第67話:秩序の執行者
王立魔導院、最深部。
ここには、王都の華やかな喧騒すら届かない。
無機質で静謐な、墓場のような静けさだ。
廊下の床は、一切の塵を許さない、純白の大理石で敷き詰められている。
壁に等間隔で灯された魔導灯は、揺らぐことのない一定の光度を保ち、薄暗い廊下を照らす。
そこには生命の温もりはなく、ただ計算され尽くした効率と、理論の残響だけが漂っていた。
院長室の扉は、重厚な聖銀の装飾が施されている。
その奥で、魔導院の若き院長、ヴィクトルは、乱れのない姿勢で執務机に向かっていた。
彼の纏う装束は、ただの研究員だったころとは一線を画していた。
その衣は、濁りのない銀白色のロングコートを基調としている。
埃ひとつの付着さえ許さないよう、魔導加工が施された硬質なシルクウールは、彼が動くたびに鋭い光沢を放つ。
肩に重ねられたハーフケープが、研究者としての知性と、指揮官としての権威を不気味に融合させていた。
「……捕らえた」
ヴィクトルは、白手袋を嵌めた指先で、机上の大きな機器に組み込まれた水晶球を撫でた。
計測器には、広大な禁忌の森の地図が映し出されている。
そこには、幾層もの不規則な魔力の波形が重なり合い、ノイズとなって明滅していた。
ヴィクトルはその雑音の中に、聞き慣れた旋律を見出していた。
王都の維持エネルギーとして、彼が心血を注いで調整した、ベルローズという旋律を。
「やはり、禁忌の森か。……あの忌々しい結界の中に、逃げ込んでいたというわけだね」
彼にとって、ベルローズが自らの意思で逃げ出した事実は、愛の喪失とはいえない。
緻密に組み上げてきた理論が、制御不能な何かによって汚された。
耐え難い、欠陥の露呈であった。
王立魔導院が積み上げてきた、魔導工学の最高傑作。
彼が追い求める究極の理論を完成させるための、唯一無二の器を、必ずこの手に取り戻してみせる。
ヴィクトルの瞳に、微かな、けれど氷のように冷たい愉悦が宿った。
「それにしても。……この不可解なエネルギー反応の混濁は、何だ?」
ヴィクトルは、ベルローズの熱量の傍らで、断続的に爆発する別の魔力波形を注視した。
鋭く、冷たく。それでいて剥き出しの牙を露わにしたような、野蛮な蒼。
「……なるほど。紛失したと思っていた部品が、現存していたと」
ヴィクトルの眉が、僅かに上げられる。
霊峰で捕らえられた幻獣。
かつてベルローズが王都から姿を消した後、彼女に代わって王都を維持するための高純度な触媒として、生きたまま移送されていた――部品。
移送の最中に奴が逃げ出したという一報を受けた時、ヴィクトルはただ「代用品が壊れたか」としか思わなかった。
報告書には、『逃走先は禁忌の森、追跡は不可能。事故により全損したと判断される』という、管理官の署名があったはずだ。
禁忌の森に入れば、生きて帰れる者はいない。それが常識だった。
ヴィクトルもまた、その常識という計算式を信じ、奴の存在を記憶の隅へ追いやっていた。
にも関わらず、だ。
彼は、机の抽斗から一枚の書類を取り出した。
かつて確認した部下のサインが、確かにそこにある。
「……ふ。……全損、か」
ヴィクトルは、古い報告書の写しを、白手袋を嵌めた手で、静かに握りつぶした。
あの獣が生きているということ。
それは管理官が『追跡を放棄し、責任を逃れるために死んだことにした』という事実に他ならない。
だがヴィクトルにとっては、部下が嘘をついたのか、あるいは幻獣が想定外の生命力を持っていたのか、その経緯などどうでもよかった。
彼にとって耐え難いのは、自分の計算に不純な虚偽が混入していた、という事実そのものだ。
「無能な部下が残した書き損じが、私の庭を汚しているとはね」
ヴィクトルは、机上の銀の呼び鈴を鳴らした。
音もなく入室してきた若い補佐官は、ヴィクトルの姿を一目見ただけで、死刑宣告を待つ罪人のように震え上がった。
金髪碧眼の完璧な美貌、一分の隙もなく整えられた衣服。
だというのに、なぜこの男は、ここまで恐怖を駆り立てるというのか。
「院長。お、お呼びでしょうか……」
「幻獣の移送管理を、誤魔化してくれた者の家系図を。……それと、彼の現在の所在を確認する必要はない。魔導院の資材整理として、一族ごと抹消しておくように。無能の血を遺す必要はないからね」
「……は、はい。承知いたしました」
補佐官は、青ざめた顔で退室していった。
彼は扉の外で、膝から崩れ落ちそうになったが、それすらも監視されているように感じ、必死に姿勢を正す。
ヴィクトルは、人の命を消し去る命令を下した直後だというのに、眉一つ動かさなかった。
彼にとって、役に立たない部品を廃棄するのは、執務室の煤を払うのと同じ。
日常的な処理のひとつに過ぎなかった。
ヴィクトルは立ち上がり、部屋の隅にあるマネキンへと歩み寄った。
そこには、王立魔導院の総力を挙げて製作された、白銀のドレスが掛けられている。
愛に憧れる町娘が見れば、なんと美しい婚礼衣装かと、頬を赤らめるだろう。
だがそれは、すべてが聖銀の魔導糸で編み込まれている。
着衣者の魔力を外部から完全に隔離し、制御するための術式が組み込まれた、着用する檻のようなものだ。
「君の異能は正しく隠し、管理すべきだ。そうだろう、ベルローズ」
彼は誰もいない部屋で、幻影の彼女に語りかけるように微笑んだ。
その笑顔には、感情は籠っていない。
ただ完成された正解を提示する、無機質な美しさだけがあった。
ヴィクトルは、王国の魔導兵器や斥候部隊の運用権を、既に掌中に収めていた。
軍団長たちを動かす必要はない。
彼は魔導院院長としての予算と権限を使い、私的に、かつ合法的に軍を動かすことができるのだ。
「王立魔導院の研究、そして技術保全のための、正当な回収だ。法も、王都の理も、私の側にある」
ヴィクトルは立ち上がると、実験生物の管理棟へと向かった。
扉が静かに開く。その奥から冷たい空気と共に、腐った鉄と、薬品、そして劣化した油の混じった臭気が流れ込んでくる。
広大な室内には、大小さまざまな聖銀の檻が、数え切れないほどに並んでいた。
魔法という神秘ではなく、解剖学と魔導工学を継ぎ接ぎして造り出された、技術の成れ果てが、そこに蠢いている。
「行け。座標の特定には、君たちのその敏感な感性が必要だ」
ヴィクトルが檻のレバーを引くと、重厚な金属音が響き、中に繋がれていた斥候が這い出した。
それは、かつて高潔な大鷲であったはずの翼に、汚れた獣の四肢を縫い合わせ、頭部には数人分の鼻と瞳を無秩序に埋め込んだキメラだった。
皮膚の隙間からは濁った緑色の液体が流れる管が覗き、関節が動くたびに、乾いた金属音が室内に反響する。
生きた命を部品として再構築し、ただ目標の魔力を探知するためだけに特化させられた、自律型の肉塊だ。
キメラの接合部から漏れ出すのは、言語以前の、ただ不快な摩擦音のみ。
ヴィクトルは、その悍ましい造形を機能美として眺め、白手袋の手で冷徹に指示を出した。
「禁忌の森を隅々まで舐めるように飛び、彼女の薔薇の香りを特定するんだ。見つけ次第、私へと糸を繋げ」
合成獣たちは、ヴィクトルの冷徹な意思を受けて、不自然に折れ曲がった脚で、窓から闇の中へと飛び去っていく。
その羽ばたきは命あるものの羽音とはいえず、劣化した歯車が噛み合うような、聞くに堪えない異音を撒き散らしていた。
「ついでに、あの壊れかけのスペアも回収しておかなければね。……迷子になった資産を、本来の管理下へと戻すのも、責任ある者の務めだ」
彼にとってはあの幻獣もまた、捨て置くには惜しい、再利用可能な資源だ。
部屋は再び、不気味な静寂に包まれる。
「座標特定まで、もうしばらくかかるだろうが……。いい子で待っているんだ、ベルローズ」
彼の白いロングコートの裾が、風ひとつないのに翻る。
窓の外、王都の空には冷淡な月が浮かんでいた。
だがヴィクトルの瞳に映っているのは、遥か禁忌の森の深淵で、静かに脈動する魔力だけだ。
「君を、本来あるべき純粋な理論の世界へ、連れ戻してあげよう」
独り言は、無機質な大理石の壁に吸い込まれて消えていく。
王立魔導院院長としての予算と権限。そして法という名の剣を携え、彼は、最高傑作とそのスペアを等しく箱に収めるための筋書きを書き進める。
ヴィクトルは手に馴染んだ白手袋をゆっくりと締め直し、闇に消えたキメラたちの余韻を見つめた。
ドラクロワ城の夜に溶け込んで咲く薔薇を、秩序で凍結させるための秒読みは、既に始まっていた。




