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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第9章:言葉なき調べ、熱を帯びる日々

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第62話:不器用な円舞曲

「そうだルシアン。今日は舞踏の練習を行うよ」


「……あ?」


 朝の光が差し込む大広間で、ピピは盆を磨く手を止め、事もなげに告げた。

 その言葉に、ルシアンの動きが完全に止まる。


「あくまで戦闘訓練の一環としてね。滑らかでしなやかな身のこなしを習得してもらうよ。多人数を相手にした時、流れるような転身は生存率を上げるからね」


「は? なぁ、冗談だろ……?」


「冗談なもんか。さ、行くよ!」


 絶望的な表情で呟いたルシアンだったが、ピピの灰色の瞳に宿る執念を前に、逃げ場がないことを悟る。

 結局、彼は不満を全身から溢れさせながら、埃一つない舞踏室(ボールルーム)へと引きずられていくことになった。


 ドラクロワ城の舞踏室。

 かつては数多の眷属(けんぞく)たちが夜会に興じたであろう、豪華な広間だ。

 今は主を失い、磨き上げられた大理石の床だけが、日の光を反射して冷たく光っている。

 広間の隅では、アマンダが静かに控えていた。


「あ。来ましたね、ルシアンさん。体中から、古い石畳が軋むような音がしてますよ。ふふ、おかしい……。そんなに嫌なんですね」


「嫌に決まってんだろ……。くるくる回る練習して、何の役に立つんだよ」


「まぁ、一度やってみましょう。ルシアンさんが思っているより楽しいかもしれませんよ」


 アマンダはルシアンの嘆きに、にこやかな微笑みで返した。

 彼女が細い指先を揺らすと、城の庭園から運び込まれた花々が、一斉にその器官を震わせ始める。

 アマンダの魔法が施された、音楽を奏でるための植物たちだ。


「さあみんな、わたしと一緒に歌いますよ。素敵な音を聴かせて……」


 大きく口を開けた純白の百合からは、管楽器のような高らかな旋律が。

 弦を張ったかのように細長い葉を持つシダ植物からは、重厚な低音が響き渡る。

 ベルの形をした小さな青い花々は風もないのに震えて、繊細な打楽器の音を添えた。


 花々が奏でる、幻想的な円舞曲(ワルツ)の旋律。

 だが、大理石の上で繰り広げられているのは、お世辞にも円舞とは呼べない、不格好な取っ組み合いだった。


「痛ってぇな! 何回踏めば気が済むんだよ、てめぇは」


 ピピに足を踏まれたルシアンの、地を這うような毒づきが舞踏室に響いた。

 しかし、彼の腕を全力で引っ張り、強引にステップを踏ませようとするピピには、その脅しは全く通じていないようだった。


「おや失礼! 君があんまりな図体してるもんだからさ、避けきれなかったんだよ。足運びくらいもっと優雅にできないのかい?」


「てめぇ……、調子に乗りやがって。……おい! また踏んだぞ」


「君の足が無駄にでかいのが悪いんだよ。ほら、左足から!」


 二人の体格差は、舞踏という優雅な共同作業においては致命的だった。

 見上げるほどに長身なルシアンと、その胸元に届くかといった背丈の、小柄なピピ。

 組んだ手が無理な角度に吊り上げられたまま、ルシアンが大きく一歩を踏み出す。

 そのたびにピピは、その一歩を避けるために小刻みな跳躍を強いられる。


「痛ったぁ! ルシアン、足! 思いっきり(かかと)で踏むなよ、死ぬかと思った」


「お前がチョロチョロと動くのが悪いんだろ。……これじゃ羽虫を追いかけてるのと変わらねぇぞ」


「文句言うなよ。相手の呼吸を読んで、その半歩先を予測する。それは実戦だって同じだろ?」


 ピピに振り回され、ルシアンは苛立ちから鼻に皺を寄せた。

 しかし苛立ちの裏側で、彼の優れた野生の勘は冷静に機能していた。


(踏んだ足の感触、アマンダが鳴らす音、重心移動のやり方。――覚えちまえばなんてことはねぇ)


 彼はそれを優雅な所作としてではなく、相手の動きを封じ、意のままに操るための体術として脳内で変換し、恐るべき速度で再構築し始めていた。


「これは……、何の騒ぎかしら」


 不意に、開け放たれた扉から、ベルローズの凛とした声が響いた。

 ルシアンが贈った栞が、当然のような顔をして挟まった魔導書を、胸元に抱えている。


「ベルローズ様! 騒がしくして申し訳ありません。ルシアンにしなやかさを叩き込んでいるところなのですが、どうにも僕相手だと緊張感がなくて。……あ、そうだ」


 ピピは悪戯を思いついたかのような、計算高い笑みを浮かべた。


「宜しければ是非、お手本を見せていただけませんか?」


 ルシアンは、ピピの提案を聞いてぎょっとした。

 ピピ相手なら、このふざけた時間を、訓練と割り切ってやり過ごせていたかもしれない。

 だが、ベルローズを相手にするとなっては話は別だ。

 ただのしなやかさを身につけるための時間、というわけにはいかなくなる。


 ベルローズの側も、魔導書をより深く抱えながら考え込んでいた。


(……お手本が、見せられるかしら。この私に……)


 ベルローズの脳裏に、王都での夜会の記憶が蘇る。

 貴族たちが集う(きら)びやかなホールでのダンス。

 彼女にとってその場は、交流や舞踏そのものを楽しむような場ではなかったのだ。


 ヴィクトルが望む、美しい素材としての出力チェック。

 貴族たちに自分の魔力の質を検品させるための見世物。

 管理された姿勢、強制された笑顔。

 そして背後から、流れるように支配を強いてくる、あの冷たい視線。


 踊ることは、彼女にとって自らの存在を枠の中に押し込め、呼吸さえも管理される、逃げ場のないものだった。

 その記憶が、ふと胸の奥を重くした。


 今の自分に、そんな所作が許されるのだろうか。

 わずかに逡巡(しゅんじゅん)したのち、彼女は意を決したように、舞踏室へと足を踏み入れた。


「……私は構わないわ。最後に踊ったのがいつだったかなんて、忘れてしまったけれど」


 ベルローズは、壁際に置かれていた飾り棚に、静かに魔導書を置いた。

 そして、目を丸くしたルシアンの前へ歩み寄り、白い手を差し出す。

 彼女の深紅の瞳が、至近距離で彼を見上げている。


 彼女が差し出した手を見て、ルシアンは一瞬だけ躊躇(ためら)った。

 だが、覚悟を決めたように、大きな溜息をついてその手を取る。

 角に触れることは許されたが、こうして手を取り合い、舞踏という形式で身体を預け合うのは、全く別の緊張感を伴う。

 力任せに握れば、彼女の指が折れてしまいそうで、ルシアンは微調整を繰り返す。


「固いよ、ルシアン。そんなに肩に力が入ってたら、ベルローズ様の手首が折れちゃうよ」


「うるせぇぞピピ。……黙ってろ」


 花々を指揮するアマンダの横まで下がったピピから、呆れたような毒舌が飛ぶ。

 ルシアンは眉間に皺を寄せながらも、集中を高めていた。


 アマンダが操る花々の音色に合わせて踏み出すと、ベルローズは思わず目を見開いた。


 かつて王都の夜会で、着飾った貴族たちと踊ったときには一度も感じたことのない、暴力的なまでの安心感。

 ルシアンのリードは、彼女の重心移動を邪魔しない。

 自分を所有しようとするヴィクトルの冷たさとは違い、揺るぎない城壁の中に迎え入れられたような感覚だった。


 彼が先に道を作り、彼女がそこを歩く。

 決して支配することなく、しかし突き放すこともない。

 自分の意志で足を出しているのに、なぜか迷わない。

 彼女は初めて、踊ることから逃げ出したい、という欲求を感じなかった。


「嘘だろ……、僕と組んでた時の無様な足運びはなんだったんだよ」


 ピピは腰に手を当てながらぼやいた。

 彼がベルローズ相手だからと本気を出したのか、ようやく何かを掴んで本領を発揮し始めたのかは判然としない。

 だが、いくら自分との体格差が大きかったとはいえ、この差はなんだというのか。


 アマンダは花々の音色を整える手を止めず、横目でピピを見やると、微笑みながら口を開いた。


「ピピ、ルシアンさんに遊ばれていたんじゃないですか?」


「アマンダ……」


 ピピは鈍い頭痛を覚えて目を閉じ、思わずこめかみに手をやった。


 ルシアンの一歩一歩は、驚くほど正確で力強い。

 ピピと組んでいた時に見せた不器用さは影を潜め、持ち前の強靭な体幹で彼女を支えている。

 ベルローズがどこへ行きたいのか、どの程度の速さで回転したいのか。

 彼はそれを、指先から伝わる微かな筋肉の緊張だけで予見し、彼女が踏み出すための空間を先回りして作っていく。


「……驚いた。あなた、皮肉なくらいなんでも身につけてしまうのね」


「あいつに踏まれまくったおかげだろ。おかげで足の置き所だけは理解したぜ」


 ルシアンは呆れたように言いながらも、彼女の一挙手一投足に気を配っていた。

 鋭い眼差しは和らぎ、薄い布を通した陽光のような、淡く確かな視線が、彼女を射抜いている。

 彼が膝をわずかに落とし、視線の高さを彼女に合わせると、ルシアンの影がベルローズをすっぽりと包み込む。

 まるでこの広い世界に、二人だけのような錯覚。


 ベルローズにとって、誰かに導かれることは、奪われることと同義だった。

 だが、ルシアンが示す道は、彼女自身の足で歩むためのものだ。

 ヴィクトルが望んだ、無機質な部品としての舞は、ここにはない。

 あるのはただの生命として、彼と共に音楽を聴き、心を通わせるという当たり前の幸福だけ。


「ふふ。……ね? 思ったより楽しいかもしれない、って言ったでしょう」


 アマンダは、満足げに植物たちの調べをゆっくりとフェードアウトさせていく。

 演奏が終わり、二人は広間の中心で重なり合うようにして止まった。

 ベルローズは、彼に手を預けたままで静かに微笑んだ。


「見苦しくはないわね、ルシアン。……思ったより、筋がいいわ」


「別に。あんたを転ばせたりしてみろ、ピピの小言が倍になるどころじゃ済まねぇぞ」


 ルシアンは不遜(ふそん)に答えたが、その表情には、戦い終えた後のような確かな充実感が漂っていた。


 不器用な円舞曲の跡が、過去の記憶とは違う形で、柔らかな陽光の差す大理石に刻まれていく。

 二人の呼吸と、アマンダが指揮する花々の芳香が、静かな朝を彩っていた。

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