第63話:微熱の名を借りて
ルシアンの訓練という名の舞踏に付き合い、彼の腕前に驚かされてから数日。
自室の窓辺で、ベルローズは眉を顰めていた。
外は、相変わらずの冬景色だ。
厚い雲が空を覆い、凍てつくような冷気が石壁の隙間から這い入ろうとしている。
今にも雪が降り出しそうな、重たい空模様だった。
だが、彼女の身体の内側には、それとは対照的な熱が、小さな種火のように燻っていた。
(……嫌になる。また疼き出したかしら)
漆黒の角が、心臓の規則正しい鼓動に合わせて微かに、けれど確かな主張を持って拍動する。
正直なところ、耐えきれないほどの熱ではない。
魔力を引き出しすぎたときに感じる、脳を焼くが如くの激痛に比べれば、ほんの微かな火照りに過ぎなかった。
それでも一度意識してしまうと、神経がその一点に集約されていくような、落ち着かない疼きだ。
ふと、王都にいた頃の自分を思い出す。
あの頃は、いくら痛みや熱を感じたところで、誰に頼ることも、その苦痛を分かち合うこともできなかった。
ただ一人、無機質な寝室で夜が明けるのを待つしかなかったのだ。
けれど、今となってはどうか。
その疼きの先に、ある男の、冷たくもどこか温かい魔力を真っ先に求めている自分に気づき、ベルローズは小さく溜息をついた。
かつては支配の象徴として疎んでいたこの角に、今は彼の手を招こうとしている。
その非合理な変化に、彼女は自嘲気味な笑みをこぼした。
ベルローズは立ち上がると、自室の扉を開けた。
火照りを鎮めなければ、と理由をつけてはみたが、廊下へ出たところで彼女の足は止まる。
ルシアンを呼び出すことは、彼に騎士としての役目を押し付けることに近い。
ベルローズは長く息を吐き、一度は自室へ戻ろうとした。
しかし、角の疼きというよりも、彼が放つあの安らかな気配を、近くで感じたいという衝動が勝る。
何度か廊下を行き来し、躊躇いを振り切るようにして、彼女は広間へと続く階段を下りた。
そこで彼女の目に飛び込んできたのは、いつになく弛緩した、城の住人たちの姿だった。
「もー、ルシアン! 君、抜け毛がすごいよ。ブラシが何本あっても足りないじゃないか」
「すごいですね。たくさん集めたら、小さなルシアンさんが作れそうですよ」
暖炉の前で、ピピが掃除道具を抱えて張り切っている。
その隣ではアマンダが、空中に舞い上がるふわふわとした蒼い毛を、楽しげに、けれど丁寧に籠の中へと回収していく。
そして彼らの足元には、大きな蒼い塊が横たわっている。
人間としての端正な容姿を脱ぎ捨て、本来の姿である古の幻獣へと戻ったルシアンだった。
彼は、自身の身体に取り付くようにしてブラッシングに励むピピにされるがまま、喉を低く鳴らして目を細めている。
獣の姿で毛並みを整えられることで、体内に籠もった魔力が効率よく、そして心地よく体外へと放熱されているのだろう。
その光景は、戦うための凶暴な獣というよりは、陽だまりで微睡むただの大きな生き物のようで、広間全体を穏やかな静寂で包み込んでいた。
ベルローズは、声をかけようとして足を止めた。
角の熱を冷却しなさいと、いつものように短く命じれば済む話だ。
だが、あんなにも安らいだ表情で、無防備な姿をさらけ出しているルシアン。
その姿を見ると、この時間を妨げることに奇妙な躊躇いが生じた。
(……今、わざわざ人に戻すのも、無粋かしらね)
不機嫌でもない、けれど晴れやかでもない複雑な心持ちのまま、彼女は踵を返そうとした。
その時だった。
「……ベルローズ」
低い声が、ベルローズの耳へと届く。
気づけばルシアンは、いつの間にか人の姿へと戻り、暖炉の火を背にして立っていた。
少し前まで獣だった名残か、サファイアブルーの瞳はいつもより鋭く光っているが、その表情には穏やかな余韻が残っている。
背後ではピピとアマンダが、賑やかに最後の抜け毛を回収し、暖炉の片付けを始めていた。
「どうした? 何か用かよ」
ルシアンは、まるで「自分に会いたかったのか?」とでも言いたげだ。
不遜だが落ち着いた態度で、彼女へと歩み寄る。
「……あまりに抜け毛がひどいという報告を受けたから、様子を見に来ただけよ。掃除をするアマンダたちの身にもなりなさい」
「アマンダなら、この毛で新しいクッションを作るって喜んでたぜ」
「そういう問題ではないわ。……それから」
ベルローズは、無意識のうちに己の角を指先で押さえた。
指先に触れる漆黒の感触が、彼の接近に合わせて僅かに脈動を強めた気がした。
「角が少し、火照っているの。……冷却を許可するから、こちらへ来なさい」
「ふぅん。……仕方ねぇやつだな」
ルシアンが僅かに肩を竦めながら漏らした言葉に、ベルローズの細い眉がぴくりと動いた。
「……不敬よ、ルシアン。誰に向かって言っているのかしら」
「あぁ。悪かったな」
口では謝りながらも、ルシアンの表情に反省の色はない。
ベルローズは不機嫌極まりない表情を浮かべ、視線を鋭く尖らせた。
何も知らない人間が見れば、騎士の無礼を叱責する、冷酷な主に見えただろう。
だが、ルシアンは知っていた。
ベルローズがこうして言葉を荒らげ、高慢な態度を崩さない時ほど、その内側では理性が感情に敗北しかけているのだ。
ルシアンは彼女の怒りをさらりと受け流すと、口角を僅かに上げ、促されるまでもなく彼女の至近距離へと踏み込んだ。
ルシアンの長く整った指先が、漆黒の角に触れる。
(ん……?)
指先に伝わる温度に、ルシアンは密かに怪訝そうな表情を浮かべた。
――大して熱くない。
いつもなら指先が焼けるような熱気を感じるはずだが、今の彼女の角の熱は、平時より僅かに高い程度だ。
耐えられない痛みなど、どこにもないはずだった。
ルシアンは、目の前で長い睫毛を伏せているベルローズを、じっと観察するように見つめた。
ベルローズはどこか居心地悪そうに、彼の視線を避けるようにして、瞳を彷徨わせている。
(珍しいな……。こいつ、これくらいで俺を呼んだのか?)
改めて慎重に角の温度を確かめながら、彼はひとつの答えに思い至る。
彼女は、冷やす必要などない程度の熱を口実にして、自分を呼んだのではないか。
ピピたちと戯れる自分を見て、無意識にその時間を、自分へと向けさせようとしたのではないか。
(……そういうことかよ)
そこまで考えて、ルシアンの胸の奥で、甘い悦びが激しく脈打った。
表情はあくまで無骨な騎士のそれを保ち、黙々と氷の魔力を指先に集める。
だが、彼の嘘をつけない部位は正直だった。
背後で揺れる濃藍色の尾は、隠しきれない歓喜を物語るように大きく左右に揺れ、耳はぴくぴくと小刻みに震えている。
会話のない、静かな時間が流れる。
彼は意図的に指の冷気を抑え、彼女の角の感触を確かめるかのように、ゆっくりと指先を滑らせた。
ベルローズの呼吸が、ふう、と静まる。
冷やされることそのものよりも、彼の手の温もりがこの場所にあるということ。
その安心感に、肩の力が抜けていくのが見て取れた。
ルシアンは、彼女の呼吸が落ち着くのをじっと待ち、わざといつもより長い時間をかけて、その角に触れ続けた。
「……何か、嬉しいことでもあったのかしら。それとも、まだ獣の気分が抜けないの?」
ベルローズが、角に伝わる心地よい冷気に安らぎながら、不審そうに尋ねた。
至近距離にある彼の尾が、景気よくぱたぱたと床を叩く音が耳に届いたのだ。
「……いや、別に。何でもねぇよ」
ルシアンは短く答えると、喜びを悟られないよう、さらに深く意識を集中させるふりをして、彼女の角を丁寧に、慈しむように冷やし続けた。
ベルローズは不思議そうに彼を見上げていたが、ルシアンの手から伝わる絶対的な安息に身を委ね、それ以上追求することはしなかった。
「あんたの角は冷やしがいがあるからな。他の誰にも、これはできねぇだろ」
「当たり前でしょう。……私の魔力に干渉させるなんて、……あなただけに許しているのよ」
暖炉の火が爆ぜる音と、二人の静かな吐息。
アマンダとピピが遠くで、微笑ましくそれを見守っている。
ルシアンの尾が、心から嬉しげに大理石の床を叩く音だけが、静かな広間に小さく、幸せそうに響き続けていた。




