第57話:消えた森の影
王都の別邸での調整が始まってから。
ベルローズは一度も、禁忌の森近くの屋敷に住まう両親と、直接言葉を交わすことを許されていなかった。
「君が不安定になれば、ご両親の安全が脅かされる。彼らの生活を守れるのは、君の従順さだけだよ」
ヴィクトルはいつも穏やかに囁き、彼女の口を封じてきた。
ベルローズの十九歳という年齢は、もはやその不自然な沈黙を、純粋な保護として処理できるほど幼くはなかった。
それでも彼女が逃げ出さなかったのは、単に無知だったからではない。
彼女の周囲には、王立魔導院が張り巡らせた感知の結界が、見えない蜘蛛の巣のように張り巡らされていたのだ。
一歩でも屋敷の敷地を出れば、即座に魔力拘束具が作動し、彼女を泥人形のように硬直させる。
そして何より、彼女の心には「自分が完璧になれば、すべてが元に戻る」という、ヴィクトルによって植え付けられた偽りの希望が、唯一の生存本能として根を張っていた。
その希望を捨てることは、彼女にとって自己の消滅を意味していたのだ。
冬の終わりの、重く湿った日の午後。
運命の歯車が、音を立てて狂い出した。
ヴィクトルが珍しく席を外した隙をついて、ベルローズは彼の執務机の上に置かれた一束の資料を手に取った。
いつもなら厳重な封印が施されているはずの、ヴィクトルの書類の数々。
その日に限って、資料はまるで彼女を誘い出し、嘲笑うかのように、無造作に置かれていた。
書類の端には、見覚えのある署名があった。
ベルローズの父が書類の最後に必ず書き添えていたその署名の、右端が少し跳ね上がる特徴的な筆跡。
さらに紙面をめくれば、添えられた検体資料から、母が愛用していた、乾燥させた花を混ぜた独特の香油の香りが、かすかに漂ってくるような気がした。
それは紛れもなく、彼女が最後に別れた時の、父と母の生活の匂いだった。
「…………え?」
ベルローズの指先が、冷たく凍りつく。
そこに記されていたのは、彼女が教え込まれてきた高尚な魔導理論などではない。
吐き気を催すほどに生々しく、無機質な実験データ。
王立魔導院の刻印が入った『廃棄記録』であった。
『検体番号402(男性)、403(女性)
共にドラクロワ直系。
高密度魔力抽出における、個体崩壊の限界測定』
添付されていたのは、彼女が愛してやまなかった、父の力強い手と母の柔らかな微笑みを、無理やり剥ぎ取ったかのような惨たらしい観測結果だ。
抽出された魔力の波形グラフが、まるで彼らの断末魔の叫びのように、歪に跳ねている。
ベルローズの思考が、瞬間的に停止する。
脳が、その無慈悲な事実を拒絶した。
(……これは、何かの間違いだわ)
きっとこれは、両親が『森の調査』で回収した、何か別の資料と混ざってしまったのだ。
父と母は、別の場所で研究に協力している。
(……そうよ、ヴィクトルなら説明してくれる。彼なら、これはお父様たちの資料ではないと、証明してくれるはず)
ヴィクトルが嘘をつくはずがない。
だって彼は、私のすべてを理解し、導いてくれる唯一の人なのだから。
「……何を見ているんだい、ベルローズ。好奇心は時として、調整の効率を著しく下げるよ」
背後から、温度のない声が響いた。
ヴィクトルだ。
彼は驚く風でもなく、ただ「いけない子だ」とでも言うような、酷く静かな足取りで彼女に歩み寄る。
「ねぇ、ヴィクトル。……これは、何……? お父様たちは……、森の調査に協力しているんじゃなかったの? 近いうちに、会えるって……、言っていたでしょう……?」
ベルローズは、震える手で資料を彼に突き出した。
指先が資料を破らんばかりに震え、角が鈍い、不吉な熱を持ち始める。
ヴィクトルはそれを一瞥し、溜息をつくように薄く笑った。
その表情には、罪悪感の欠片すら宿っていない。
それどころか、素晴らしい研究成果を報告する学者のような、狂信的な光さえあった。
「嘘は言っていないよ。彼らは多大なる協力をした。……君という『至高の完成体』を作るためにね」
ヴィクトルは、ベルローズが握りしめている資料の端を、指先で愛おしそうになぞった。
その視線は、紙面に残された凄惨な数値の羅列を、美しい絵画でも眺めるように追いかけている。
「ドラクロワの血がどの程度の負荷に耐え、どの段階で個体として崩壊するのか。それを自らの肉体をもって示してくれたんだ。彼らがいなければ、君の角に蓄積された魔力を、これほど安定して出力させることは不可能だっただろう」
「……そん、な…………」
呼吸が止まる。
肺の中の空気が、すべて重たい鉛に変わったような感覚。
彼らが招待された場所は、娘を永久機関へと作り変えるための、ただの予備パーツの解体場に過ぎなかった。
四年間、彼女を支えていた唯一の柱は、すでにヴィクトルの手によって粉々に砕かれ、砂塵となっていたのだ。
「悲しむ必要はない。彼らは君の血の中で、魔力という形で生き続けるんだよ」
ヴィクトルは動揺する彼女の瞳を真正面から見据え、あやすような低い声で続けた。
「それに、家族の死という極限のストレスを与えた際の魔力変動も、今、まさに観測させてもらった。……素晴らしいよ、ベルローズ。これほどの絶望に直面しても、君の魔導回路は暴走せずに、高い熱量を保っている」
ヴィクトルは、崩れ落ちそうになる彼女の肩を、いつものように厚手の白手袋の手で支える。
その手の冷たさが、今は魂を刈り取る死神の鎌のように感じられた。
「あ、あああ……っ……! あああああっ!!」
ベルローズは獣のような咆哮を上げ、彼の腕を力任せに振り払った。
激情に突き動かされ、彼女の角が妖しく赤紫に明滅し始める。
屋敷中の窓硝子が、彼女の魔力の共鳴に耐えきれず、一斉にひび割れた。
だが、ヴィクトルはその破滅的な光景を、恍惚とした表情で見つめていた。
「いい、とてもいい波形だ。やはり君は美しい、ベルローズ」
飛散した硝子の破片が彼の頬をかすめても、ヴィクトルは瞬き一つしなかった。
「親を失った絶望さえ、君の体内ではこれほどまでに純粋な、破壊的な魔力に変換される。……君は、悲しめば悲しむほど、輝きを増す星なんだ」
「……あなたは、人間じゃない。あなたは、あの日からずっと……! 私を食い潰すだけの、悪魔よ……!」
絞り出すような声と共に、ベルローズの瞳が激しい怒りに燃える。
その深紅の光は、彼女の内側から湧き上がる激情に煽られ、不安定に揺らめき始めた。
「言葉の定義など、僕の設計図の前では無意味だ。僕は君を愛しているよ」
ヴィクトルは、暴れる彼女を背後から逃がさぬよう羽交い締めにすると、抵抗するその体温を確かめるようにして続けた。
「君を、この世で最も価値ある『神の火』として完成させることに、僕の人生のすべてを捧げているんだからね。理解できるだろう? これほどの献身が他にあるかい?」
耳元で囁かれるその声は、毒のように甘く、そして完膚なきまでに彼女の正気を削り取っていく。
彼女の力は、皮肉にも彼が長年施してきた調整のせいで、彼自身を傷つけることさえできないほど統制されていた。
「安心するといい。もう君には、煩わしい家族も、故郷への未練も、自分を定義する過去も必要ない」
ヴィクトルは、彼女の首筋に冷たい唇を寄せ、最後の一撃を打ち込んだ。
「三日後、『接続の儀式』を行おう。君という装置を、永遠という名の鎖で僕の側に固定してあげよう。……そうすれば、君はもう何も考えなくていい。僕の腕の中で、ただ光り続けていればいいんだ」
ベルローズの視界が、涙で白む。
彼女は、ヴィクトルが作り上げた愛という名の繭の中で、すでに手足をもがれ、内側から溶かされていたのだ。
家族さえも部品として消費された事実を知った彼女の心から、かつてあった瑞々しい色彩が、音を立てて剥がれ落ちていった。
王都の雨は、彼女の絶望を嘲笑うように、冷たく降り続く。
かつて森で父と笑った声も、母が歌ってくれた子守唄も。
その雨音の中に、すべてが呑み込まれ、消えていった。
その奥底で、たった一つだけ残ったものがある。
それはもう二度と、この男の言葉を信じないという、黒く冷えた決意だった。




