第69話:古の残滓を求めて
キメラとの遭遇から数週間。
深く眠れぬ毎日を過ごしながら、ドラクロワ城の面々は、城の結界を整える方法を必死に探していた。
古い書庫には、永い眠りについていた紙の匂いが満ちている。
高い天井まで届く書棚の影に、蝋燭の炎が微かに揺れ、光と影の境界を曖昧に溶かす。
幾千もの古文書が呼吸をするようなこの場所は、ドラクロワの歴史そのもの。同時に、彼らにとっての最後の防壁だった。
重厚な机の上に広げられた古地図は、経年による染みで、地図上の線さえ判然としない。
だが、ベルローズはその淡い染みの中に、かつてのドラクロワが守り抜いた領域の記憶を、指先でなぞりながら見出していた。
「……ここね、やっと見つけた。禁忌の森を抜けた北西、一族の祭祀場が眠る地……」
彼女の指先が、地図の空白部分をなぞる。
王立魔導院の包囲網が完成するまで、さほど猶予はない。
今の彼女の魔力では、城の結界を維持するだけで精一杯だ。
ヴィクトルの構築する、秩序という名の鎖を断ち切るには、何かしらの補強が必要だった。
「ここには『始祖の涙』と呼ばれる宝珠が納められている。ドラクロワの一族が、魔力を増幅し、安定させるために用いたものよ。……それが手に入れば、私の魔力は王都の技術に抗う盾へと昇華できるはず」
ベルローズの声は静かで、決意に満ちていた。
ルシアンはその隣で、地図の古びた羊皮紙と、その上に置かれたベルローズの白い指を、交互に見つめていた。
彼女が自分の身を削り、この城を守ろうとしている事実が、彼の首元のチョーカーを締め付けるような疼きとなって伝わってくる。
ベルローズの魔力が、増幅されるということ。
それはルシアン自身の魂もまた、より深く彼女に繋がれていくことを意味していた。
「護衛として、ルシアンを連れて行くわ。禁忌の森で、それ以上に頼れる腕はない」
「……わかった。任せろ」
ルシアンは古地図から主へと視線を移し、短く頷く。
獣の喉を鳴らすような低い声が、書庫の静寂を震わせた。
「ピピ、アマンダ。あなたたちは城の留守をお願い。私がここを空けている間、少しでも奴らの侵入を遅らせる策を練っておいて」
「承知いたしました」
ベルローズの言葉に、ピピが整った仕草で恭しく一礼する。
普段の小言は鳴りを潜め、その表情には城の精霊としての誇りが満ちていた。
「外へ出れば、僕の精霊としての強度は落ちますが。……誇りにかけても、この城は落とさせませんよ」
アマンダもまた、瞳を伏せつつ、力強く頷く。
「わたしも、森のみんなとお城を守ります。……どうぞ、ご無事で。ピピのことはお任せください。わたしがちゃんと見ていますから」
「何言ってんだよ! ……まったく、こっちの台詞だよ。……とにかくベルローズ様、どうかお気をつけて」
ピピは呆れたように、アマンダに両手を広げてみせる。
それからベルローズへと向き直り、真摯な光を宿した瞳で、彼女を見つめた。
決別ではなく、確固たる信頼の上に成り立つ、役割の分担だった。
ベルローズは小さく頷くと、ルシアンを伴い、重厚な城門へと足を向ける。
重い扉がゆっくりと開かれ、内部の暖炉の香りと外気が混ざり合う。外の世界が持つ異質な冷気が、肌を刺した。
ベルローズは漆黒の外套を深く羽織り、その襟元を整える。
冷たい空気の中で、彼女の角が微かに光を帯びて明滅した。
(外へ、誰かと並んで歩き出すなんて……。一体、いつ以来かしら)
王都にいた頃。彼女の外出のほとんどは、鉄格子のついた馬車の中か、重武装の衛兵に囲まれた、ただの移動だった。
自由を奪い、自分を檻へと押し戻そうとする者たちの監視。
けれど今、隣を歩く男から感じるのは、拘束の鎖ではなく、嵐から身を守るための盾のような熱だった。
隣を歩くルシアンの気配も、森の空気に触れた瞬間に変質した。
城内では抑えられていた獣としての野生が、外気の冷たさに呼応して、静かに研ぎ澄まされていく。
彼の瞳に宿るサファイアの光が、闇を射抜くような鋭さを増す。
その歩調は音もなく、森の鼓動と完全に同調していた。
ルシアンは彼女の数歩後ろに立ち、外の世界に潜む殺気がないか、五感を研ぎ澄ましている。
彼の鼻腔を突いたのは、かつて嗅いだことのある、ヴィクトルの白銀の術式の残滓だった。
森の奥深く、誰も踏み入らないはずのこの場所まで、その毒牙は届き始めている。
ルシアンは鼻に皺を寄せると、喉の奥で静かに唸った。
「改めて……、お気をつけて。できるだけ歩きやすくて、汚れを吸わないような靴を選んでいますから」
ピピは結局最後の最後まで世話を焼き続け、ベルローズの靴先に魔力の防護を施していた。
彼が見せたのは、主を心配する、どこまでも人間臭い優しさだった。
「ありがとう、ピピ。……すぐに戻るから」
ベルローズは一瞬だけ足を止め、城の守護者たちに視線を向けた。
その瞳には彼らへの慈愛と、必ず帰還するという無言の誓いが宿っている。
彼女が一歩、城の外へと足を踏み出す。
その瞬間、森のざわめきが、まるで何かを待ち侘びていたかのように静まった。
ルシアンはベルローズの背を追い、慣れた足取りで森の小道へと入り込む。
振り向けば、ドラクロワ城は朝日に照らされ、深い霧の中に沈みかけていた。
二人にとって、唯一の家となった場所。
霧に消えゆく尖塔を見つめる彼女の横顔に、一抹の寂しさが過るのを、ルシアンは見つめていた。
自分たちが去った後、あの静かな居場所が、ヴィクトルの放つ銀の兵器に蹂躙されるのではないか。
その不安を、ルシアンは黙って噛み殺し、代わりに彼女へと言葉を投げた。
「……行くぞ、ベルローズ。俺から離れんなよ」
結界の外側は、既に王都の魔導兵器による毒気を含んでいる。
ルシアンはベルローズを一歩後ろに下げ、自身が盾となるようにして森へと踏み出した。
彼の背中から伝わるのは、ただの護衛ではない、もっと根源的な支配と保護の気配。
獣の群れの中ですらも爪弾きにされてきた彼が、彼女を導くために差し出した場所だった。
ベルローズはそんな彼の姿に、口元をほんの少し緩めて微笑んだ。
「ええ。……頼りにしているわ」
荒れた地面を蹴り、ルシアンは一切の躊躇なく、しかしベルローズの歩幅に細心の注意を払って進む。
森の闇は、朝を迎えてもなお深く、王都の魔の手がすぐ近くまで迫っていることを示唆していた。
枝を叩く風の音さえ、敵の追跡のように聞こえる。
城の中での主従が、外の世界では二人だけの旅人へと形を変えていく。
背後の気配を気遣うルシアンの尾が、時折ベルローズの足元を払うように揺れ、彼女を導いていた。
「なぁ、ベルローズ……。あんたも気づいたか?」
ルシアンがぴくりと耳を立て、低く呟く。
彼の鋭敏な鼻は、森の静謐な香りの中から、不快な金属臭を嗅ぎ分けていた。
ベルローズも彼の様子をちらりと伺ったのち、耳をそばだて、魔力を集中させる。
木々の間を縫うように、金属の擦れる音が響いている。
王都の無人偵察機が放つ駆動音だ。
「ええ。……どうやら、私という獲物を囲い込むつもりみたいね」
ベルローズの深紅の双眸が、妖しく輝いた。
二人の影が、木々の中へと溶け込んでいく。
彼らの背後には、禁忌の森が沈黙を保ったまま、口を開けて待ち構えていた。
静かなる、狩猟の時間が始まる。




