第66話:共鳴する魔力
吹き荒れる雪嵐の中、ベルローズの放つ漆黒の蔓が、魔獣の巨躯を焼いていく。
その周囲には、どろりとした黒い泥濘が覗いていた。
極寒の世界において、そこだけが生命の活動を許された、異質な熱の領域と化している。
「……ベルローズ様。道が、拓けましたね」
ルシアンの背後、凍てつく風から守られていたアマンダが、静かに顔を上げた。
先ほどまでの冬眠のような混濁は、もはや彼女の瞳にはない。
ベルローズが強制的に作り出した熱量と、剥き出しになった土の匂いに呼応したのだろう。
菌類の精霊としての彼女の生命力が、死生観を越えた領域で覚醒し始めていた。
アマンダは震える手で温熱石を握りしめたまま、ルシアンの肩越しに戦場を見据える。
その琥珀色の瞳は、苦悶する魔獣を敵としてではなく、ただ還るべき場所に還れない迷子を見るような、平熱の慈しみで捉えていた。
「ルシアンさん。……わたしも、少しだけあの子に触れていいですか?」
「行けるなら勝手にしろ。けどな、一歩も俺の影から出るんじゃねぇぞ」
ルシアンは短く応じ、迫り来る雪の礫を、蒼い氷の盾で弾き飛ばし続けた。
背後のアマンダが何をしようとしているのか、彼には理解できない。
だが、この城の住人たちが一様に抱える異質さへの信頼が、彼にその背を預けさせていた。
魔獣が最期の力を振り絞り、氷の破片を散弾のように放つ。
ルシアンの展開した氷壁が、凄まじい衝撃音と共に削り取られていくが、ルシアンは眉一つ動かさない。
吹雪が彼の腕を、尾を、食い破ろうと猛り狂うが、彼は背後のアマンダへ雪の一片すら通さなかった。
その背中は、どんな城壁よりも強固で、静かな熱を帯びている。
アマンダはキノコの傘の柄を、泥濘へと深く突き立てると呟いた。
「おやすみなさい。……もうすぐ、あたたかくなりますよ」
彼女が魔力を流し込んだ瞬間、焼かれた地面から、肉眼では捉えきれないほど微細な菌糸が爆発的に増殖した。
菌糸はルシアンが地表に走らせていた氷の楔を伝い、その亀裂を道しるべとして魔獣へと向かう。
そして、ベルローズが焼き剥がした鎧の隙間へと、音もなく、けれど容赦なく侵入していく。
魔獣が喉を引き攣らせて咆哮を上げた。
氷の鎧の下で、何かが脈動している。
次の瞬間、魔獣の鼻先から、白い胞子の煙が逆流するように吹き出した。
その内側で何が起きているのか、ルシアンの野性的な本能が警鐘を鳴らす。
魔獣の皮膚を突き破り、骨の隙間から、異常な速度で瑞々しいキノコが芽吹いていく。
「……おい、アマンダ。そいつは……」
ルシアンの声に、アマンダは答えなかった。
ただ、魔獣の肉を苗床として、生命が強制的に書き換えられていく、残酷なまでの新陳代謝。
魔獣は咆哮を上げようとしたが、その声帯すらも既に柔らかな菌糸に飲み込まれている。
ただ静かな綿雪のような、白い粉塵が舞うのみだった。
アマンダが放ったのは、多幸感と共に神経を麻痺させ、細胞を深い腐敗へと誘う特殊な胞子だ。
それは生命の循環を強制的に加速させ、冬を飛び越えて、土へと還る時間を引き寄せる。
物理的な破壊ではないが、あまりにも残酷で、優しい侵食だった。
「ピピ、逃がさないで!」
ベルローズの鋭い声が響く。
「お任せを。さあ、仕上げといこうか!」
ピピが鋏を空中で動かし、空間を切り取っていく。
瞬間、魔獣の背後の空間が歪み、石畳が巨大な壁となって隆起した。
逃げ場を断たれた魔獣は、今や城の一部としてその支配下に組み伏せられていた。
「終わりよ。……安らかに、土に還りなさい」
ベルローズが、冷徹に宣告した。
彼女の漆黒の角が紅紫色に発光し、収束された熱量が魔獣の腐敗した核へと直撃する。
アマンダの胞子によって内側から脆くなった魔獣の肉体は、ベルローズの炎に抗う術を持たなかった。
炎の薔薇が魔獣の内側から爆ぜるように咲き誇り、巨躯は一瞬にして灰へと霧散していく。
――やがて、猛吹雪が嘘のように凪いだ。
焦げた土の匂いと、アマンダが放った甘い胞子の香りが、冷たい大気の中に静かに溶けていく。
あとに残ったのは、城の庭園にぽっかりと空いた、黒い土の円陣だけだった。
「……終わったな」
ルシアンが、人心地ついたように魔力を解いた。
彼が生み出していた氷の防壁が、さらりとした蒼い粒子となって溶けていく。
「ルシアンさん。ありがとうございました。あなたの背中、とても静かでした」
アマンダが、ひょいとルシアンの横から顔を出し、彼を見上げた。
「吹雪の音も、あの子の悲鳴も、あなたの後ろにいる間だけは、遠い国の出来事みたいに聞こえなくて。……とても、心地よい静寂でした」
それは「守ってくれてありがとう」という感謝を、彼女なりの生命の揺らぎや感覚で表現した言葉だった。
「ああ。お前が騒がしいと、ベルローズの集中が乱れるからな。俺の都合だ」
ルシアンはアマンダと視線を合わせず、不愛想に言い放つ。
彼は無造作な手つきで、彼女が抱えるキノコの傘に積もった雪を、乱暴に払い落とした。
それが彼なりの、生存確認と労いの形だった。
「おかしな感性してやがる。……さっさと温室へ帰れ。そのままじゃ、本当に冬眠しちまうぞ」
「ふふ、そうですね。少しだけ、眠たくなってきました」
アマンダは何事もなかったかのように傘を抱え直し、静かに足元の泥濘を見つめている。
そこには冬のさなかに、魔獣の残骸を糧にして、白く小さなキノコがひっそりと顔を出していた。
「あの子たちは、もう大丈夫です。ちゃんと、新しく生まれ変わりましたから」
アマンダの淡々とした、けれど慈しみを感じさせる言葉。
「はぁ。相変わらず、アマンダのやり方は見てるだけで背中がムズムズするよ」
ピピは肩をすくめ、剪定鋏を懐に収める。
「しかし……。泥に菌糸に、この無残に壊れた石畳。あぁもう! 頭が痛いよ!」
こめかみに手をやって愚痴をこぼしながら、ピピは城へと向かっていく。
後には温熱石の包みをぶら下げ、跳ねるような足取りでアマンダが続いた。
ベルローズは、激しく脈動する角を、細い指で押さえた。
苛烈な魔力行使の代償。
僅かに疼くような熱が、彼女の理性をじりじりと削り取ろうとしていた。
「……ルシアン」
短く呼ばれただけで、ルシアンは彼女の求めているものを察した。
彼はベルローズの傍らへと歩み寄り、冷たく、けれど確かな温もりを宿した掌を、彼女の角へと伸ばす。
「ご苦労さん。大した火力だったぜ」
「……またあなたはそんな言い方を。私を誰だと思っているのかしら」
ベルローズは不機嫌そうに眉をひそめるが、角に伝わる心地よい冷却感に、その瞳からは鋭い棘が消えていた。
彼女はルシアンの手に、自身の頭ごと預けるようにして、静かに吐息を漏らす。
自分の冷却を当然のように受け入れているベルローズに、ルシアンは機嫌よさげに耳を揺らした。
「それにあなた、……喜んでいたでしょう?」
ベルローズは俯いたまま、目線だけをゆっくりと上げてルシアンを見つめた。
ルシアンの首に巻かれたチョーカー。
それを介して、彼女の苛烈な魔力の波動が彼に流れ込んでいた。
彼が彼女の炎を受け止め、戦場の中で静かな高揚感を抱いていたことを、ベルローズは敏感に感じ取っていた。
「……さぁ。何のことだかな」
ルシアンは視線を逸らし、ぞんざいに答えた。
図星を突かれたことに対する戸惑いから、尾が大きく揺れている。
それを視界の端に認めたベルローズが、わずかに口元を緩ませる。
彼の手から伝わる魔力は、先ほどよりもどこか柔らかく、慈しむような温度を孕んでいた。
四人は、白銀に染まった城へとゆっくりと戻り始める。
前衛で舞う者、空間を操る者、背後で命を観測する者、そして、その全てを繋ぎ止め、静寂を護る者。
それは、主従という形を超えた、このドラクロワ城という居場所を共有する者たちの、必然的な連帯であった。
◆
だが、その静寂の向こう側。
王都――、王立魔導院の奥底では、一人の男が、冷徹な瞳で実験結果を反芻していた。
ヴィクトルは薄く笑い、傍らに置かれたマネキンを見やる。
「もう少しだ。もう少し熟せば、君を迎えに行こう。ベルローズ……。私の、最高傑作」
そこには、白銀の糸で刺繍が施された、新しいドレスが掛けられていた。
繊細な小花を散りばめた装飾は、花嫁衣裳のように美しい。
だがそれは、ベルローズの魔力をより効率的に、かつ強制的に抽出するための精密な拘束具だ。
「ようやく、君を正しい場所へと戻せる。君は本来、あんな森に埋もれていい存在ではないのだからね」
ヴィクトルの細い指先が、ドレスの冷たい生地を愛しげになぞる。
王都の影は、ドラクロワ城の穏やかな冬を浸食するように。
静かに、彼女を回収するための準備を進めていた。




