第59話:静寂の体温
真夜中、ドラクロワ城は深い水底に沈んだような静寂に包まれていた。
古い石造りの壁は昼間の陽光を完全に放出し、今はただ、肺の奥まで凍てつかせるような沈黙を湛えている。
回廊を渡る風の音さえも、この城では遠い過去の残響のように響き、寄る辺ない孤独を増幅させた。
「お父様、おかあさ……っ!」
ベルローズは、自身の角が発する逃れようのない脈動に弾かれるようにして、跳ね起きた。
身体がひどく、鉛のように重い。
絹の寝衣は汗で濡れ、じっとりと不快に肌に張り付いている。
頬には無意識のうちに零れ落ちた涙が、冷たい筋を作っていた。
「はぁ……っ、はぁ……!」
ベルローズは浅い呼吸を繰り返しながら胸元に手をやった。
飛びださんばかりに肋骨の裏で暴れる鼓動を、なんとか鎮めようとする。
悪夢は、いつも同じ場所へと彼女を連れ戻す。
あの無機質な白銀の祭壇、消毒液の鼻をつく臭気。
胸の奥には、大聖堂の白銀の光と、耳にこびりついたヴィクトルの声が、黒い澱のように淀んでいる。
自分はもうあの地獄にはいないのだと、頭では理解している。
それでも、魂の深くに打ち込まれた部品としての楔は、今なお彼女の内側を蝕み、支配しようと蠢いているのだ。
やがて彼女は寝台からゆっくりと降りると、羽織を肩に掛け、おぼつかない足取りでテラスへと出た。
雨上がりの夜風は、肌を刺すかのように鋭く冷たい。
だが、角の根元にこびりついた悪夢の残響を鎮めるには、その冷たさくらいが心地よかった。
「……おい、こんな時間に散歩か?」
暗闇の中から、低く通る声が響いた。
ルシアンはテラスの隅、影が最も濃く溜まった場所に音もなく立っている。
その姿は闇に溶け込み、黒曜石でできた彫像のようだ。
彼が、どれほど前からそこにいたのかはわからない。
ただ、主の精神の揺らぎを鋭い本能で察したのだろう。
彼はベルローズの頬に残された涙の跡に気づくと、僅かにたじろいだようだった。
ベルローズは、ルシアンに声をかけられても驚きを見せなかった。
今の彼女にとって、彼の存在はこの城の古い石壁や、夜な夜な囁き合う森のざわめきと同じだ。
日々過ぎていく時間のなかに、あって当然のものになりつつあった。
「……少し、昔話を聞いてくれる?」
ルシアンは黙って頷き、彼女の次の言葉を待つ。
今夜のテラスには、月明かりさえ届かない。
ベルローズは闇の中で息を吐き、漆黒に沈む森を見つめたままで語り始めた。
王都へ送られた経緯。
救世主のように現れた少年について。
彼が実際には自分を永久機関の部品として、いかに精巧に解体し、矯正を施してきたか。
ベルローズの言葉は、時折途切れた。
記憶が、断片となって彼女を襲う。
「……忘れようとするほどに、浮かんでくるのよ」
家族さえも実験台にされ、最後にあの大聖堂で人格を殺される寸前に、命を削る転移魔法で逃げ出したこと。
そうして辿り着いたのが、かつて幼い日に一度だけ訪れた、この一族の始祖の忘れ去られた城であること。
「……あの時、私の魔導回路は一度、焼き切れてしまった。無理矢理に禁忌の転移魔法を使ったんだもの、当然ね」
語るたびに、喉の奥が引き攣る。
ヴィクトルの声が、祭壇の電子音が、彼女の脳内で再生されるたび。
当時の恐怖が鮮明に蘇り、彼女の呼吸を奪う。
「角の発熱は、元々あったわ。ドラクロワの一族にとっては、付き合っていかなければならないものなの」
ベルローズは苦々しく唇を歪める。
視線の先、暗い森の境界線が滲んで見えた。
「けれど、あれからは悪化してしまったというわけ。あなたの手を焼いてしまったあの日も……、そういうことよ」
彼女の語る言葉の一つ一つが、凍てついた夜の空気に溶けていく。
それは、誰にも見せることのなかった剥き出しの傷跡だった。
ヴィクトルによって、効率や数値という冷たい言葉で塗り潰された、彼女の半生。
自尊心を削り取られ、愛という名の支配に窒息しかけた記憶。
ルシアンは一度も口を挟まず、黙って聞いている。
彼の視線は彼女の横顔をなぞり、その細い肩が、微かに震えているのを見逃さなかった。
寒さのせいか、あるいは記憶の重みのせいか。
ベルローズが語るのを聞くにつれて、ルシアンの瞳には獣としての熱が宿り、奥歯は砕けんばかりに噛み合わされていた。
黒い濁流のような殺意と咆哮を、彼は喉の奥でなんとか抑え込む。
かつて彼自身が、檻の中で過ごした時間。
自分を救い出した主もまた、同じ地獄の炎に焼かれ、形を変えた檻の中に閉じ込められていた。
その事実に、胸の奥が焼けるように熱くなる。
「醜いでしょう? ……私は、王都が作り損ねた、ただの欠陥品なのよ」
彼女の声は、凪いだ水面のように淡々としていた。
だが、手すりを掴む指先は、皮膚が裂けんばかりに白く強張っている。
すべてを聞き終えたルシアンは、長い沈黙のあと、ゆっくりと、けれど確かな足取りで彼女に歩み寄った。
ルシアンは、震える彼女の手にそっと自分の手を重ね、彼女の手を包み込んだ。
そして、彼女の視線を射抜くように、そのサファイアブルーの瞳を真っ直ぐに向ける。
そこには安っぽい同情も、空虚な憐憫もない。
あるのは剥き出しの、烈火のような意志だけだ。
ルシアンは深く息を吐き、牙を噛み締めて衝動を殺すと、ゆっくりと口を開いた。
「欠陥品だ? ……笑わせんな」
ルシアンの声は、夜の空気を震わせるほどに低く、重かった。
テラスを支配していた冷たい沈黙が、熱を帯びていく。
「あんたが部品として完成しなかったから、俺は今、ここにいる。あんたが死ぬ気で逃げ出したから、俺を拾い上げてくれたんだろ」
ベルローズは、吸い寄せられるように彼の瞳を見つめ返した。
手すりを掴んでいた彼女の白い指に、微かな赤みが差す。
「王都の連中が何と言おうが、そんなもんは知ったことじゃねぇ。……俺が見ているのは、今ここに立っている、あんただけだ」
彼女の角へとゆっくりと手を伸ばすルシアンの手に、ベルローズは怯えなかった。
ヴィクトルが決して直接触れようとせず、布や宝石で無機質に処理したその部位を、彼にだけは触れさせることを、彼女の魂が許していた。
ルシアンの指先が、熱を持つ角に触れる。
彼は壊れやすい宝石の傷跡をなぞるように、慎重に、かつ深くその熱を奪っていく。
「角の熱がどうした。俺が何度でも冷やしてやるよ。……今は俺がいる。あんたがその呪いから逃げ出したことを、俺だけは何があっても肯定してやる」
「……ルシアン」
ベルローズは、彼の手から伝わる清らかな冷気を感じながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
彼の手が角に触れている間だけ、彼女は高潔な仮面をわずかに解く。
そして、彼という強固な盾に、己の重みごと預けるような安堵に身を浸した。
不意に、ルシアンは角から手を離すと、彼女をそっと抱き寄せた。
彼女を甘やかすように、宥めるように、ルシアンの手がゆっくりと漆黒の髪を滑る。
もう一方の腕は壊れ物を守るかのごとく、彼女の背を不器用に、けれど力強く包み込んでいた。
「……っ……」
ベルローズは目を見開き、驚きに身を固くした。
もう、誰かに心を預けることはしない。
信じて裏切られるくらいならば、最初から繋がらずに突き放すと決めていたはずなのに。
ルシアンの混じりけのない献身は、彼女が築き上げた幾重もの防衛線をいとも容易く踏み越えてくる。
彼女を所有し、支配しようという強引な抱擁ではない。
それでも、ベルローズは動けなかった。
(……あたたかい)
ルシアンは、「安心していい、自分が傍にいる」と、視線で、しぐさで伝えてくる。
自分がただの生命としてここに存在していることを、ベルローズはようやく実感していた。
彼女の指先は、空中で一度止まった。
背に回すべきか、それともこのまま手を下ろすべきか。
誰かに触れ、抱き返すという行為の作法さえ、彼女は忘れてしまっていた。
しかし、ルシアンから伝わる力強い鼓動が、ヴィクトルの冷たい白手袋の感触を、根こそぎ塗り潰していく。
雲の切れ間から、一筋の月光がテラスを照らし、二人の重なり合う影を石床に落とした。
ベルローズは、彼の肩に顔を埋めたまま、何かを諦めたような表情で、長い睫毛を伏せる。
そっとルシアンの背を抱きしめ返した彼女の指先は、もう震えていなかった。
雨上がりの庭園の薔薇は、昨日までと同じ香りで優雅に香っている。
それでも今夜、彼女を取り巻く世界の質は、確かに変わった。
自分を縛っていた白銀の鎖は今、目の前の男が放つ青い熱によって、音もなく溶け始めていた。




