第73話:恋を知らない獣
ルシアンとベルローズは、お互いうまく寝付けぬままで、ぎこちなく朝を迎えた。
禁忌の森を抜け、古城の重厚な門をくぐる。
二人を迎えたのは、静謐な空気と、城の主の帰還を待ちわびていた二つの気配だ。
城門をくぐった瞬間、待ち構えていた影が飛び出してきた。
「お帰りなさい! 無事で、本当によかった……」
ピピの灰色の瞳には、薄っすらとした疲労が浮かんでいる。
城の結界監視を、休まずに続けていたのだろう。
神経質な魔力を漂わせながら、彼は主の無事を確かめるように、ベルローズを見つめた。
「お帰りなさい。森の菌糸たちが、宝珠の清らかな鼓動を伝えてくれました。土の底まで、光が届いたようです」
ピピの背後からは、庭園の影から這い出すようにアマンダが姿を見せ、安堵したように息を吐いた。
彼女も菌糸を通して、王都の不純物が城に入り込まないか、気を張っていたのだ。
「ええ。二人とも……、よく留守を守ってくれたわね」
ベルローズは手にしていた『始祖の涙』を、玉座の間へと運ぶ。
彼女が玉座の傍らにある台座へ宝珠を安置すると、青白い光が波紋のように広がり、結界と共鳴した。
「これで城の結界も、もう少し強度を増すはずよ」
ベルローズの声には、微かな疲れが滲んでいた。
任務を終えた達成感よりも、彼女の胸を占めていたのは、昨夜の森で起きたある出来事の残り香だ。
ベルローズはふと、視線を傍らの守護者へ向ける。
だが、ルシアンは珍しく彼女と視線を合わせようとはせず、所在なげに窓の外を見つめていた。
その横顔はどこか上の空で、いつもの野性的な鋭さが影を潜めている。
宝珠から光が放たれ、城内の空気が、濾過されるように澄んでいく。
その劇的な変化に、ピピは深く安堵のため息をつき、それからルシアンを見上げた。
「……ま、今回はちゃんと役に立ったみたいだね。ベルローズ様を、無傷で連れ戻したことだけは評価してあげるよ」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってる」
ルシアンは鼻を鳴らして返したが、尾が誇らしげに揺れている。
アマンダがそんな彼に近づき、魔力の流れを確かめるように、全身を眺めながら呟いた。
「ルシアンさん。ベルローズ様の魔力が……、あなたに深く残っています。安心しました、仲良く守り合えたのですね」
「あ? ……ああ、行きがけに小競り合いもあったしな。……そのせいだろ」
ルシアンは、無愛想に彼女をあしらった。
だが、アマンダ特有の感覚的な褒め言葉に、ベルローズの肩が跳ねる。
昨夜触れ合った唇の熱を思い出し、彼女は逃げるように視線を逸らした。
「……私は少し休むわ。ピピ、後のことは任せるわね」
「畏まりました! 僕にお任せを」
自室へ向かう背中を見送るルシアンの視線を感じながら、彼女は早足でその場を後にした。
ピピは食事の支度のために食堂へと向かい、アマンダは庭園の方へと消えていく。
玉座の間から主の気配が消えたあと、ルシアンはしばらく石像のように立ち尽くしていたが、ふらりと食堂へと向かった。
胸の奥に居座る得体の知れない熱が、彼の思考をかき乱している。
ルシアンは意を決したように、ピピへ歩み寄った。
「……おい、ピピ」
「なに? 疲れてるなら早く休んだらどうだい、ルシアン。君の足に付いた泥を掃除する身にもなってほしいんだけど」
ピピは小言を言いながら、手際よく食器を並べている。
ルシアンはそれを無視し、真顔で、しかしどこか切実な響きを帯びた声で切り出した。
「人間は、……その、口を合わせると、何かが変わるのか?」
一瞬、ピピの手が止まった。
彼は怪訝そうに眉を顰め、灰色の瞳をルシアンに向ける。
「口を合わせる? 何の話だよ、それ。食事の話?」
「……ベルローズとだ。昨日、森で」
静かな広間に、ピピが手にしていた盆が床に落ちる、甲高い音が響き渡った。
ピピは目を見開き、口を半開きにしたまま固まっている。
けれど城の管理者としての習性が勝ったのか、彼は反射的にしゃがみ込み、なんとか盆を拾い上げた。
その指先は、目に見えて震えている。
「な、何が何を、誰と合わせたって……? い、今、なんて言ったんだい君は」
「耳まで悪くなっちまったのか? ベルローズが、俺に口を寄せてきたって言ったんだよ」
「耳までってどういうことだ! ……っていうか、そんなことどうでもよくて! ベルローズ様が? 君に!? 嘘だろ、ありえない、そんなこと……」
パニックに陥るピピを尻目に、ルシアンは腕を組み、淡々と状況を説明し始めた。
隠せない戸惑いから、尾はゆるやかに揺れている。
「俺は、鼻を寄せただけだ。あいつの匂い嗅いでると落ち着くからな。そしたら、あいつが俺の顔を引き寄せた」
「え、ええ……?」
「それで、……口が触れた。変な感じがしたんだ。喉の奥が焼けそうな、落ち着かねぇ熱だ」
ピピは両手で頭を抱え、身を捩った。
城の記憶を持つ精霊として、彼は知識の中にあるそれの意味を理解している。
だが、彼が生まれた後のベルローズは、常に氷のように冷徹で、独りで完結していたはずだった。
ピピは深く溜息をつき、呻くように言った。
「……君は、もう少し人間の心ってものに触れた方がいいと思うよ、本当に」
「心なら匂いでだいたい分かる。今のあんたは、ひどく混乱した匂いがしてるな」
「だから、そういう話じゃないんだよ、もう! ……こっち来い!」
その後、ピピに引きずられるようにして、ルシアンは図書室へと移動した。
愛が綴られた古い詩集、夜会の作法書、貴族の求愛儀礼について記された蔵書。
ピピはそれらを、ルシアンの前に山のように積み上げた。
(……まぁ、正直僕だって恋愛経験があるわけじゃないけどさ? 知識の量だけは絶対、こいつにだけは負けないよ。こいつにだけは……)
ピピは詰みあがった書籍の上に掌を広げてぽんぽんと叩きながら、ルシアンを鋭い視線で睨みつけた。
「さあ。これでも読んで勉強しな」
ルシアンは目を細めてピピを睨み返すと、心底うんざりした表情を浮かべた。
だが、ベルローズが自分に何をしたのかを知りたいという一心で、それらの頁を捲り始める。
ルシアンは確かに野性的で、人間の文化には触れてこなかった。だが、彼は決して愚かではない。
むしろ、魔力の流れを読み取るのと同じ鋭さで、文字を追い、情報を吸収していく。
それでも、そこに書かれている情緒というものの価値が、彼にはどうしても理解しがたかった。
「……『手に触れただけで胸が高鳴る』だと? 病気じゃねぇのか、これは」
「違うよ。それはときめきっていうんだ」
「『夜も眠れない』? ただの警戒不足だろ。隙だらけじゃねぇか」
「違うって言ってるだろ! もっと行間を読みなよ!」
ピピが呆れと怒りの入り混じった合いの手を入れる中、ルシアンはある一行に目を止めた。
『ただその声を聞くだけで、魂が救われる心地がした』
ルシアンの指が止まる。
聖銀の枷に焼かれ、泥に塗れて死を待っていた自分に、呼び掛けてくれたあの声。
忌々しいと思っていた瞳の色を美しいと定義し、名を呼び、尊厳を返してくれたあの日。
今現在もなお、彼に安らぎを与え続けてくれる彼女の声。
「……相手の声を聞くだけで救われる。それは、まあ、少し分かる」
ぽつりと漏れたその言葉に、ピピが黙った。
不愛想な蒼い幻獣の横顔に宿った、静かで深い光。
それが単なる主従の忠誠を超えた、魂の執着であることを、ピピは本能的に察したのだ。
「……ルシアン。人間はね、相手を大切に思ったり、もっと近くにいたい、自分の一部でいてほしいと思った時に、口づけをすることがあるんだよ」
ピピは城の記憶を辿りながら、少しだけ大人びた声音で教える。
ルシアンは頬杖をつき、退屈そうに黙って聞いていたが、その言葉に耳をぴんと立てた。
「自分の一部……。口を合わせるだけでか?」
「だけ、じゃない。触れられるのを許すっていう信頼だし、何より、自分からその相手を選ぶっていう意思表示なんだ。ベルローズ様が君にしたなら、それは命令じゃない。……誰にも強制されない選択だよ」
「……選ぶ」
ルシアンは自分の大きな掌を見つめた。
白く塗りつぶされていた彼女の心が、自分という異質な存在を選び、熱を求めた。
昨夜、頬に添えられた指の冷たさと、それとは対照的な唇の熱。
ただの接触だと思っていたものが、急に重みを帯びて胸の奥に沈んでいく。
「あいつは、俺を選んだのか。……従者としてじゃなく?」
「少なくとも、嫌な相手にそんなことは絶対しないよ。あの方はね」
「……ふぅん」
ルシアンは素っ気なく返した。
それでも髪の間から覗く耳は、隠しきれない感情によって立ち上がり、小刻みに震えていた。
「その顔で納得したふりをするんじゃない。耳がすごいことになってるよ、ルシアン」
「うるせぇ。……俺はもう行くぞ」
ルシアンは立ち上がり、逃げるように図書室を出る。
彼の脳裏に、昨夜の光景が感覚として、改めて接続されていく。
焚き火の匂い、微かな森の冷気。
そして、鼻先に蘇るベルローズの甘く、凛とした香り。
頬に添えられた指先の冷たさを思い出した瞬間、ルシアンは猛烈な喉の渇きを覚えた。
唇へ触れた、あの柔らかな熱。
それが本の中の知識ではなく、自分を構成する血の一部として脈打ち始める。
むず痒い気持ちを抱えたままだが、廊下を歩く彼の足取りは、いつになく力強い。
彼女に選ばれたという事実が、その魂に消えない印を刻んでいた。




