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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第8章:断絶の揺り籠

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第56話:白手袋の愛

 冬の低い陽光が、王都の屋敷の窓から鋭い角度で差し込んでいる。


 ベルローズは窓際の机で、詰め込まれ続ける書物の影に隠すようにして、一本の針を動かしていた。

 色褪せた紫の糸が、白い布地の上に小さな花を咲かせていく。


 故郷の森で、母が教えてくれた刺繍(ししゅう)

 針を刺すたびに指先に伝わる微かな抵抗と、糸が布を抜ける柔らかな音。

 それだけが、彼女にドラクロワの娘としての体温を思い出させてくれる。


 その時、廊下から聞き慣れた、硬質な革靴の音が響いてきた。

 続いて、規則正しいノックの音。

 まだ扉は開いていないが、その音を耳にした瞬間、ベルローズの身体は反射的に動いた。


(……来る。調整の時間だ)


 彼女はまるで、糸に操られた人形のように滑らかな動作で立ち上がった。

 刺繍を施した布を抽斗(ひきだし)の奥深くへと押し込み、乱れた息を整える。


 ドレスの裾の皺を払い、ヴェールの位置を鏡なしで正確に直す。

 ヴィクトルに修正を命じられる前に、あらかじめ自分の感情と身体を、彼が求める完璧な素材の状態へと整えておく。

 それが、幾度もの検査を経験した彼女が身につけた、最も効率的な自己防衛だった。


 扉が開き、ヴィクトルの温度を欠いた瞳が、部屋の中を巡った。

 完璧に整えられた彼女の姿勢に、満足げに細められた彼の碧眼(へきがん)

 言葉はなくとも伝わる。

「――そうだ、それが正解だよ」と。



「ベルローズ、時間だ。こちらへ」


 微かな笑みさえも、過剰な装飾として削ぎ落としたベルローズは、静かに頷いた。

 彼女の肉体は、ヴィクトルが設計した白銀のドレスによって、美しく梱包(パッケージ)されている。


 ヴィクトルに促され、ベルローズは屋敷に直結された『個体調整室』へと足を踏み入れた。

 重厚な気密扉が閉まった瞬間、そこは別世界となる。


 すべてが清潔な白で統一された窓のない室内には、鼻を突く消毒液の匂いが、冷たく滞留する。

 壁に巡らされた真鍮(しんちゅう)のパイプからは、魔力を安定させるための冷却ガスが、まるで蛇の呼吸のような音を立てて漏れ出していた。


「……今日は素晴らしいね、ベルローズ。姿勢、呼吸、瞳の揺らぎ……。すべてが基準値に収まっている」


 ヴィクトルは賞賛の仮面を被った、冷徹な評価を口にする。

 ベルローズはその一言だけで、心臓の奥底で安堵に似た熱を覚える自分に気づき、静かに戦慄した。

 彼に評価されることに、喜びを感じている。


 ヴィクトルは白手袋の手でベルローズの腕を誘導し、冷たい金属の検査台へと横たわらせた。

 白銀のドレスが、硬質な台の上でかさりと無機質な音を立てる。


 剥き出しの肌が金属の冷たさに触れるたび、ベルローズの身体は不快感に強張(こわば)った。

 ここで震えれば、それすらノイズと見なされる。


 ――完璧な検体であれ。

 そう己に言い聞かせ、彼女は自ら進んで袖を(まく)り上げ、無防備な腕を彼に差し出した。

 消毒用のアルコールを含ませた脱脂綿が腕を撫でる。

 その刺激ですら、この部屋では暴力的なほど冷徹に感じられた。


 ベルローズがわずかに顔を背け、拒絶を示す。

 しかし、ヴィクトルは迷うことなく、青白い血管を目掛けて針を沈めた。

 透明な管を、彼女の熱い血が吸い上げられていく。


「我慢するんだ。君の血液の変化を記録しなければ、次の調整へ進めないからね」


 ヴィクトルの碧眼には、苦痛に耐える恋人への慈しみはなかった。

 そこにあるのは、新製品の純度を確かめる鑑定士の、熱狂を孕んだ観察眼だけだ。

 ベルローズは奥歯を噛み締め、天井の冷たい魔導灯を見つめた。


 不快で、怖くて、今すぐに逃げ出したい。

 けれど、彼がこうして自分の不純を指摘し、削ぎ落としてくれなければ――。

 自分はただの醜い魔女として、ここで腐り落ちてしまうのではないか。

 そんな(いびつ)な依存心だけが、彼女の足を繋ぎ止めていた。


「脈拍が速いようだね。不合理な恐怖心だ、ベルローズ。魔導を究める者が、生理現象に支配されてどうするんだい?」


「……わかっているわ。ごめんなさい」


 ヴィクトルは彼女の指先を掴み、白手袋越しにその感触を確かめる。

 刺繍をしていた指先の僅かな硬化を見逃さず、彼はそれを汚れであると断じた。


「次に進もう。角の共鳴測定だ」


 ヴィクトルは、ベルローズの額に冠された漆黒の角へと手を伸ばした。

 最も敏感で、魔力の奔流が直接触れる彼女の聖域。


 ベルローズは、彼がその指先で、この疼くような熱を鎮めてくれることを信じて目を閉じる。

 心のどこかで、どれだけ否定しても消えない場所で。

 どうしても、期待することをやめられない。


 だが、伝わってきたのは、厚手の白手袋越しの、乾いた拒絶だった。

 ヴィクトルは、角の根元に聖銀製の重々しい測定端子をいくつも取り付けていく。

 その間、彼は一度たりとも、素手で彼女の角に触れることはなかった。


「……っ、ヴィクトル。……熱いの。あなたが、あなたの手で触れてくれれば……。私はもっと、落ち着ける気がするの」


「ベルローズ。この角は、君という回路の中で唯一制御しきれていない『野蛮な不純物』だ。君の純度に、僕の体温という雑音を混ぜるわけにはいかないんだよ」


「雑音……?」


「そうだ。君は神の火を宿す器だ。器は、常に清浄でなければならない」


 ヴィクトルは、白手袋で隠された掌を彼女の角に押し当て、その熱量を計測器へと転送する。


 金具が角の表面をきりきりと削るような感覚が脳髄を揺らす。

 彼にとって、ベルローズの訴えは不具合報告に過ぎない。

 彼女が求めているのは愛情ではなく、出力の安定であると彼は勝手に定義し、完結させていた。

 そしてベルローズ自身もまた、その定義を正解として受け入れ始めていた。


「……くっ、あ……」


 白手袋越しの接触は、抱擁ではなく、ただの絶縁作業だ。

 消毒液の匂いが肺を()き、機械が刻む電子音が、彼女の鼓動を無慈悲に数字へと解体していく。

 ベルローズは白銀のドレスの中で、自分が少しずつ冷たい何かへと作り替えられていく恐怖を、ただ静かに飲み込むしかなかった。


「……よし。角の周波数も安定した。素晴らしいよ、ベルローズ。君は今日も、完璧に僕の設計図をなぞっている。僕が正しく修正してあげさえすれば、君はどこまでも美しくなれるんだ」


 ヴィクトルは満足げに装置を外すと、白手袋をゆっくりと締め直した。

 そこには愛による充足感などは欠片もなく、ただ、検品合格を宣言する、無機質な美しさだけが残されていた。


 ベルローズは、その冷酷な言葉にさえ救いを感じてしまう自分に絶望しながら、寝台から降りる。

 ヴィクトルに『合格』と認められたい。

 そんな歪んだ渇望が、彼女の心の奥深くに息づいていた。


「……さあ、執務室に戻ろうか。君にはまだ、読み解くべき理論が残っている」


 重いヴェールで再び角を覆い隠され、ベルローズは従順にヴィクトルの背中を追う。

 それでも彼女の心は、抽斗の奥に隠した、未完成の小さな刺繍の花だけを、闇の中で必死に手繰り寄せていた。

 今はそれだけが、この冷たい白銀の世界で、彼女を人間に繋ぎ止める唯一の(くさび)だった。

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