第75話:境界のない夜
ドラクロワ城の夜は、冬の終わりの激しい風に揺らされていた。
高く聳える尖塔を風が叩き、窓枠を震わせる。
その規則的な不協和音は、城を包む静寂をかえって際立たせていた。
宝珠の影響か、城内の魔力は流れる水脈のように、穏やかに循環している。
ピピもアマンダも、それぞれの領域で既に深い眠りについていた。
だが、ベルローズの心だけが、凪ぐことを知らない。
彼女は寝室で、天蓋付きの寝台に座り、膝の上に古びた魔導書を広げていた。
同じ行を何度も視線が滑り、頁を捲る指先は所在なげに、紙の端をなぞるばかりだ。
眠れない理由を、彼女は宝珠による急激な魔力変動のせいにしようとした。
あるいは、窓を叩く風の音が、騒がしすぎるせいだと言い聞かせた。
だが、意識の端で常に追いかけているのは、厚い石壁の向こう。
回廊を行き来する、たった一つの気配だった。
(……また、戻ってきた)
遠ざかっては近づき、再び遠のいては戻ってくる。
低く、しなやかな足音。
ベルローズは唇を噛み、シーツを握りしめた。
廊下をうろつくルシアンを呼び出す理由も、彼がなぜ、眠らずに歩き続けているのかを問う勇気も。
今の彼女には、どちらも欠けていた。
会いたい、という言葉は、唇の裏に張り付いて出てこない。
けれど、彼が自分の部屋の前を通り過ぎるたびに、胸の奥が騒がしく波打つのを、ベルローズは否定できなかった。
扉の向こう側。
ルシアンもまた、自身の内側に荒れ狂う嵐に翻弄されていた。
今までなら、主の寝所であろうと、己の欲求のままに扉を蹴破り、鼻先を寄せてその温度を確かめることができたはずだ。
だが、選ばれたという意味を知り、大切にするという概念を覚えた彼は、あまりにも慎重になりすぎていた。
テラスに出て、冷気にあたっても熱は引かない。
離れようとしても、鼻の奥に残る彼女の香りが、磁石のように彼を引き戻す。
扉越しでもわかる。
ベルローズは起きていて、熱を帯びた魔力を揺らしている。
何かが変わらなければ、自分も彼女も、この夜の重さに押し潰されてしまう。
彼女が自分を呼んでいると、ルシアンの本能が心の深い場所から告げていた。
「入るぞ」
ふいに、ノックもなしに扉が開かれ、ベルローズは弾かれたように顔を上げた。
彼女は条件反射で眉を顰め、無作法に入室してきたルシアンを見つめる。
「……返事を聞く前に入ってきているでしょう。いつも言っているけれど……、勝手に入ってくるのをやめなさい」
棘のある言葉とは裏腹に、その声は微かに震えていた。
ルシアンへと向けられた真紅の瞳には、隠しきれない安堵が滲んでいる。
「待てができるほど、行儀よく躾けられてねぇからな」
不遜に言い放ちながらも、ルシアンは寝台の数歩手前で足を止めた。
これまでなら当たり前のように隣へ座り、無遠慮に距離を詰めてきたはずの彼。
それが今夜は、境界線を踏み越えるのを恐れるかのように動かない。
ベルローズは、その僅かな空白を寂しいと感じている自分に気づき、いよいよ逃げ場を失った。
彼女は溜息をつくと、かつてルシアンが贈ってくれた栞を丁寧に挟み、魔導書を傍らに置く。
「……そこでは、あなたの声が遠いわ。こちらへ来なさい」
ベルローズは、あくまで命令としてしか彼を呼べない自分に、若干の苛立ちと羞恥を覚えた。
ルシアンは気まずそうに視線を逸らしたが、躊躇いがちに距離を詰める。
「……何か、用なの? こんな時間に」
「用なんてねぇ。……ただ、あんたの呼吸が落ち着かねぇのが、ずっと聞こえてんだよ」
ルシアンは低く吐息を漏らし、鬱陶しそうにシャツの襟元を大きく寛げた。
魔力の同期による発熱のせいか、それとも別の熱のせいか、彼の肌は微かに上気している。
その動作で、鎖骨のすぐ下を走る、古い裂傷の痕が露わになった。
かつて王都の追っ手が放った聖銀の弾丸に抉られ、ベルローズの茨がその弾を摘出した跡だ。
ベルローズは、吸い寄せられるように彼へと手を伸ばした。
ルシアンの身体が強張る。
彼にとってこの傷跡は、弱さや失敗、そして人間に屈した屈辱の証でしかなかった。
ルシアンは無意識に、その傷を隠そうと身を捩り、顔を背ける。
「……痛かったでしょう」
ベルローズの指先が、微かな熱を帯びた古傷に触れた。
哀れみからそうしたのではない。
ただ、彼が生き延びて、今ここで呼吸をしているという奇跡を慈しむような、祈りに似た接触。
ルシアンは蒼い瞳を動揺の色に染め、耳を伏せた。
「ベルローズ……、そんな汚ねぇ痕、触んな」
「……汚れてなどいないわ。あなたが生き抜いた、尊厳の証でしょう?」
ルシアンの喉が、くぐもった音を立てて鳴った。
彼女の指が触れるたび、過去の屈辱が、優しい肯定へと書き換えられていく。
ルシアンは低く唸るような吐息を漏らし、耐えかねたように彼女の身体を引き寄せた。
彼は大きな手で彼女の頭部を包み込み、熱を帯びた漆黒の角へと、静かに唇を寄せる。
「……っ」
ベルローズの呼吸が止まる。
欲望というより、傷ついた魂へ捧げる忠誠のような、深く、長い口づけ。
ヴィクトルは彼女を解剖し、観察し、完成された装置として愛した。
だがルシアンは、彼女の不完全さを、その痛みごと抱きしめようとしている。
ベルローズはただ、彼の広い胸に額を預け、荒い呼吸を繰り返した。
自身の角から、彼の唇を通じて、魔力と体温が濁流のように混ざり合っていく。
言葉による約束など、もはや必要なかった。
互いの傷をなぞり合い、それを愛おしいものとして定義し直していくような感覚だった。
ルシアンはしばらく黙ったまま、ベルローズを抱き寄せていた。
やがて、迷いながらその紅い瞳を覗き込み、低く掠れた声を落とす。
「……あれ、人間は特別な相手にすんだろ」
ベルローズの睫毛が、微かに震えた。
ルシアンは壊れ物に触れるような慎重さで彼女の顎先をとらえ、今度こそ迷わずに、唇を重ねた。
衝動ではなく、選ばれた意味を知った上で自分の意志で返した、静かな触れ合いだった。
唇が離れた後も、二人は暫く言葉を失っていた。
ベルローズは彼の胸元を握ったまま離さず、ルシアンもまた、彼女を抱く腕を緩めない。
互いに何を求めているのかは分かっていても、その願いを言葉にするには、二人ともあまりに不器用すぎる。
ただ、離れがたいという事実だけが、静かに残っていた。
ルシアンは視線を伏せ、小さく息を吐く。
腕の中の温もりを惜しむように、彼の指先が僅かに動いた。
それでも、理性が彼を引き戻そうとしている。
昨日と同じように、ここで離れるべきなのだと。
そうすれば、彼女を困らせずに済む。傷つけずに済む。
そう思えば思うほど、胸の奥では正反対の衝動が、牙を剥いていた。
「……ルシアン」
彼女にふいに名を呼ばれ、ルシアンはゆっくりと顔を上げた。
暗闇のなかで、なおも眩い、深紅の瞳をじっと見つめ返す。
「なんだよ」
ベルローズは一度、唇を結んだ。何かを願うことなど、覚えてこなかった。
命じることならできても、引き留める言葉がどうしても見つけられない。
それでも。
「……もう、待たなくていいのよ。私は……、昨日だって、逃げなかったでしょう」
その言葉に、ルシアンは何も答えられなかった。
ただ、伏せられた耳がぴくりと震え、喉の奥で小さく息を詰まらせる。
彼女が、自分を選んでくれている。これまでだけでなく、今この瞬間も。
その事実が胸の奥を少しずつ、静かに溶かしていった。
――暖炉の火が静かに爆ぜ、やがて炭が赤く明滅するだけの小さな灯りとなる。
風の音がいつの間にか遠のき、部屋の明かりが月光だけになった頃。
二人の間にあった境界は、静かに溶け合っていた。
重厚な掛け布の下で、重なり合う体温。
ベルローズの細い指が、ルシアンの背中や脇腹に残された傷痕をなぞる。
ルシアンは、ベルローズの首筋に鼻先を寄せ、その香りを深く吸い込んだ。
ヴィクトルが奪い去った尊厳を、ルシアンはただの素朴な熱で取り戻していく。
彼の腕に包まれ、ベルローズは生まれて初めて、心から他者の境界の中に身を委ねた。
衣服の擦れる音、肌に触れる指先、高鳴る鼓動。
互いの存在を確かめ合い、孤独だった心を埋めていく。
それは魔力が重なり合うだけでは届かない、魂と魂が寄り添うための時間だった。
ベルローズの呼吸は、しばらく乱れたままだった。
ルシアンの胸へと顔を預けるたび、その奥で響く鼓動が「ここにいていい」と繰り返しているようで、力が抜けていく。
彼の指先が、漆黒の髪をゆっくりと梳いた。
不器用な動きだったが、彼女を壊さぬようにという慎重さだけは変わらない。
ベルローズは薄く目を閉じたまま、その手を拒まなかった。
他者の熱など煩わしいだけだったが、今はこの腕の重みが、自分を現実へ繋ぎ止めている。
「……温かいわ」
ベルローズが、微睡みの淵で小さく漏らす。
ルシアンは、彼女の首筋に鼻先を埋めながら、短く答えた。
「……そうだな」
首元の薔薇が、彼の鼓動を反映するかのように、愛しげに脈打っている。
その声にはもう、迷いはなかった。
ルシアンの腕の中で、ベルローズは静かに目を閉じる。
彼の呼吸が近くにあるだけで、不思議なほど、眠ることへの恐怖が薄れていく。
かつては他者に触れられるたび、自分が壊されていくような錯覚を覚えていたというのに。
背へ回された腕の重みも、首筋へ落ちる呼気も、もう恐ろしくはなかった。
目を閉じても、今夜は悪夢を見る気がしない。
ルシアンの蒼い魔力が、彼女の内側にゆっくりと満ちている。
それは柔らかな、冬の終わりのような熱だ。
互いの心音だけが重なる静かな沈黙の中で、初めて孤独ではない眠りへと落ちていく。
ドラクロワ城の夜が、優しく彼らを包み込んでいた。




