、ここにいるのだから」
ルシアンが思わず伸ばしかけた腕は、途中で躊躇うように止まった。
それでも意を決し、恐る恐る抱き寄せたベルローズの身体は、夜の冷気に曝されてひどく冷たい。
ルシアンは彼女の顎を軽く持ち上げ、親指で唇を慎重に、そっとなぞった。
あまりにも、近い。吐息が触れ合う距離で、蒼い瞳と深紅の瞳が絡み合う。
ルシアンが顔を寄せても、ベルローズは逃げなかった。
むしろ静かに瞼を伏せ、その距離を受け入れる。
だが、彼はその僅かな距離を、どうしても踏み越えることができなかった。
触れてしまえば、自らの情動を、これ以上抑え込める自信がなかったのだ。
「……悪い」
ルシアンは眉根を寄せ、睫毛を震わせながら目を閉じた。
口づけの代わりに、彼女の額に自らの額を優しく預ける。
やがて彼は静かに身を離し、気まずげに視線を逸らすと、逃げ出すようにして踵を返した。
背を向けたまま、首だけを巡らせて振り返り、なんとか呟きを絞り出す。
「あんたも、早く寝ろよ。……冷えるからな」
耳を伏せ、尾を揺らしながら闇に溶けていくルシアン。
その後ろ姿を目で追いながら、ベルローズは無意識に自分の唇へ、指先を添えた。
つい先ほどまでそこに触れていた、彼の指の感触を確かめるように。
その小さな仕草に自分でも戸惑いつつ、彼女は静かに彼を見送っていた。
冷たい月が照らす、夜の中で。
二人の間には、これまでよりもずっと濃密で優しい熱が、確かに息づいている。




