第72話:星降る野営
祭祀場を後にしたベルローズとルシアンは、禁忌の森を歩んでいた。
地下の静謐は遠のき、代わって森が持つ特有の、湿り気を帯びたざわめきが二人を包み込む。
空はすでに濃密な紫に染まり、星がひとつ、ふたつと瞬きはじめていた。
城へ戻るには、時間が足りない。
魔力を整えたばかりのベルローズの体力を考えれば、無理な移動は避けるべきだった。
王都へ続く街道とは正反対、城へ戻る道中にある古い大樹の根元。
ルシアンはそこを、今夜の寝床に定めた。
水場からは適度に離れて湿り気が少なく、かつ風下から近づく外敵の匂いを察知しやすい。
彼は無言のまま、ベルローズが座るであろう平らな石の表面を、自身の蒼炎を僅かに掌に宿して、芯まで温めた。
「そこ座ってろ。冷えねぇようにしておいた」
「……ありがとう、助かるわ」
その不愛想な指示に従い、ベルローズは漆黒のドレスの裾を整えて腰を下ろす。
石からは、焚き火とは違う、生命を思わせる柔らかな熱が伝わってきた。
ルシアンは慣れた手つきで周囲の枯れ枝を集め、蒼炎を宿して火を熾す。
城ではピピが、完璧に整えていた生活。それがここでは、ルシアンの剥き出しの生存経験によって構築されていく。
濡れた枝を避け、煙が立ちにくい種類を選び、風の通り道を作る。
その無駄のない動きを、ベルローズは静かに見守っていた。
「……本当に、野生で生きていたのね」
感嘆とも、自嘲ともつかぬ呟き。
王都の屋敷では、計算された贅沢と、ヴィクトルによる管理という名の静止画の中にいた彼女。
目の前の男が体現する生きるための知恵は、あまりに眩しくて泥臭く、そして力強い。
城では主従を演じているが、この深い森の中では、彼こそが支配者だった。
自分は彼に命を預ける旅の相棒に過ぎないのだと、ベルローズは肌で感じていた。
火の粉が舞い上がり、夜の闇に赤い軌跡を描く。
周囲には、城の喧騒を彩るピピの小言も、アマンダの浮世離れした囁きもない。
ただ、薪が燃える音と、夜風が葉を揺らす音だけが空間を支配していた。
静かな星空から、夜の冷気が森の底へと降りてくる。
ベルローズが無意識に肩を擦るのに気づき、ルシアンは自身の厚い外套を手に取った。
(……俺は別に寒さはどうってことねぇからな。要らねぇと思ってたが……、役に立った)
彼はベルローズの隣へ無造作に歩み寄り、外套で彼女の肩ごと自分を覆うようにして、腰を下ろす。
長い尾はそっと、彼女の背を包み込むように丸まった。
「……寒くねぇか?」
「平気よ。……おかげで温かいわ」
ベルローズは焚き火を見つめたまま、静かに息を吐いた。
こうして誰かと火を囲み、他愛もない言葉を交わす夜が来るなど、かつては想像しなかった。
王都に居た自分は、きっとこの時間すら、管理されていない無駄と断じただろう。
今ではその無駄の温度が、ひどく心地いい。
焚き火の焦げた匂いと、夜の冷気。
そして、ルシアンの体温が運んでくる、凍てつく冬の朝のような清潔な香り。
そのすべてが、ベルローズを満たしていく。
肩が触れ合い、ルシアンの強靭な筋肉の質感と温もりが伝わってくる。
彼に出会った頃の彼女なら、これほどまでの接近には危機感を覚えたはずだ。
けれど、彼に触れられているという事実が、今は何よりも深く、彼女の心を鎮めていた。
ルシアンは自身の膝に腕を置き、じっと炎を見つめている。
その横顔は、戦う時とは違う、凪いだ湖のような穏やかさがあった。
焚き火の爆ぜる音だけが響く静けさの中で、ルシアンが抑えた声で呟く。
「今日は静かでいいな。……うるせぇのがいねぇ」
「……それ、誰のこと? ……ピピが聞いたら怒るでしょうね」
ベルローズも思わず柔らかな笑みを浮かべて、彼を見つめた。
ルシアン自身、その言葉の裏にある独占の欲求に気づいていない。
ただ、彼女との時間を誰にも邪魔されないこと。
そして、ベルローズの魔力の波長と自分の鼓動が重なり合うこの沈黙が、ひどく贅沢なものに感じられていた。
焚き火から漂う煙の匂いと、ベルローズの纏う、冷たくも甘い香りが混ざり合う。
ルシアンにとってその香りは既に、生存と安息を繋ぐ、絶対的な境界線となっていた。
不意に、ルシアンが重心を傾けた。
それは、親愛なる者に鼻先を寄せる、本能的な挙動だった。
人間の愛撫とは一線を画す、幻獣としての愛着の示し方。
彼はただ、すぐ傍にいる彼女の命を、その優れた嗅覚で確かめようとしているのだ。
漆黒の角の付け根を、ルシアンの鼻先が優しく、しかし執拗に擦り抜けていく。
ベルローズの身体が一瞬だけ硬直し、指先が震える。
拒絶の意志はないが、心が追いつかない。
「…………」
ルシアンはそのまま、ベルローズの漆黒の髪に鼻先を埋めた。
項に近い、最も香りが濃い場所。
彼は深く、肺の奥までその匂いを吸い込む。
熱い呼気が首筋に触れ、微かな震えが彼女の背中を走る。
ベルローズは思わず深紅の瞳を見開いたが、ぴくりとも動けずにいた。
まるで、体の動かし方を忘れてしまったかのようだ。
ヴィクトルは彼女の角を醜いと定義し、美しい銀細工や真珠でそれを覆い隠した。
彼の指先は常に手袋に包まれ、彼女の肌に触れるときも、検品や調整の冷たさを伴っていた。
彼はベルローズを、美しい装置としてしか見なかった。
だが、ルシアンは違う。
彼は角に触れ、その熱を、髪の隙間に潜む彼女自身の個の匂いを、生きて存在している証として確かめようとする。
言葉にできないほど荒々しく、けれどもひどく慎重な、種を超えた肯定。
ベルローズの胸の奥で、長年凍り付いていた何かが決壊した。
思考が止まり、積み上げてきた合理性が、この本能的な献身の前に敗北する。
この男になら、触れられてもいい。
いいえ。もっと、この熱を知りたい。
奪われるのではなく、自分から彼に触れたい。
ルシアンが鼻先を、彼女の頬から鼻へと擦り寄せ、さらなる安息を求めた瞬間だった。
「……ルシアン」
掠れた声で名を呼ぶと、怪訝そうに顔を上げたサファイアブルーの瞳が、至近距離で彼女を捉えた。
ベルローズは迷わなかった。
自らの白い指先を彼の頬に添え、僅かな力で引き寄せる。
そして、逃げる場所を失った情動のままに、彼の下唇を、自身の唇で静かに上書きした。
微かに触れただけの、短く、静かな接触。
けれどそれは、かつてヴィクトルによって刻まれた支配の記憶を塗りつぶす、鮮烈な救済だった。
潔癖な白の記憶を、この蒼い幻獣の持つ熱が、鮮やかに塗り替えていく。
「…………」
ルシアンは、大きく目を見開いたままで、石のように硬直した。
彼は睫毛を、音がしそうなほどにぱちり、ぱちりと幾度も合わせると、離れたベルローズの顔を、呼吸も忘れたかのように呆然と見つめる。
ルシアンの中には、これが人間的な恋愛の儀式であるという知識が、決定的に欠落していた。
ただ、唇に触れた柔らかな感触と、一瞬だけ共有された、魂を焼くような熱量。
それが何なのか、獣の理屈では整理がつかない。
「……なんだ? ……あんた、腹でも減ってんのかよ」
あまりに場違いな問いかけだった。
ルシアンの胸の奥では、鼓動が激しく暴れている。鼻の奥が異常に熱く、ひどく喉が渇く。
離れた唇の先を無意識に追いかけたくなるような、狂おしい飢餓感に、戸惑いが隠せない。
ベルローズは、何も答えなかった。
熱を持った顔を逸らし、焚き火を見つめている。
けれど彼女の手は、ルシアンの外套の端を、震えながら掴んでいた。
ルシアンもまた混乱したままで、自身の胸の騒ぎを鎮めるように、乱暴に薪を弄った。
ベルローズは気づく。
あんなにも鮮明に自分を苦しめていた、ヴィクトルの冷たい指先や、白ドレスの窒息感。
その呪わしい残像が今はもう、思い出そうとしても霧の向こうに消えつつある。
隣で火を囲む、不器用で真っ直ぐな獣の体温が、彼女の世界を新しく塗り変えてしまった。
焚き火は小さく、優しく燃え続け、森の静寂が再び二人を包み込む。
何が変わったのか、二人ともまだ言葉にはできない。
ただ、暗闇の中に咲くサファイアの瞳と、真紅の瞳。
それだけが、互いの温度を求めるように、じっと、揺らめく火影を見つめていた。




