第62話:不器用な円舞曲
「そうだルシアン。今日は舞踏の練習を行うよ」
「……あ?」
朝の光が差し込む大広間で、ピピは盆を磨く手を止め、事もなげに告げた。
その言葉に、ルシアンの動きが完全に止まる。
「あくまで戦闘訓練の一環としてね。滑らかでしなやかな身のこなしを習得してもらうよ。多人数を相手にした時、流れるような転身は生存率を上げるからね」
「は? なぁ、冗談だろ……?」
「冗談なもんか。さ、行くよ!」
絶望的な表情で呟いたルシアンだったが、ピピの灰色の瞳に宿る執念を前に、逃げ場がないことを悟る。
結局、彼は不満を全身から溢れさせながら、埃一つない舞踏室へと引きずられていくことになった。
ドラクロワ城の舞踏室。
かつては数多の眷属たちが夜会に興じたであろう、豪華な広間だ。
今は主を失い、磨き上げられた大理石の床だけが、日の光を反射して冷たく光っている。
広間の隅では、アマンダが静かに控えていた。
「あ。来ましたね、ルシアンさん。体中から、古い石畳が軋むような音がしてますよ。ふふ、おかしい……。そんなに嫌なんですね」
「嫌に決まってんだろ……。くるくる回る練習して、何の役に立つんだよ」
「まぁ、一度やってみましょう。ルシアンさんが思っているより楽しいかもしれませんよ」
アマンダはルシアンの嘆きに、にこやかな微笑みで返した。
彼女が細い指先を揺らすと、城の庭園から運び込まれた花々が、一斉にその器官を震わせ始める。
アマンダの魔法が施された、音楽を奏でるための植物たちだ。
「さあみんな、わたしと一緒に歌いますよ。素敵な音を聴かせて……」
大きく口を開けた純白の百合からは、管楽器のような高らかな旋律が。
弦を張ったかのように細長い葉を持つシダ植物からは、重厚な低音が響き渡る。
ベルの形をした小さな青い花々は風もないのに震えて、繊細な打楽器の音を添えた。
花々が奏でる、幻想的な円舞曲の旋律。
だが、大理石の上で繰り広げられているのは、お世辞にも円舞とは呼べない、不格好な取っ組み合いだった。
「痛ってぇな! 何回踏めば気が済むんだよ、てめぇは」
ピピに足を踏まれたルシアンの、地を這うような毒づきが舞踏室に響いた。
しかし、彼の腕を全力で引っ張り、強引にステップを踏ませようとするピピには、その脅しは全く通じていないようだった。
「おや失礼! 君があんまりな図体してるもんだからさ、避けきれなかったんだよ。足運びくらいもっと優雅にできないのかい?」
「てめぇ……、調子に乗りやがって。……おい! また踏んだぞ」
「君の足が無駄にでかいのが悪いんだよ。ほら、左足から!」
二人の体格差は、舞踏という優雅な共同作業においては致命的だった。
見上げるほどに長身なルシアンと、その胸元に届くかといった背丈の、小柄なピピ。
組んだ手が無理な角度に吊り上げられたまま、ルシアンが大きく一歩を踏み出す。
そのたびにピピは、その一歩を避けるために小刻みな跳躍を強いられる。
「痛ったぁ! ルシアン、足! 思いっきり踵で踏むなよ、死ぬかと思った」
「お前がチョロチョロと動くのが悪いんだろ。……これじゃ羽虫を追いかけてるのと変わらねぇぞ」
「文句言うなよ。相手の呼吸を読んで、その半歩先を予測する。それは実戦だって同じだろ?」
ピピに振り回され、ルシアンは苛立ちから鼻に皺を寄せた。
しかし苛立ちの裏側で、彼の優れた野生の勘は冷静に機能していた。
(踏んだ足の感触、アマンダが鳴らす音、重心移動のやり方。――覚えちまえばなんてことはねぇ)
彼はそれを優雅な所作としてではなく、相手の動きを封じ、意のままに操るための体術として脳内で変換し、恐るべき速度で再構築し始めていた。
「これは……、何の騒ぎかしら」
不意に、開け放たれた扉から、ベルローズの凛とした声が響いた。
ルシアンが贈った栞が、当然のような顔をして挟まった魔導書を、胸元に抱えている。
「ベルローズ様! 騒がしくして申し訳ありません。ルシアンにしなやかさを叩き込んでいるところなのですが、どうにも僕相手だと緊張感がなくて。……あ、そうだ」
ピピは悪戯を思いついたかのような、計算高い笑みを浮かべた。
「宜しければ是非、お手本を見せていただけませんか?」
ルシアンは、ピピの提案を聞いてぎょっとした。
ピピ相手なら、このふざけた時間を、訓練と割り切ってやり過ごせていたかもしれない。
だが、ベルローズを相手にするとなっては話は別だ。
ただのしなやかさを身につけるための時間、というわけにはいかなくなる。
ベルローズの側も、魔導書をより深く抱えながら考え込んでいた。
(……お手本が、見せられるかしら。この私に……)
ベルローズの脳裏に、王都での夜会の記憶が蘇る。
貴族たちが集う煌びやかなホールでのダンス。
彼女にとってその場は、交流や舞踏そのものを楽しむような場ではなかったのだ。
ヴィクトルが望む、美しい素材としての出力チェック。
貴族たちに自分の魔力の質を検品させるための見世物。
管理された姿勢、強制された笑顔。
そして背後から、流れるように支配を強いてくる、あの冷たい視線。
踊ることは、彼女にとって自らの存在を枠の中に押し込め、呼吸さえも管理される、逃げ場のないものだった。
その記憶が、ふと胸の奥を重くした。
今の自分に、そんな所作が許されるのだろうか。
わずかに逡巡したのち、彼女は意を決したように、舞踏室へと足を踏み入れた。
「……私は構わないわ。最後に踊ったのがいつだったかなんて、忘れてしまったけれど」
ベルローズは、壁際に置かれていた飾り棚に、静かに魔導書を置いた。
そして、目を丸くしたルシアンの前へ歩み寄り、白い手を差し出す。
彼女の深紅の瞳が、至近距離で彼を見上げている。
彼女が差し出した手を見て、ルシアンは一瞬だけ躊躇った。
だが、覚悟を決めたように、大きな溜息をついてその手を取る。
角に触れることは許されたが、こうして手を取り合い、舞踏という形式で身体を預け合うのは、全く別の緊張感を伴う。
力任せに握れば、彼女の指が折れてしまいそうで、ルシアンは微調整を繰り返す。
「固いよ、ルシアン。そんなに肩に力が入ってたら、ベルローズ様の手首が折れちゃうよ」
「うるせぇぞピピ。……黙ってろ」
花々を指揮するアマンダの横まで下がったピピから、呆れたような毒舌が飛ぶ。
ルシアンは眉間に皺を寄せながらも、集中を高めていた。
アマンダが操る花々の音色に合わせて踏み出すと、ベルローズは思わず目を見開いた。
かつて王都の夜会で、着飾った貴族たちと踊ったときには一度も感じたことのない、暴力的なまでの安心感。
ルシアンのリードは、彼女の重心移動を邪魔しない。
自分を所有しようとするヴィクトルの冷たさとは違い、揺るぎない城壁の中に迎え入れられたような感覚だった。
彼が先に道を作り、彼女がそこを歩く。
決して支配することなく、しかし突き放すこともない。
自分の意志で足を出しているのに、なぜか迷わない。
彼女は初めて、踊ることから逃げ出したい、という欲求を感じなかった。
「嘘だろ……、僕と組んでた時の無様な足運びはなんだったんだよ」
ピピは腰に手を当てながらぼやいた。
彼がベルローズ相手だからと本気を出したのか、ようやく何かを掴んで本領を発揮し始めたのかは判然としない。
だが、いくら自分との体格差が大きかったとはいえ、この差はなんだというのか。
アマンダは花々の音色を整える手を止めず、横目でピピを見やると、微笑みながら口を開いた。
「ピピ、ルシアンさんに遊ばれていたんじゃないですか?」
「アマンダ……」
ピピは鈍い頭痛を覚えて目を閉じ、思わずこめかみに手をやった。
ルシアンの一歩一歩は、驚くほど正確で力強い。
ピピと組んでいた時に見せた不器用さは影を潜め、持ち前の強靭な体幹で彼女を支えている。
ベルローズがどこへ行きたいのか、どの程度の速さで回転したいのか。
彼はそれを、指先から伝わる微かな筋肉の緊張だけで予見し、彼女が踏み出すための空間を先回りして作っていく。
「……驚いた。あなた、皮肉なくらいなんでも身につけてしまうのね」
「あいつに踏まれまくったおかげだろ。おかげで足の置き所だけは理解したぜ」
ルシアンは呆れたように言いながらも、彼女の一挙手一投足に気を配っていた。
鋭い眼差しは和らぎ、薄い布を通した陽光のような、淡く確かな視線が、彼女を射抜いている。
彼が膝をわずかに落とし、視線の高さを彼女に合わせると、ルシアンの影がベルローズをすっぽりと包み込む。
まるでこの広い世界に、二人だけのような錯覚。
ベルローズにとって、誰かに導かれることは、奪われることと同義だった。
だが、ルシアンが示す道は、彼女自身の足で歩むためのものだ。
ヴィクトルが望んだ、無機質な部品としての舞は、ここにはない。
あるのはただの生命として、彼と共に音楽を聴き、心を通わせるという当たり前の幸福だけ。
「ふふ。……ね? 思ったより楽しいかもしれない、って言ったでしょう」
アマンダは、満足げに植物たちの調べをゆっくりとフェードアウトさせていく。
演奏が終わり、二人は広間の中心で重なり合うようにして止まった。
ベルローズは、彼に手を預けたままで静かに微笑んだ。
「見苦しくはないわね、ルシアン。……思ったより、筋がいいわ」
「別に。あんたを転ばせたりしてみろ、ピピの小言が倍になるどころじゃ済まねぇぞ」
ルシアンは不遜に答えたが、その表情には、戦い終えた後のような確かな充実感が漂っていた。
不器用な円舞曲の跡が、過去の記憶とは違う形で、柔らかな陽光の差す大理石に刻まれていく。
二人の呼吸と、アマンダが指揮する花々の芳香が、静かな朝を彩っていた。




