第61話:額縁の中の迷子
城の北側に位置する、陽光さえも入り込むのを躊躇うような開かずの間のひとつに、その肖像画は眠っていた。
湿った大気が、古い石造りの部屋に重く澱んでいる。
長い歳月が作り上げた埃の層が、かつての栄華を覆い隠していた。
アマンダが城の修繕と記録整理のために、この部屋の開錠を提案しなければ。
それは永遠に時の狭間に埋もれ、誰の目に触れることもなかっただろう。
「あら、これって……。ちょっと見てください、ピピ、ルシアンさん」
アマンダが上げた小さな声に、埃を被った調度品を運び出していたルシアンとピピが足を止めた。
部屋の隅、何枚もの厚手の布を被せられ、壁に立てかけられていた大きな木枠。
アマンダがその布を慎重に引き剥がすと、巻き上がった埃が冬の微かな光に反射し、ひとつの世界が姿を現した。
そこにあったのは、一枚の肖像画だった。
背景には、かつてドラクロワの一族が愛したであろう、瑞々しい深緑の森と、咲き誇る深紅の薔薇が描かれている。
中央に佇んでいるのは、十歳にも満たないような、幼い少女だった。
その少女の角のそばには、森や庭園で摘まれた薔薇や野花の髪飾りが、丁寧に編み込まれている。
ドレスの裾には、森を駆け回った証拠のような泥の跳ねがついており、当時の活発な日常が透けて見えた。
そして画角の端に、少女の肩を支えるようにして描かれた、母らしき女性の優しげな白い指先。
それは間違いなく、確かに存在した、温かな愛の証明だった。
「これ……、ベルローズ様だ」
ピピが、いつになく真剣で、どこか感傷的な声を漏らした。
肖像画の中の少女は、今よりもずっと頬がふっくらとしている。
その美しい深紅の瞳には、一点の曇りもない純粋な光が宿っていた。
何よりルシアンの目を射抜いたのは、彼女の頭上に覗く、まだ小さく、柔らかな質感さえ感じさせる漆黒の角だった。
現在の彼女が、忌まわしい呪いのように扱いたがるその部位。
それが絵の中では誇らしげに、まるで宝石で飾られた冠の一部であるかのように描かれている。
少女は自らの運命を疑うことさえ知らず、ただ真っ直ぐに、画家の向こう側にいるであろう両親へ向けて、幸福な微笑みを投げかけていた。
「ドラクロワの一族はね、正当な血統を示すために、一度はこの始祖の城へ訪れて肖像画を残していく決まりだったんだ。……この城が、そう言っているよ」
ピピが重苦しく呟く。
彼が実際に見た光景ではなかったが、城の石壁や空気に染み付いた記憶から、正確に読み取った断片だった。
「ベルローズ様、かわいらしい……。本当に、愛されて育ったんですね」
アマンダが、慈しむように溜息をついた。
だが、ルシアンの胸の内には、それとは正反対の、焼けつくような感情が渦巻いていた。
(……なんだ、これは)
ルシアンは、無意識のうちに拳を握りしめていた。
可愛らしい?
確かにそうだ。
けれど、彼が見つめているのはその愛くるしさではない。
この、無垢な微笑みを浮かべていた少女が。
やがて王都へと連れ去られ、ヴィクトルという男の手によって『部品』へと解体されていったのだ。
この輝くような瞳が、絶望に塗り潰され、あの日見たような痛々しい涙を流すようになるまで。
彼女はどれほどの孤独を一人で歩まされたのか。
そして、もう一つ。
もっと醜く、自分勝手な嫉妬が、彼の魂の底でどろりと溢れ出していた。
この肖像画の中にいる少女が向けている、一点の濁りもない微笑み。
それを、自分は一度も見たことがない。
彼女がまだ部品でも、ましてや欠陥品でもなく、ただのベルローズとして愛されていた時間。
ルシアンという存在など欠片も必要としていなかった、完成された幸福。
その時間に、自分は決して入り込むことができない。
彼女が最も無防備で、最も守られていた場所を、自分は知らない。
その事実が、鋭い刃となって彼の胸を抉った。
「あなたたち……、何を見ているの?」
背後から、凛とした、けれどどこか硬い声が響いた。
振り返ると、入り口にベルローズが立っていた。
彼女の視線が、アマンダの影から覗く肖像画に止まった瞬間、その顔から血の気が失せていくのを、ルシアンは見逃さなかった。
「……ああ、これ。……アマンダ、まだ片付けていなかったのね」
ベルローズは足早に歩み寄り、肖像画の表面を愛おしむように、指先でなぞった。
けれど呼吸は浅く、指先は無意識に今の自分の角へと這い寄る。
あの頃の自分と、今の自分。
そのあまりの乖離に、彼女は一瞬、逃げ出したそうに身体を強張らせた。
「懐かしい……。お父様とお母様に連れられて、この城に来た日のことを覚えている。……でも、今の私には、眩しすぎるわ。こんなものはどこか見えない場所へ、……奥底へ、隠しておいて」
「隠す必要なんかねぇだろ」
ルシアンの低い声が、冷えた部屋に響いた。
ベルローズが驚いたように睫毛を揺らして顔を上げ、彼を見据える。
ルシアンはその視線を真っ向から受け止め、彼女が遠ざけようとした肖像画を、再び壁へと立てかけた。
「ルシアン、……それはもう私じゃない。今の私には、そんな顔は似合わないもの」
かつての自分が持つ無垢な輝きと、今の自分を覆う絶望の深さ。
鏡に映る自分の顔を直視できないかのように、彼女は視線を彷徨わせる。
「できねぇならしなくていい。……けどな、こいつは大事にしとけよ」
ルシアンは一歩、彼女との距離を詰めた。
「いい顔して笑ってるじゃねぇか。……腹立つくらいな」
野性的な熱を帯びたサファイアブルーの瞳が、彼女の動揺を静かに射抜く。
絵の中の少女は、永遠に幸福なまま凍りついている。
だが自分の前には、傷つき、震え、今なお生きるために戦っている、現在のベルローズがいる。
「この顔を奪った奴らへの怒りも、この頃のあんたを知らねぇっていう、俺の勝手な苛立ちも。いつでも思い出せるように、いいから飾っとけ」
ルシアンの大きく整った手が、ベルローズの肩に、慎重な重みを持って置かれる。
確かに、過去の彼女を知らないことを腹立たしくは思った。
だが、肖像画の中の過去の光よりも。
今、目の前で僅かに睫毛を伏せている彼女の体温の方が、ルシアンにとってはよほど尊いものだった。
「あんたがこの絵を見て目を逸らすなら、その分だけ、俺が今のあんたを見といてやるよ」
あまりにも泥臭く、まっすぐな願い。
騎士としての忠誠を通り越した、静かで切実な執着だった。
冷えた空気に、彼ら二人の呼気だけが溶け合っている。
ルシアンは、彼女の纏う仄かな薔薇の香りと、隠しきれない肌の震えを間近で感じ取っていた。
ベルローズの細い肩から伝わる硬直が、徐々に解けていく。
その微かな反応一つひとつが、彼女の心に侵入することを許されたかのような感覚を、ルシアンの奥底に静かに刻み込む。
「ルシアン。あなた、本当に……。仕方がない子ね」
「ふん。……言ってろよ」
ピピとアマンダは二人のやり取りを背中で聞きながら、声を潜めて相談を始める。
「……あの肖像画さ、ルシアンの言うとおり、保存しておく価値があるよね。僕、定期的に手入れに来るよ」
「ええ。……あの肖像画のベルローズ様は、まだ土に還っていない。今のベルローズ様の中にも、彼女の欠片が確かに残っているんです」
二人は顔を見合わせて頷き、ベルローズとルシアンに気づかれぬよう、静かに退室していく。
ルシアンの耳は、その微かな音さえも拾ってはいたが。
ベルローズはルシアンに歩み寄ると、彼の胸板に額を預けた。
拒絶の欠如。
彼女が彼を追い出さないことこそが、最大限の許容だった。
ルシアンは僅かに身じろぎし、耳をぴんと立てたが、静かに彼女を受け止めている。
(私の過去を知らないことに、苛立ったなんて……。おかしなことを言うのね)
ベルローズは思わず小さな笑みを漏らし、細い指先でルシアンの服の裾をそっと、だが確かな意思を持って掴む。
かつて両親に向けられていた無垢な微笑みは、もう二度と戻らないかもしれない。
それでも今、ルシアンの腕の中で感じるこの静かな安息は、王都の屋敷で感じていた死のような静寂とは、決定的に違っていた。
「……馬鹿ね、ルシアン。あなたが勝手に上書きしていくものを、私がまだ退けずにいるだけよ」
「……そうかよ」
ルシアンは彼女の髪に鼻先を寄せ、深くその香りを吸い込んだ。
石の冷たさ、薔薇の残り香。
そして、今この腕の中で脈打っている、生きている人間の確かな血の匂い。
過去の残照など、自分が食い破ってみせる。
彼は改めて、今この瞬間を生きるベルローズを一生かけて守り抜くことを、己の魂に刻みつけた。




