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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第9章:言葉なき調べ、熱を帯びる日々

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第64話:雪に眠る庭

 ドラクロワ城は、あらゆる音が吸い込まれていくかのような静寂に包まれていた。

 広大な庭園は、夜通し降り続いた雪によって、一切の境界線を失っている。

 低木も石畳もすべてが等しく、厚い真綿のような白に埋もれてしまった。

 ただ空だけが、雪を吐き出し続ける重い鉛色(なまりいろ)を湛えている。


「ルシアン。雪が降って嬉しいだろ? 庭を駆けまわってこないのかい?」


 中庭の隅で雪かき用のスコップを杖代わりにし、ピピが声を上げた。

 城の記憶にある正しい冬の装いを、忠実に再現している彼は、厚手のウールコートを纏って熱心に雪かきをしていた。

 だが寒さに晒されても、石から生まれたピピの肌は赤みひとつ帯びず、いつものとおりに滑らかだ。

 ルシアンをからかうその瞳には、少年らしい悪戯な光が宿っている。


「するわけねぇだろ。馬鹿なのかあんたは」


 ルシアンは庭に張り出したテラスで、手摺りに肘をついたまま、低く短い声で毒づいた。

 彼は自らの魔力で生成した、毛皮つきの重厚なジャケットを羽織っていた。

 駆けまわりはしないものの、実際この冷気が心地よかった彼は、極寒の中でも胸元を寛げ、シャツを着崩している。


 そんな恰好で静かに庭園の奥を見据える姿には、どこかちぐはぐな印象を受ける。

 だがルシアンは基本的に、衣服を生存のために必要な装備だとは思っていない。

 ドラクロワ城に馴染んでからは、人間の姿としての自分を整えるものと判断している、それだけだ。


「冷たいのは嫌いじゃねぇが、無意味に動き回る趣味はねぇよ」


「ちょっと今僕のこと馬鹿って言った!? 聞こえてるんだよ!」


 ピピが足元の雪を素早く丸め、ルシアンの広い肩へ向けて投げつけた。

 雪玉はルシアンの肩口で砕け、濃藍色の髪に白い破片を散らす。

 ルシアンは反射的に体を震わせて雪を払うと、目を細めてピピを見つめた。


「……やりやがったな、ピピ」


「なんだよ。このくらいあっさり避けてみせるかと思ったけどね!」


 ピピの軽口に、ルシアンの眉が微かに跳ねた。

 普通なら不機嫌そうに無視しただろうが、今日の彼は、どことなく浮き足立っているようにも見えた。

 彼は無言のまま、長い指先で足元の雪を掬い上げると、ほとんど予備動作なしに腕を振った。


「うわ! あぶな――!」


 ピピが慌てて飛び退く。

 ルシアンが投げ返した雪玉は、ピピの頭上を凄まじい速度で通り過ぎ、背後の木を激しく揺らした。


「はっ。気分がいいぜ。あんたの鈍い動きを見てると、特にな」


 ルシアンの唇の端が、僅かに吊り上がる。

 感情を爆発させることはないが、その瞳には野性的な愉悦が滲んでいた。

 その姿にピピがまた雪玉を投げ返し、二人はじゃれるようにして雪にまみれていく。

 二人のやり取りは、傍目(はため)には喧嘩のように見えても、その実、この静まり返った城の中に確かな生の色を灯していた。


 その様子を、一段高い回廊のテラスから、ベルローズが静かに見下ろしていた。

 彼女はドレスの上から、毛皮を贅沢にあしらった重厚な防寒着を纏っている。

 夕暮れと夜の狭間のような深紫の裏地が、雪の白さに鮮やかに映えていた。

 その手元には、温かい紅茶が静かに湯気を立ち昇らせている。


「ベルローズ様……。世界が、眠ってしまいましたね」


 隣に立つアマンダが、感情の起伏の少ない、穏やかな声で呟いた。

 琥珀色の瞳は、雪に埋もれた庭園をじっと見つめている。


 植物や菌類と繋がっている彼女にとって、冬は死の季節ではなく、再生を待つための深い沈黙の時間だ。

 彼女も分厚い外套や帽子で防寒しているが、その生命活動は確実に鈍っている。

 小柄な体躯は強張り、言葉の端々には微かな眠気が混じっているようだった。


「……そうね。あなたも、少し呼吸が深くなっているわ。大丈夫? アマンダ」


「はい。土のなかの声が聞こえなくなると、わたしも……、少しだけ、静かになってしまいます」


 アマンダはそう言って、キノコの傘の柄を、杖のようにぎゅっと抱きしめた。

 寒さに震えるというよりは、意識の輪郭が冬の冷気に溶け、希薄になっていくのを必死に繋ぎ止めているような。

 そんな危うさがあった。


「おーい、アマンダ! 君、そんなところに居たら冷えすぎるだろ」


 階下で雪合戦をしていたはずのピピが、いつの間にか回廊を駆け上がり、アマンダの元へ歩み寄っていた。

 彼は自身の魔力で内側からじっくりと熱を込めた『温熱石』の包みを、アマンダの掌にそっと乗せる。


「ほら。これを抱えてなよ。君が完全に寝ちゃったら、起こすのが面倒だからね」


「……あたたかいです。ピピ。これは、あなたの心臓の温度ですか?」


 アマンダは、寒さにとろりと重くなっていた瞼を開くと、ピピに問いかけた。

 石から伝わる一定の熱に、彼女の意識がほんの少し、鮮明さを取り戻す。


「心臓なもんか。ただの石だよ。……いいから、大人しくしてな」


 ピピは照れくさそうに視線を逸らし、またルシアンの方へと向き直った。


 一方ルシアンは、ピピがアマンダを気遣う様子を一瞥(いちべつ)すると、雪を払うこともせず、テラスにいるベルローズの元へと歩を進める。

 そして彼女の手前で足を止めると、促されるまでもなく彼女の足元、長椅子のそばに、音もなくしゃがみ込んだ。


「雪、止みそうにねぇな」


 ルシアンの低い声が、冷たい大気に溶け込む。

 彼は触れる許可を求める代わりに、ただ彼女の傍へと身を置いた。

 至近距離に腰を下ろし、自身の存在を彼女の空間に馴染ませることで、彼なりの安息を差し出している。


 ベルローズは何も答えず、ただ静かに視線を彼に落とした。

 ルシアンの髪に残った雪の結晶が、光を反射して輝いている。


 不意に、ルシアンの背後から伸びた、太くしなやかな濃藍色の尾が、ベルローズの膝元へと滑り込んできた。

 毛皮の防寒着よりもずっと確かな、生き物としての熱を宿している。

 ふわりと広がる尾が、彼女の冷えた指先を包み込むようにして、そっと置かれた。


「……何をしているの、ルシアン」


「ただの毛皮代わりだ。……文句あんのかよ」


 ルシアンは顔を上げないまま、素っ気なく答えた。

 彼が自分の尾で彼女を温めようとするのは、従者としての義務ではなく、本能が命じる、もっと根源的な献身の形だ。

 そう思うと、膝の上の尾を払うことなど、ベルローズにはできなかった。

 無反応を装いながらも、その柔らかな毛並みから伝わる熱を、静かに受け入れている。


「ルシアンさんのしっぽ……。とても、命が溢れている匂いがします」


 アマンダは温熱石を大切そうに抱え、少し離れた場所から、その光景を琥珀色の瞳で見つめていた。

 彼女は近づくことも、触れることもせず、ただ空気の揺らぎを読み取るように首を傾げた。


「……ベルローズ様。ルシアンさんの呼吸が、柔らかい音を立てています」


「……え?」


「ルシアンさんの耳、さっきから、忙しそうに震えています。ベルローズ様に触れられて、とても安心しているんですね。冬の土が、春の雨を待っている時と同じ匂いがします」


 アマンダの無邪気な、それでいて全てを見透かしたような言葉。

 ルシアンは顔を背け、ベルローズは長い睫毛を伏せた。

 彼女の指摘はあまりに直接的で、隠すべき情愛のヴェールをあっさりと剥ぎ取ってしまう。


 ルシアンは、尾を通じて伝わってくるベルローズの微かな熱に、改めて意識を向けた。

 雪の冷たさに触れるたび、一族たちの冷淡な視線が、脳裏をよぎることがある。

 それでも、もしあのまま霊峰で生きていたら。

 こうして人間の身体で、誰かと雪の中でじゃれ合ったり、誰かを温めたいと思ったことなどあっただろうか。


 互いの本質で支え合う、ピピやアマンダ。

 そして、自分の尾を跳ね除けもせずに受け入れている、この尊大で孤独な女性。


(……悪くねぇな)


 ルシアンは心の中で、短く呟いた。

 かつて霊峰で感じた雪は、逃げ場のない監獄のような冷たさだった。

 飢えと孤独、そして一族という名の呪縛だけが、その白い世界を支配していたのだ。


 だが、今の自分はどうだ。

 ピピと投げ合った雪玉の感触、ベルローズを温めるために尾を差し出すこの行為。


 同じ白銀の世界なのに、そこには確かな温度と、誰かと繋がっているという実感が宿っている。

 一族からの疎外も、その後味わった屈辱も。

 すべてはこの瞬間の静寂に辿り着くための、必要な対価だったとすら思える。

 彼はサファイアブルーの瞳を閉じ、冷たい空気の中に混じる、ベルローズの香りを深く吸い込んだ。


 すべてを白く、静寂へと帰していくように、雪は依然として降り続く。

 だが、その静寂を、ルシアンの耳が鋭く捉えた。


 あれほど庭を舞っていた雪の音が、完全に音を消す。

 風が凪ぎ、庭の木々さえも凍りついたように微動だにしない。

 この場のすべての生が、得体の知れない気配に押し潰され、息を潜めているのだ。


 傍らでアマンダが抱えていた温熱石が、持ち主の警戒に呼応するように、僅かに熱を鈍らせる。

 この場所にあるはずの再生への沈黙とは違う、濁った死の気配。

 空気を震わせるような圧力が、庭園の底から這い上がってきた。


「……ッ」


 ぴくり、とルシアンの耳が、凍りついたように直立する。

 全身の毛が逆立ち、ベルローズの膝を温めていた尾が、瞬時に硬質な緊張を帯びて引き抜かれた。


「ルシアン? ……どうしたというの?」


 ベルローズが不審そうに眉を(ひそ)めるより早く、ルシアンは音もなく立ち上がり、庭園の向こう、白銀の闇に沈む森へと視線を突き立てた。

 サファイアブルーの瞳が、捕食者のそれへと変貌する。


「……臭うな。冷てぇ魔力の臭いだ」


 ルシアンの低い声には、先ほどまでの穏やかさの欠片もなかった。

 アマンダもまた、傘の()をぎゅっと握りしめ、琥珀色の瞳を虚空へ向ける。


「……土が、震えています。眠っている子たちが、何かに踏み潰されて……、泣いています」


 風向きが変わり、雪に混じって、(いびつ)な臭気がテラスまで届き始める。

 それは獣特有の臭気ながら、冷たく濁った違和感を孕んでいた。


 ベルローズはカップを置き、静かに立ち上がる。

 漆黒の角は、主の予感に応えるように、妖しい光を放ち始めていた。


「……来るわね」


 彼女の呟きが、白銀の静寂を切り裂く。

 森の奥から、地鳴りのような咆哮が響き渡った。

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