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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第10章:呪縛の上書き

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第73話:恋を知らない獣

 ルシアンとベルローズは、お互いうまく寝付けぬままで、ぎこちなく朝を迎えた。

 禁忌の森を抜け、古城の重厚な門をくぐる。

 二人を迎えたのは、静謐な空気と、城の主の帰還を待ちわびていた二つの気配だ。

 城門をくぐった瞬間、待ち構えていた影が飛び出してきた。


「お帰りなさい! 無事で、本当によかった……」


 ピピの灰色の瞳には、薄っすらとした疲労が浮かんでいる。

 城の結界監視を、休まずに続けていたのだろう。

 神経質な魔力を漂わせながら、彼は主の無事を確かめるように、ベルローズを見つめた。


「お帰りなさい。森の菌糸たちが、宝珠の清らかな鼓動を伝えてくれました。土の底まで、光が届いたようです」


 ピピの背後からは、庭園の影から這い出すようにアマンダが姿を見せ、安堵したように息を吐いた。

 彼女も菌糸を通して、王都の不純物が城に入り込まないか、気を張っていたのだ。


「ええ。二人とも……、よく留守を守ってくれたわね」


 ベルローズは手にしていた『始祖の涙』を、玉座の間へと運ぶ。

 彼女が玉座の傍らにある台座へ宝珠を安置すると、青白い光が波紋のように広がり、結界と共鳴した。


「これで城の結界も、もう少し強度を増すはずよ」


 ベルローズの声には、微かな疲れが滲んでいた。

 任務を終えた達成感よりも、彼女の胸を占めていたのは、昨夜の森で起きたある出来事の残り香だ。


 ベルローズはふと、視線を傍らの守護者へ向ける。

 だが、ルシアンは珍しく彼女と視線を合わせようとはせず、所在なげに窓の外を見つめていた。

 その横顔はどこか上の空で、いつもの野性的な鋭さが影を潜めている。


 宝珠から光が放たれ、城内の空気が、濾過(ろか)されるように澄んでいく。

 その劇的な変化に、ピピは深く安堵のため息をつき、それからルシアンを見上げた。


「……ま、今回はちゃんと役に立ったみたいだね。ベルローズ様を、無傷で連れ戻したことだけは評価してあげるよ」


「当たり前だろ。俺を誰だと思ってる」


 ルシアンは鼻を鳴らして返したが、尾が誇らしげに揺れている。

 アマンダがそんな彼に近づき、魔力の流れを確かめるように、全身を眺めながら呟いた。


「ルシアンさん。ベルローズ様の魔力が……、あなたに深く残っています。安心しました、仲良く守り合えたのですね」


「あ? ……ああ、行きがけに小競り合いもあったしな。……そのせいだろ」


 ルシアンは、無愛想に彼女をあしらった。

 だが、アマンダ特有の感覚的な褒め言葉に、ベルローズの肩が跳ねる。

 昨夜触れ合った唇の熱を思い出し、彼女は逃げるように視線を逸らした。


「……私は少し休むわ。ピピ、後のことは任せるわね」


(かしこ)まりました! 僕にお任せを」


 自室へ向かう背中を見送るルシアンの視線を感じながら、彼女は早足でその場を後にした。

 ピピは食事の支度のために食堂へと向かい、アマンダは庭園の方へと消えていく。


 玉座の間から主の気配が消えたあと、ルシアンはしばらく石像のように立ち尽くしていたが、ふらりと食堂へと向かった。

 胸の奥に居座る得体の知れない熱が、彼の思考をかき乱している。

 ルシアンは意を決したように、ピピへ歩み寄った。


「……おい、ピピ」


「なに? 疲れてるなら早く休んだらどうだい、ルシアン。君の足に付いた泥を掃除する身にもなってほしいんだけど」


 ピピは小言を言いながら、手際よく食器を並べている。

 ルシアンはそれを無視し、真顔で、しかしどこか切実な響きを帯びた声で切り出した。


「人間は、……その、口を合わせると、何かが変わるのか?」


 一瞬、ピピの手が止まった。

 彼は怪訝そうに眉を(ひそ)め、灰色の瞳をルシアンに向ける。


「口を合わせる? 何の話だよ、それ。食事の話?」


「……ベルローズとだ。昨日、森で」


 静かな広間に、ピピが手にしていた盆が床に落ちる、甲高い音が響き渡った。

 ピピは目を見開き、口を半開きにしたまま固まっている。

 けれど城の管理者としての習性が勝ったのか、彼は反射的にしゃがみ込み、なんとか盆を拾い上げた。

 その指先は、目に見えて震えている。


「な、何が何を、誰と合わせたって……? い、今、なんて言ったんだい君は」


「耳まで悪くなっちまったのか? ベルローズが、俺に口を寄せてきたって言ったんだよ」


「耳までってどういうことだ! ……っていうか、そんなことどうでもよくて! ベルローズ様が? 君に!? 嘘だろ、ありえない、そんなこと……」


 パニックに陥るピピを尻目に、ルシアンは腕を組み、淡々と状況を説明し始めた。

 隠せない戸惑いから、尾はゆるやかに揺れている。


「俺は、鼻を寄せただけだ。あいつの匂い嗅いでると落ち着くからな。そしたら、あいつが俺の顔を引き寄せた」


「え、ええ……?」


「それで、……口が触れた。変な感じがしたんだ。喉の奥が焼けそうな、落ち着かねぇ熱だ」


 ピピは両手で頭を抱え、身を(よじ)った。

 城の記憶を持つ精霊として、彼は知識の中にあるそれの意味を理解している。

 だが、彼が生まれた後のベルローズは、常に氷のように冷徹で、独りで完結していたはずだった。

 ピピは深く溜息をつき、(うめ)くように言った。


「……君は、もう少し人間の心ってものに触れた方がいいと思うよ、本当に」


「心なら匂いでだいたい分かる。今のあんたは、ひどく混乱した匂いがしてるな」


「だから、そういう話じゃないんだよ、もう! ……こっち来い!」


 その後、ピピに引きずられるようにして、ルシアンは図書室へと移動した。

 愛が綴られた古い詩集、夜会の作法書、貴族の求愛儀礼について記された蔵書。

 ピピはそれらを、ルシアンの前に山のように積み上げた。


(……まぁ、正直僕だって恋愛経験があるわけじゃないけどさ? 知識の量だけは絶対、こいつにだけは負けないよ。こいつにだけは……)


 ピピは詰みあがった書籍の上に掌を広げてぽんぽんと叩きながら、ルシアンを鋭い視線で睨みつけた。


「さあ。これでも読んで勉強しな」


 ルシアンは目を細めてピピを睨み返すと、心底うんざりした表情を浮かべた。

 だが、ベルローズが自分に何をしたのかを知りたいという一心で、それらの(ページ)を捲り始める。


 ルシアンは確かに野性的で、人間の文化には触れてこなかった。だが、彼は決して愚かではない。

 むしろ、魔力の流れを読み取るのと同じ鋭さで、文字を追い、情報を吸収していく。

 それでも、そこに書かれている情緒というものの価値が、彼にはどうしても理解しがたかった。


「……『手に触れただけで胸が高鳴る』だと? 病気じゃねぇのか、これは」


「違うよ。それはときめきっていうんだ」


「『夜も眠れない』? ただの警戒不足だろ。隙だらけじゃねぇか」


「違うって言ってるだろ! もっと行間を読みなよ!」


 ピピが呆れと怒りの入り混じった合いの手を入れる中、ルシアンはある一行に目を止めた。


『ただその声を聞くだけで、魂が救われる心地がした』


 ルシアンの指が止まる。

 聖銀の(かせ)に焼かれ、泥に塗れて死を待っていた自分に、呼び掛けてくれたあの声。

 忌々しいと思っていた瞳の色を美しいと定義し、名を呼び、尊厳を返してくれたあの日。

 今現在もなお、彼に安らぎを与え続けてくれる彼女の声。


「……相手の声を聞くだけで救われる。それは、まあ、少し分かる」


 ぽつりと漏れたその言葉に、ピピが黙った。

 不愛想な蒼い幻獣の横顔に宿った、静かで深い光。

 それが単なる主従の忠誠を超えた、魂の執着であることを、ピピは本能的に察したのだ。


「……ルシアン。人間はね、相手を大切に思ったり、もっと近くにいたい、自分の一部でいてほしいと思った時に、口づけをすることがあるんだよ」


 ピピは城の記憶を辿りながら、少しだけ大人びた声音で教える。

 ルシアンは頬杖をつき、退屈そうに黙って聞いていたが、その言葉に耳をぴんと立てた。


「自分の一部……。口を合わせるだけでか?」


「だけ、じゃない。触れられるのを許すっていう信頼だし、何より、自分からその相手を選ぶっていう意思表示なんだ。ベルローズ様が君にしたなら、それは命令じゃない。……誰にも強制されない選択だよ」


「……選ぶ」


 ルシアンは自分の大きな掌を見つめた。

 白く塗りつぶされていた彼女の心が、自分という異質な存在を選び、熱を求めた。

 昨夜、頬に添えられた指の冷たさと、それとは対照的な唇の熱。

 ただの接触だと思っていたものが、急に重みを帯びて胸の奥に沈んでいく。


「あいつは、俺を選んだのか。……従者としてじゃなく?」


「少なくとも、嫌な相手にそんなことは絶対しないよ。あの方はね」


「……ふぅん」


 ルシアンは素っ気なく返した。

 それでも髪の間から覗く耳は、隠しきれない感情によって立ち上がり、小刻みに震えていた。


「その顔で納得したふりをするんじゃない。耳がすごいことになってるよ、ルシアン」


「うるせぇ。……俺はもう行くぞ」


 ルシアンは立ち上がり、逃げるように図書室を出る。

 彼の脳裏に、昨夜の光景が感覚として、改めて接続されていく。

 焚き火の匂い、微かな森の冷気。

 そして、鼻先に蘇るベルローズの甘く、凛とした香り。


 頬に添えられた指先の冷たさを思い出した瞬間、ルシアンは猛烈な喉の渇きを覚えた。

 唇へ触れた、あの柔らかな熱。

 それが本の中の知識ではなく、自分を構成する血の一部として脈打ち始める。


 むず痒い気持ちを抱えたままだが、廊下を歩く彼の足取りは、いつになく力強い。

 彼女に選ばれたという事実が、その魂に消えない印を刻んでいた。

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