第60話:静かなる図書室
夜が明けても、城を包む静寂の質は変わらない。
冬を迎えた朝の空気は、肺の奥まで切り裂くように鋭い冷たさだ。
石造りの回廊はその冷気を溜め込んで、訪れる者の体温を奪っていく。
だが、ルシアンの胸の内だけは、昨夜の残熱が消えずに燻り続けていた。
(あいつ……、あんなに、細かったんだな)
図書室へと続く重厚な扉の前で、ルシアンは何度か足を止めた。
昨夜、ベルローズをテラスで抱きしめた時の感触が、掌にこびりついて離れない。
普段なら訓練場にでも向かっているところだが、今日はどうしてもその気になれなかった。
彼女の凍りついた心をどう溶かせばいいのか、言葉をどう紡げばいいのか。
ルシアンには皆目見当がつかない。
訓練で力をつけて、敵を屠ることはできても、彼女の傷ついた心は慰められない。
だからこそ彼は、答えを求めてこの空間へと足を踏み入れたのだ。
図書室の高い窓から斜めに差し込む陽の光が、宙を舞う埃の粒を金色に染め上げている。
ルシアンは己の身体を持て余しながら、そびえ立つ書棚の前に立っていた。
太い尾で本を叩き落としてしまわぬよう、意識してその身体を小さく丸める。
溢れ出る威厳と魔力で大きく見えていた、ベルローズの身体。
いざ触れてみれば、彼が少し力を込めると折れてしまいそうだった。
それでいて、彼女の内側から漏れ出てくる感情の匂いは、逃げ出したくなるほどに熱く激しかった。
守ると口にするのは容易い。
だが、あの細い身体に刻み込まれた見えない鎖を、どうすれば根こそぎ引き剥がしてやれるのか。
図書室に漂うのは、古い紙が放つ独特の朽ちゆく匂いと、長い間閉じ込められていた時間が放つ埃っぽさだ。
ルシアンは、無意識に目の前の書棚へと指先を伸ばした。
彼の手は、キメラの太い喉笛をも掻き切り、魔力を宿して敵を屠る。
そんな荒ぶる手が今は、古びた革表紙の背を、震えるほど慎重になぞっている。
「……これか」
彼が選んだのは、ベルローズが時折、窓辺の安楽椅子に座って手に取っていた、一冊の詩集だった。
人間たちが、己の脆弱な心を繋ぎ止めるために編み出した、美しくも難解な言葉の羅列。
幻獣としての本能的な賢さは備わっていても、ルシアンにとって文字とは情報の伝達手段、あるいは命令を理解するための記号でしかない。
だが今の彼は、彼女が見ている景色を、彼女が愛する言葉を知りたくてたまらなかった。
大きな手で、慎重に頁をめくる。
紙の端を折らぬよう、荒々しい指先を神経質に制御していく。
自分のこの手が、彼女の過去を壊してしまうのではないかという恐れが、ルシアンの動きを鈍らせていた。
古い紙が立てる、乾いた囁きのような音が、静まり返った室内で不自然なほど大きく響く。
ルシアンが、自分の心音すら石壁に跳ね返るように聞こえるのを、疎ましく思ったその時。
詩集のなかほどに、それはあった。
「なんだこれ、……花?」
文字の海に溺れるようにして置かれていたのは、一輪の薔薇の押し花だった。
長い年月の間に鮮やかな色彩は失われ、琥珀色に近い茶褐色に染まっている。
その花弁の重なりは、ベルローズ自身の指先によって整えられたのか、驚くほど丁寧に、かつ端正な形で保存されていた。
ルシアンはその押し花を、穴が空きそうなほどに見つめた。
彼女は誰にも悟られぬよう、この薄暗い図書室で、たった一輪の花に己の心を預けていたのではないか。
詩集に綴られた、孤独や赦しの言葉を、血を流すような思いでなぞっていたのではないか。
(俺の知らない言葉を、あいつは、ずっと一人で抱えてきたんだな)
ルシアンの胸の奥で、重い鉄の錨が水底に沈み込むような、鈍い痛みが走った。
昨夜、彼女は自分のことを欠陥品だと、自嘲気味に笑った。
自分の知らない彼女の時間が、この枯れた花に凝縮されている。
「……ルシアン?」
背後から衣擦れの音と共に、どこか震えるような声がした。
振り返るとそこには、冷気に肩を縮めたベルローズが立っていた。
昨夜の涙の痕は、もう見てとれない。
だがその瞳には、隠しきれない疲労と、微かな戸惑いが混じっていた。
あの抱擁の記憶が、二人の中に残っている。
ベルローズは、ルシアンと目が合うと、ふっと視線を窓の外へと逸らした。
ルシアンもまた、手にした詩集に視線を落とすことしかできない。
沈黙の過剰なまでの重さに、彼は居心地悪げに尾を動かした。
「そんなところで、何を……。あなたが楽しめるような本は、そこにはないはずよ」
彼女はいつものように、心の防壁を築くための、少しだけ突き放すような口調を選んだ。
その声は昨夜の余韻を纏って、ひどく頼りない。
ルシアンは押し花を挟んだ頁を開いたままで、彼女の目を真正面から見据える。
ベルローズは、彼の瞳の奥にある、射抜くような光に圧倒され、思わず息を呑んだ。
ルシアンの指先が、詩集の頁の端、押し花のすぐそばをそっとなぞる。
かつて彼女が孤独の中で慈しんだ枯れた薔薇に、彼の体温が移っていく。
「それは……。この城に来て自分で初めて摘んだ、最初の薔薇だったのよ」
ベルローズは彼の手にある詩集に気づくと、わずかに目を見開き、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼女はルシアンの隣に立つと、押し花を愛おしそうに見つめる。
「押し花にすれば、散らさないで済むでしょう? あの時の私は壊れかけだったけれど……、これだけは、私の中に残したかった」
彼女の告白に、ルシアンは言葉を失った。
王都から逃げた彼女が、どんな気持ちでこの薔薇を育て、摘んだのか。
それを思うだけで、胸の奥が鈍く疼く。
ベルローズは薔薇の香りを反芻するかのように、短く目を閉じた後、首を傾げてルシアンに問いかけた。
「それで……? なぜ、あなたはこの詩集を?」
「……理解できるようになりてぇんだよ。あんたが何を考え、何を見てきたのか。その端っこだけでもな」
ルシアンの声は昨夜と同じく、低く響いている。
照れなどという、浮ついた言葉では片づけられない、確かな熱量がそこにはあった。
「あんたが抱えてる言葉も、見てきた景色も。全部理解してこそ立派な騎士ってもんだろ」
あえてぞんざいに、騎士という枠組みを持ち出してはみるが、彼がその範疇などとっくに踏み越えていることは明白だった。
だが、その形がどう変わろうと、彼女とこの城を守るという自負だけは揺るぎない。
今の彼を動かしている感情に、まだ名前はなかった。
忠誠と呼ぶには熱すぎ、恋と呼ぶにはあまりに獣じみている。
ただ、彼女の孤独を誰にも渡したくないという衝動だけが、胸の奥で静かに牙を剥いていた。
ルシアンは一歩、彼女の方へと足を踏み出した。
図書室に差し込む陽光が、彼の逞しい背中を縁取り、長い影がベルローズの足元を覆い尽くす。
ベルローズの脳裏に、昨夜のあたたかな感触が蘇る。
彼女を傷つけることも、閉じ込めることもせず、ただ闇から引き上げるためだけに向けられた、強引なまでの抱擁。
「……そうね」
ベルローズは俯き、その細い指で自らの角に触れた。
指先から伝わる微かな熱は、もう彼女を絶望させるだけのものではなくなっていた。
「俺にとっては、あんたが捨てようとした過去も、この角もひっくるめて全部、あんたが俺を拾ってくれた証だ。……もう、欠陥品とか呼ぶんじゃねぇぞ」
自分を定義していた冷たい言葉が、彼の低い声によってひとつずつ砕かれていく。
ベルローズは小さく息を吐き、静かに顔を上げた。
「ええ……、わかっているわ。今はもう、大丈夫」
(……あなたが、そばにいてくれるものね)
最後の一言は、まだ口には出せない。
それでも、彼女の胸の奥で凍りついていた何かが、静かな音を立てて崩れ始めていた。
ルシアンは、手にした詩集をそっと棚に戻す。
ベルローズを理解するための一歩を、彼は静寂のなかで確かに踏み出している。
その手つきは、先ほどよりもずっと確実で、迷いがなかった。




