第64話:雪に眠る庭
ドラクロワ城は、あらゆる音が吸い込まれていくかのような静寂に包まれていた。
広大な庭園は、夜通し降り続いた雪によって、一切の境界線を失っている。
低木も石畳もすべてが等しく、厚い真綿のような白に埋もれてしまった。
ただ空だけが、雪を吐き出し続ける重い鉛色を湛えている。
「ルシアン。雪が降って嬉しいだろ? 庭を駆けまわってこないのかい?」
中庭の隅で雪かき用のスコップを杖代わりにし、ピピが声を上げた。
城の記憶にある正しい冬の装いを、忠実に再現している彼は、厚手のウールコートを纏って熱心に雪かきをしていた。
だが寒さに晒されても、石から生まれたピピの肌は赤みひとつ帯びず、いつものとおりに滑らかだ。
ルシアンをからかうその瞳には、少年らしい悪戯な光が宿っている。
「するわけねぇだろ。馬鹿なのかあんたは」
ルシアンは庭に張り出したテラスで、手摺りに肘をついたまま、低く短い声で毒づいた。
彼は自らの魔力で生成した、毛皮つきの重厚なジャケットを羽織っていた。
駆けまわりはしないものの、実際この冷気が心地よかった彼は、極寒の中でも胸元を寛げ、シャツを着崩している。
そんな恰好で静かに庭園の奥を見据える姿には、どこかちぐはぐな印象を受ける。
だがルシアンは基本的に、衣服を生存のために必要な装備だとは思っていない。
ドラクロワ城に馴染んでからは、人間の姿としての自分を整えるものと判断している、それだけだ。
「冷たいのは嫌いじゃねぇが、無意味に動き回る趣味はねぇよ」
「ちょっと今僕のこと馬鹿って言った!? 聞こえてるんだよ!」
ピピが足元の雪を素早く丸め、ルシアンの広い肩へ向けて投げつけた。
雪玉はルシアンの肩口で砕け、濃藍色の髪に白い破片を散らす。
ルシアンは反射的に体を震わせて雪を払うと、目を細めてピピを見つめた。
「……やりやがったな、ピピ」
「なんだよ。このくらいあっさり避けてみせるかと思ったけどね!」
ピピの軽口に、ルシアンの眉が微かに跳ねた。
普通なら不機嫌そうに無視しただろうが、今日の彼は、どことなく浮き足立っているようにも見えた。
彼は無言のまま、長い指先で足元の雪を掬い上げると、ほとんど予備動作なしに腕を振った。
「うわ! あぶな――!」
ピピが慌てて飛び退く。
ルシアンが投げ返した雪玉は、ピピの頭上を凄まじい速度で通り過ぎ、背後の木を激しく揺らした。
「はっ。気分がいいぜ。あんたの鈍い動きを見てると、特にな」
ルシアンの唇の端が、僅かに吊り上がる。
感情を爆発させることはないが、その瞳には野性的な愉悦が滲んでいた。
その姿にピピがまた雪玉を投げ返し、二人はじゃれるようにして雪にまみれていく。
二人のやり取りは、傍目には喧嘩のように見えても、その実、この静まり返った城の中に確かな生の色を灯していた。
その様子を、一段高い回廊のテラスから、ベルローズが静かに見下ろしていた。
彼女はドレスの上から、毛皮を贅沢にあしらった重厚な防寒着を纏っている。
夕暮れと夜の狭間のような深紫の裏地が、雪の白さに鮮やかに映えていた。
その手元には、温かい紅茶が静かに湯気を立ち昇らせている。
「ベルローズ様……。世界が、眠ってしまいましたね」
隣に立つアマンダが、感情の起伏の少ない、穏やかな声で呟いた。
琥珀色の瞳は、雪に埋もれた庭園をじっと見つめている。
植物や菌類と繋がっている彼女にとって、冬は死の季節ではなく、再生を待つための深い沈黙の時間だ。
彼女も分厚い外套や帽子で防寒しているが、その生命活動は確実に鈍っている。
小柄な体躯は強張り、言葉の端々には微かな眠気が混じっているようだった。
「……そうね。あなたも、少し呼吸が深くなっているわ。大丈夫? アマンダ」
「はい。土のなかの声が聞こえなくなると、わたしも……、少しだけ、静かになってしまいます」
アマンダはそう言って、キノコの傘の柄を、杖のようにぎゅっと抱きしめた。
寒さに震えるというよりは、意識の輪郭が冬の冷気に溶け、希薄になっていくのを必死に繋ぎ止めているような。
そんな危うさがあった。
「おーい、アマンダ! 君、そんなところに居たら冷えすぎるだろ」
階下で雪合戦をしていたはずのピピが、いつの間にか回廊を駆け上がり、アマンダの元へ歩み寄っていた。
彼は自身の魔力で内側からじっくりと熱を込めた『温熱石』の包みを、アマンダの掌にそっと乗せる。
「ほら。これを抱えてなよ。君が完全に寝ちゃったら、起こすのが面倒だからね」
「……あたたかいです。ピピ。これは、あなたの心臓の温度ですか?」
アマンダは、寒さにとろりと重くなっていた瞼を開くと、ピピに問いかけた。
石から伝わる一定の熱に、彼女の意識がほんの少し、鮮明さを取り戻す。
「心臓なもんか。ただの石だよ。……いいから、大人しくしてな」
ピピは照れくさそうに視線を逸らし、またルシアンの方へと向き直った。
一方ルシアンは、ピピがアマンダを気遣う様子を一瞥すると、雪を払うこともせず、テラスにいるベルローズの元へと歩を進める。
そして彼女の手前で足を止めると、促されるまでもなく彼女の足元、長椅子のそばに、音もなくしゃがみ込んだ。
「雪、止みそうにねぇな」
ルシアンの低い声が、冷たい大気に溶け込む。
彼は触れる許可を求める代わりに、ただ彼女の傍へと身を置いた。
至近距離に腰を下ろし、自身の存在を彼女の空間に馴染ませることで、彼なりの安息を差し出している。
ベルローズは何も答えず、ただ静かに視線を彼に落とした。
ルシアンの髪に残った雪の結晶が、光を反射して輝いている。
不意に、ルシアンの背後から伸びた、太くしなやかな濃藍色の尾が、ベルローズの膝元へと滑り込んできた。
毛皮の防寒着よりもずっと確かな、生き物としての熱を宿している。
ふわりと広がる尾が、彼女の冷えた指先を包み込むようにして、そっと置かれた。
「……何をしているの、ルシアン」
「ただの毛皮代わりだ。……文句あんのかよ」
ルシアンは顔を上げないまま、素っ気なく答えた。
彼が自分の尾で彼女を温めようとするのは、従者としての義務ではなく、本能が命じる、もっと根源的な献身の形だ。
そう思うと、膝の上の尾を払うことなど、ベルローズにはできなかった。
無反応を装いながらも、その柔らかな毛並みから伝わる熱を、静かに受け入れている。
「ルシアンさんのしっぽ……。とても、命が溢れている匂いがします」
アマンダは温熱石を大切そうに抱え、少し離れた場所から、その光景を琥珀色の瞳で見つめていた。
彼女は近づくことも、触れることもせず、ただ空気の揺らぎを読み取るように首を傾げた。
「……ベルローズ様。ルシアンさんの呼吸が、柔らかい音を立てています」
「……え?」
「ルシアンさんの耳、さっきから、忙しそうに震えています。ベルローズ様に触れられて、とても安心しているんですね。冬の土が、春の雨を待っている時と同じ匂いがします」
アマンダの無邪気な、それでいて全てを見透かしたような言葉。
ルシアンは顔を背け、ベルローズは長い睫毛を伏せた。
彼女の指摘はあまりに直接的で、隠すべき情愛のヴェールをあっさりと剥ぎ取ってしまう。
ルシアンは、尾を通じて伝わってくるベルローズの微かな熱に、改めて意識を向けた。
雪の冷たさに触れるたび、一族たちの冷淡な視線が、脳裏をよぎることがある。
それでも、もしあのまま霊峰で生きていたら。
こうして人間の身体で、誰かと雪の中でじゃれ合ったり、誰かを温めたいと思ったことなどあっただろうか。
互いの本質で支え合う、ピピやアマンダ。
そして、自分の尾を跳ね除けもせずに受け入れている、この尊大で孤独な女性。
(……悪くねぇな)
ルシアンは心の中で、短く呟いた。
かつて霊峰で感じた雪は、逃げ場のない監獄のような冷たさだった。
飢えと孤独、そして一族という名の呪縛だけが、その白い世界を支配していたのだ。
だが、今の自分はどうだ。
ピピと投げ合った雪玉の感触、ベルローズを温めるために尾を差し出すこの行為。
同じ白銀の世界なのに、そこには確かな温度と、誰かと繋がっているという実感が宿っている。
一族からの疎外も、その後味わった屈辱も。
すべてはこの瞬間の静寂に辿り着くための、必要な対価だったとすら思える。
彼はサファイアブルーの瞳を閉じ、冷たい空気の中に混じる、ベルローズの香りを深く吸い込んだ。
すべてを白く、静寂へと帰していくように、雪は依然として降り続く。
だが、その静寂を、ルシアンの耳が鋭く捉えた。
あれほど庭を舞っていた雪の音が、完全に音を消す。
風が凪ぎ、庭の木々さえも凍りついたように微動だにしない。
この場のすべての生が、得体の知れない気配に押し潰され、息を潜めているのだ。
傍らでアマンダが抱えていた温熱石が、持ち主の警戒に呼応するように、僅かに熱を鈍らせる。
この場所にあるはずの再生への沈黙とは違う、濁った死の気配。
空気を震わせるような圧力が、庭園の底から這い上がってきた。
「……ッ」
ぴくり、とルシアンの耳が、凍りついたように直立する。
全身の毛が逆立ち、ベルローズの膝を温めていた尾が、瞬時に硬質な緊張を帯びて引き抜かれた。
「ルシアン? ……どうしたというの?」
ベルローズが不審そうに眉を顰めるより早く、ルシアンは音もなく立ち上がり、庭園の向こう、白銀の闇に沈む森へと視線を突き立てた。
サファイアブルーの瞳が、捕食者のそれへと変貌する。
「……臭うな。冷てぇ魔力の臭いだ」
ルシアンの低い声には、先ほどまでの穏やかさの欠片もなかった。
アマンダもまた、傘の柄をぎゅっと握りしめ、琥珀色の瞳を虚空へ向ける。
「……土が、震えています。眠っている子たちが、何かに踏み潰されて……、泣いています」
風向きが変わり、雪に混じって、歪な臭気がテラスまで届き始める。
それは獣特有の臭気ながら、冷たく濁った違和感を孕んでいた。
ベルローズはカップを置き、静かに立ち上がる。
漆黒の角は、主の予感に応えるように、妖しい光を放ち始めていた。
「……来るわね」
彼女の呟きが、白銀の静寂を切り裂く。
森の奥から、地鳴りのような咆哮が響き渡った。




