第68話:侵蝕する白
猛吹雪が凪いだ後の庭園は、音の一切を新雪が吸い込み、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
窓越しに差し込む月光は、慈悲を排した刃のようで、冷淡な青白い色をしている。
その光が、広間の長椅子に身を沈めるベルローズの横顔をより一層、近寄りがたいほどに美しく際立たせていた。
「……火が足りねぇな。ピピ、もう一本、乾燥した薪を持ってこい」
「わかってるよ。言われなくても、湿った薪なんて使わないさ。ベルローズ様が煙で咳き込んだら大変だよ」
ルシアンとピピは、広間に据えられた大きな石造りの暖炉の前で立ち働いていた。
ルシアンがその大きな手で薪を組み上げ、空気の通り道を作る。
無骨な指先でありながら、その動作には一切の無駄がない。
ピピは傍らで細やかに働き、火打ち石の代わりに、自身の魔力を微かに込めた結晶を薪の隙間に滑り込ませた。
「……よし」
ルシアンが指先から蒼い火花を散らすと、薪の芯に仕込まれた結晶がぱちりと弾け、柔らかな橙色の炎が勢いよく燃え上がった。
凍てついた広間の空気が、爆ぜる木の音と共にじわりと解けていく。
「ベルローズ様。お茶を淹れ直しましたよ」
「……ありがとう、アマンダ。ルシアンとピピも。温かくなって助かったわ」
アマンダがそっと差し出した、温かな蒸気を立てるカップ。
ベルローズは微かに安堵の吐息を漏らし、細く白い指先を陶器の熱に添えた。
深紅の瞳は、赤々と燃え、揺らぐ炎をじっと見つめている。
ベルローズの豊かな漆黒の髪が、肩から背へと滑り落ちていく。
淡く光を帯びた角は、彼女の静かな激情を内側に閉じ込めているようだった。
ルシアンから魔力の供給を受けたことで、身体を苛んでいた負荷は去り、指先の痺れも消えている。
だが、彼女の理性が、目に見えない不吉な足音を捉えて離さない。
外界から隔絶されたこの城に、あってはならない不純な予感。
何かが、皮膚の裏側を撫でていくようだ。
暖炉のすぐ前、炎の爆ぜる音を背にして、ルシアンは佇んでいた。
彼は、炎を見つめるベルローズを、一定の距離を保ったままじっと見守っている。
番犬として彼女の足元に跪くのではなく、一人の騎士として、あるいはそれ以上の何かとして。
「……疲れてるなら、もう休め。気になることがあるなら、俺が見ててやる」
短く、抑えられた低い声。
その響きには彼女を気遣う優しさがあった。
だがそれ以上に、自分の領分を主張するような独占欲が微かに混じっている。
ベルローズは長い睫毛を伏せると、温かく滑らかなはずの紅茶を、まるで喉に何かが引っかかっているかのように飲み下した。
相手の身体に触れ、互いの体温を、魔力の奔流を知ってしまった今。
ただ傍に立たれるだけで、彼の熱が、呼吸を乱すような切実さを持って伝わってくる。
ルシアンの指先が自身の髪に触れた時の感触や、彼が放つ冬の森のような匂い。それが、理性の防壁を容易く越えて揺さぶってくる。
だが、彼女はそれを言葉にする術を知らない。
「休息は、必要ないわ。……ただ、少しだけ、この静けさが不気味なだけよ」
ベルローズは視線を逸らさず、強がりとも取れる言葉を口にする。
素直に甘えることを知らない彼女の頑なさを、ルシアンは責めることも、無理に暴くこともしなかった。
ただ一歩だけ、彼女の座る椅子の方へ歩み寄る。
触れはしないが、その大きな影が彼女を包み込む距離へと。
「……そうだな。嫌な空気だ」
ルシアンはそれ以上踏み込まず、彼女の視線の先にある闇を、自身の鋭い五感で守護する。
互いの存在を唯一の拠り所としながらも、それを愛という脆弱な名で呼ぶことを拒むような。
硬質で、それでいてひどく脆い沈黙。
その沈黙を、ルシアンの鼻先を掠めた異臭が、冷酷に切り裂いた。
「……ベルローズ。窓から離れて下がってろ」
ルシアンは窓辺へ踏み出し、冷気を深く吸い込んだ。
清浄な冬の森。
本来そこにあるはずのない、油が焼けるような、そして命を冒涜するような薬品の、鼻を突く嫌な臭い。
「この臭い……、あいつだ」
低い呟き。
ルシアンの瞳が、サファイアブルーの冷たい光を放つ。
ピピもまた、管理日誌を放り出し、城の石壁から伝わる異質な振動に顔を歪めた。
「……結界の境界線あたりに、何かいるね。物理的な破壊……、ううん。もっと気持ち悪い、侵食するみたいな揺れだ」
「行きなさい、ルシアン」
ベルローズの短く、だが冷徹な命。
ルシアンはそれに応える言葉も待たず、窓から闇の中へと身を投げた。
庭園の端、白銀の雪原にその不純物はいた。
不自然に肥大した獣の四肢を持つ、歪な異形。
その背には鷲の翼が不自然に継ぎ接ぎされ、左右で全く異なる、不快な羽音が響いている。
複数の濁った人間の瞳がそれぞれ異なる方向を見つめ、城の輪郭を舐めるように、無機質に動いていた。
「あいつら……、これを作るのにどれだけの命を切り刻みやがった」
ルシアンは、腹の底から湧き上がる殺意を覚えた。
それが単なる魔獣ではなく、王都の魔導技術によって、無理やり生命の形を歪められた結果であることを理解したのだ。
「……この庭を、その薄汚ぇ目で見るんじゃねぇよ」
ルシアンの声は、夜風よりも冷たく響く。
彼は野蛮に牙を剥くこともしない。
ただ、主の庭を汚さぬよう、静かに魔力を集中させる。
しかし、彼の爪が触れるよりも僅かに早く。
キメラは眩い閃光を放ち、爆散した。
ルシアンは咄嗟に身体を捻り、衝撃を回避しつつ地へと降り立つ。
雪原に残ったのは、微かな真鍮の破片と、不快な薬品の跡だけ。
その欠片の中から、一本の銀の糸が、意志を持つ蛇のように空中に立ち上った。
「……なんだ、これ」
ルシアンが手を伸ばすが、糸はその指をすり抜け、王都の方角へと一筋の閃光を放って霧散した。
「ヴィクトルの魔力ね。あの生き物が壊れることを、前提としていた……」
後を追うように現れたベルローズは、その光の残滓を、深紅の瞳に焼き付けるように見つめていた。
「恐らく、私の居場所を特定するために仕込まれた魔法でしょう。使い魔の視覚ではなく、その存在が消滅した瞬間に、座標を王都の機器へ飛ばす仕組みだわ」
彼女の声は、どこまでも平坦で、それゆえに隠しきれない恐れを孕んでいた。
「チッ……、あいつのやりそうなことだ。効率第一のやり方だな」
ルシアンは、王都の方角を見据えたまま、その本質を噛み砕く。
「……場所を知られたなら、奴らが来る。そうなんだろ、ベルローズ」
ヴィクトルという男の狂気の輪郭が、鮮明になればなるほど。
ルシアンの内に、かつてないほどの守護の意志が燃え上がる。
(……あの男は、この城を攻めに来るわけじゃない。ベルローズを回収するためだけの道作り……。ただ、あいつを自分の元へ引き戻すことしか考えてねぇんだ)
ルシアンは、主の視界を汚した残骸を、憎々しげに睨みつけた。
「ええ。……けれど、ヴィクトルは無策にこの森へ踏み込むような男じゃない。そう簡単に、大軍をこの城まで進めることはできないはず。……それでも」
ベルローズは、遠く王都の空に浮かぶ、無機質な月を見上げた。
「あの男なら、必ず道を構築する。魔導杭を打ち込み、森を焼き払い、地脈を殺し……。一歩ずつ、確実に。ドラクロワを、丸裸にするために」
ドラクロワの始祖の城は、禁忌の森の最深部に、意志を持った霧と魔力に守られて佇んでいる。
無策に乗り込めば、森の植物たちの養分となるのが関の山だ。
だが、王立魔導院の技術をもって、森そのものを解体し始めたとしたら――。
ベルローズの言葉に、ピピが前へ出た。
その灰色の瞳には、城から生まれた精霊としての、譲れない矜持が灯っている。
「道? ……作らせるもんか。城の石の一つ一つ、庭の砂の一粒まで動員して、奴らの計算を狂わせてやりますよ。僕だって、ただ掃除をしてるだけじゃないからね」
アマンダも、静かにベルローズの隣に立つ。
「わたしも、森と一緒に、あの方たちを迷わせます。……ここには、一歩も入れさせたくありませんから」
眷属たちの静かな、だが確固たる決意を受け、ベルローズはゆっくりと頷いた。
そして、自身の内に渦巻く冷徹な計算と、彼らへの名状しがたい信頼を秤にかけ、決断を下した。
「……戻りましょう。今の私の魔力では、あの男が敷く秩序の包囲網には抗いきれない。何か、策を講じなくては」
ベルローズは典雅な動作で、月光に揺れるドレスを翻し、城へと戻っていく。
その背には、ルシアンだけが気づくことのできる、微かな焦燥が浮かんでいた。
彼もまた、彼女の孤独な戦いを終わらせるために、自身の内に眠る力と誓いを、強く握りしめる。
ベルローズを追うルシアン、ピピ、アマンダの背中には、もう迷いはない。
主を、そして自分たちの居場所を守り抜く。
ドラクロワ城の夜は再び静寂に包まれたが、それは明日からの激動に向けた、魂の研磨の音でもあった。




