第70話:森を裂く銀翼
頭上を覆う巨大な木々が朝露を滴らせ、腐葉土を踏む音だけが静かに響いている。
滴る雫がベルローズの肩を濡らすたび、城内の暖炉が恋しくなる冷気が肌を刺す。
そこへ、場違いなほど無機質な駆動音が混じった。
清浄な森の空気を汚す、吐き気を催すような油と金属の臭い。
ルシアンの鋭敏な鼻が、その不快な刺激にぴくりと跳ねる。
王都という名の、洗練された暴力の臭いだ。
「……来たわね」
ベルローズは、袖から指先を覗かせ、静かに虚空をなぞった。
彼女の背後に控えたルシアンは、低く短い呼気と共に、一歩前へ出る。
彼の蒼い瞳が、木々の隙間から覗く、銀色の光を射抜いた。
「三機だな。王都の羽虫どもが」
森の静寂を切り裂いて現れたのは、王都の魔導院が放った無人偵察機だった。
鈍い銀色の球体に、昆虫を思わせる複数のレンズが蠢く。魔力を噴出する細い翼が、空気を切り刻んでいる。
それは王立魔導院やヴィクトルの、冷たい合理主義の象徴といえる姿をしていた。
ルシアンの背筋が、怒りとは異なる静かな熱を帯びる。
自分を部品として扱おうとした連中の、傲慢な魔導が形になったもの。
その金属臭を感じ取るたびに、彼の首元のチョーカーが、忠誠と敵への殺意で熱く拍動した。
「ルシアン……」
「分かってる。あんたは動くな」
短く言葉を交わすだけで、二人の意識は深い場所で同期を始める。
ベルローズが右手を微かに上げると、彼女の角が妖しい赤紫色に発光した。
同時に、ルシアンが地を蹴る。
偵察機のレンズが赤く発光し、放たれた魔力弾が、森の腐葉土を爆ぜさせた。
しかし、そこには既に標的はいない。
ルシアンは野生の獣そのものの反射速度で、木々の間を縫っていく。
彼は複雑な地形など計算にも入れず、直感だけで死角へと回り込んでいた。
「遅ぇな。そんな計算だけの弾には、わざわざ当たってやれねぇよ」
ルシアンは嘲笑するように跳躍すると、蒼氷を纏わせた爪で偵察機の翼を根元から断ち切る。
彼にとって、この人の姿はもはや、不完全な器ではない。
ベルローズを背後に背負い、その温度を感じながら戦うために。彼が自ら選び取った、精密な牙だ。
残る二機がルシアンへ照準を合わせ、同時に高出力の照射体制に入る。
レンズの中に、光が収束していく。
だが敵機の足元には、死の宣告に等しい罠が既に置かれていた。
「――燃えなさい」
ベルローズの、冷徹な宣告。
ルシアンは背後からの熱を感じるより先に、空中で体を捻った。
彼が着地するはずの地点。そのほんのわずか横を、ベルローズの放った深紫の炎が、正確に通過していく。
ルシアンが敵を誘導し、ベルローズがその軌道上に魔法を置く。
言葉による合図など不要だった。
彼がどこまで踏み込み、どのタイミングで離脱するか。ベルローズは、自身の鼓動のように把握している。
以前の彼女なら、誰かを巻き込む可能性のある攻撃魔法を、ここまで迷いなく放つことはできなかった。
協力者とは常に、自分の邪魔をしない存在でしかなかったからだ。
だが今、隣を駆けるルシアンは、彼女の一部のように信頼に足る。
彼は必ず、生きてその炎の外へ抜けると、ベルローズは疑いもしなかった。
炎に包まれた偵察機が、歪な音を立てて爆発した。
ルシアンはその爆炎を背に浴びながら、最後の一機に向かって真っ直ぐに跳ぶ。
「逃さねぇ……!」
氷の魔力が彼の右手に収束し、蒼い光の尾を引く。
偵察機が緊急回避を試みるが、その進路を塞ぐように、ベルローズが空間そのものを炎上させた。
退路が経たれ、銀色の機体が激しく振動する。
そこへルシアンの爪が深々と突き立てられ、金属の外装をひしゃげさせた。
硬質な金属が壊れる手応えが、ルシアンの掌を通じて神経に伝わる。
静寂が戻り、残骸から上がる黒煙が、森の霧へと不愉快に溶けていく。
ルシアンは呼吸を整えながら、ゆっくりとベルローズの方へ向き直る。
彼の首に巻かれた紫の薔薇のチョーカーが、彼女の魔力と共鳴するように、淡く拍動していた。
「……怪我はねぇか」
「ええ、何も問題はないわ。……あなたの動き、少し早くなったかしら?」
「おい。ちゃんと見てたのかよ? ……俺ごと焼かれなくて助かったぜ」
ルシアンの軽口に、ベルローズは口元に手をやり、目を細める。
彼女は、ルシアンの動きを無意識に信じて魔法を放っていた。
どんなに紙一重の距離で火柱を上げたとしても、彼は必ず避けるという前提で、自らの全力をぶつけていた。
そして、実際に彼はそうしてみせた。
ベルローズは、改めてルシアンの身体能力の高さを実感している。
それと同時に、自身の魔力と彼の魂が、かつてないほど密接に絡み合っていることを感じていた。
ヴィクトルが制御しようとした彼女の力は、今、ルシアンという唯一の理解者を得て、共鳴へと昇華されている。
ベルローズの指先が、戦いの高揚で熱を持った角を無意識に探った。
魔力の過剰使用による発熱で、彼女の肌に微かな朱が差している。
ルシアンは何も言わずに歩み寄ると、手入れの行き届いた大きな手で、彼女の角の根元を覆った。
彼の氷の魔力が、心地よい冷気となって、彼女の身体に染み渡る。
「無茶すんなって、いつも言ってんだろ?」
「……あなたがいなかったら、こんな無茶はしないわ」
ベルローズはふい、と視線を背けたが、拒むことなくその冷たさに身を委ねた。
ヴィクトルが覆い隠そうとしたこの角を、ルシアンは生きている証として慈しむ。
この対照的な温度差こそが、彼女がここで生きている理由だった。
冷却を終えたルシアンは、名残惜しそうに手を離すと、森のさらに奥を静かに見据えた。
そこには、先ほどまでの湿った空気とは異なる、肌を刺すような緊張感が漂っている。
ルシアンは、周囲の空気の匂いを嗅ぎ分けるように鼻を動かした。
「……ここから先、空気の色が変わってるな。……古い匂いが混じってる」
「そうね。結界の強度が上がっている……。祭祀場が近いわ。行きましょう」
二人は再び歩き出した。
荒れ果てた道なき道を、時折ルシアンが自然に手を貸しながら進んでいく。
やがて行く手を阻むように現れたのは、長い歳月に洗われ、半ば崩れかけた一基の石碑だった。
厚く苔に覆われ、周囲の木々と一体化しそうになっている。
ルシアンがその表面を、無造作に払う。そこにはドラクロワの一族の象徴である、茨と薔薇の紋章が刻まれていた。
紋章が露わになった瞬間、ベルローズの角が呼応するかのように強く輝く。
ルシアンの首元の薔薇にも、微かな振動が伝わっていた。
地面の下で、巨大な何かが目覚めたような。低い地鳴りが響く。
「一族の血を、求めているのね……。入口はこの先のはずよ」
ベルローズは深く瞬きをし、乱れたドレスの裾を整えた。
二人の前には、禁忌の森のさらに深部へと続く、苔むした石畳の道が伸びている。
それはドラクロワの一族が宝珠を祀ったとされる、今は忘れ去られた祭祀場への入り口だった。
王都の追っ手を振り払い、二人は影の差す奥底へと足を踏み出す。
サファイアの瞳と深紅の瞳が、同じ闇の先を見据えていた。




