第56話:白手袋の愛
冬の低い陽光が、王都の屋敷の窓から鋭い角度で差し込んでいる。
ベルローズは窓際の机で、詰め込まれ続ける書物の影に隠すようにして、一本の針を動かしていた。
色褪せた紫の糸が、白い布地の上に小さな花を咲かせていく。
故郷の森で、母が教えてくれた刺繍。
針を刺すたびに指先に伝わる微かな抵抗と、糸が布を抜ける柔らかな音。
それだけが、彼女にドラクロワの娘としての体温を思い出させてくれる。
その時、廊下から聞き慣れた、硬質な革靴の音が響いてきた。
続いて、規則正しいノックの音。
まだ扉は開いていないが、その音を耳にした瞬間、ベルローズの身体は反射的に動いた。
(……来る。調整の時間だ)
彼女はまるで、糸に操られた人形のように滑らかな動作で立ち上がった。
刺繍を施した布を抽斗の奥深くへと押し込み、乱れた息を整える。
ドレスの裾の皺を払い、ヴェールの位置を鏡なしで正確に直す。
ヴィクトルに修正を命じられる前に、あらかじめ自分の感情と身体を、彼が求める完璧な素材の状態へと整えておく。
それが、幾度もの検査を経験した彼女が身につけた、最も効率的な自己防衛だった。
扉が開き、ヴィクトルの温度を欠いた瞳が、部屋の中を巡った。
完璧に整えられた彼女の姿勢に、満足げに細められた彼の碧眼。
言葉はなくとも伝わる。
「――そうだ、それが正解だよ」と。
「ベルローズ、時間だ。こちらへ」
微かな笑みさえも、過剰な装飾として削ぎ落としたベルローズは、静かに頷いた。
彼女の肉体は、ヴィクトルが設計した白銀のドレスによって、美しく梱包されている。
ヴィクトルに促され、ベルローズは屋敷に直結された『個体調整室』へと足を踏み入れた。
重厚な気密扉が閉まった瞬間、そこは別世界となる。
すべてが清潔な白で統一された窓のない室内には、鼻を突く消毒液の匂いが、冷たく滞留する。
壁に巡らされた真鍮のパイプからは、魔力を安定させるための冷却ガスが、まるで蛇の呼吸のような音を立てて漏れ出していた。
「……今日は素晴らしいね、ベルローズ。姿勢、呼吸、瞳の揺らぎ……。すべてが基準値に収まっている」
ヴィクトルは賞賛の仮面を被った、冷徹な評価を口にする。
ベルローズはその一言だけで、心臓の奥底で安堵に似た熱を覚える自分に気づき、静かに戦慄した。
彼に評価されることに、喜びを感じている。
ヴィクトルは白手袋の手でベルローズの腕を誘導し、冷たい金属の検査台へと横たわらせた。
白銀のドレスが、硬質な台の上でかさりと無機質な音を立てる。
剥き出しの肌が金属の冷たさに触れるたび、ベルローズの身体は不快感に強張った。
ここで震えれば、それすらノイズと見なされる。
――完璧な検体であれ。
そう己に言い聞かせ、彼女は自ら進んで袖を捲り上げ、無防備な腕を彼に差し出した。
消毒用のアルコールを含ませた脱脂綿が腕を撫でる。
その刺激ですら、この部屋では暴力的なほど冷徹に感じられた。
ベルローズがわずかに顔を背け、拒絶を示す。
しかし、ヴィクトルは迷うことなく、青白い血管を目掛けて針を沈めた。
透明な管を、彼女の熱い血が吸い上げられていく。
「我慢するんだ。君の血液の変化を記録しなければ、次の調整へ進めないからね」
ヴィクトルの碧眼には、苦痛に耐える恋人への慈しみはなかった。
そこにあるのは、新製品の純度を確かめる鑑定士の、熱狂を孕んだ観察眼だけだ。
ベルローズは奥歯を噛み締め、天井の冷たい魔導灯を見つめた。
不快で、怖くて、今すぐに逃げ出したい。
けれど、彼がこうして自分の不純を指摘し、削ぎ落としてくれなければ――。
自分はただの醜い魔女として、ここで腐り落ちてしまうのではないか。
そんな歪な依存心だけが、彼女の足を繋ぎ止めていた。
「脈拍が速いようだね。不合理な恐怖心だ、ベルローズ。魔導を究める者が、生理現象に支配されてどうするんだい?」
「……わかっているわ。ごめんなさい」
ヴィクトルは彼女の指先を掴み、白手袋越しにその感触を確かめる。
刺繍をしていた指先の僅かな硬化を見逃さず、彼はそれを汚れであると断じた。
「次に進もう。角の共鳴測定だ」
ヴィクトルは、ベルローズの額に冠された漆黒の角へと手を伸ばした。
最も敏感で、魔力の奔流が直接触れる彼女の聖域。
ベルローズは、彼がその指先で、この疼くような熱を鎮めてくれることを信じて目を閉じる。
心のどこかで、どれだけ否定しても消えない場所で。
どうしても、期待することをやめられない。
だが、伝わってきたのは、厚手の白手袋越しの、乾いた拒絶だった。
ヴィクトルは、角の根元に聖銀製の重々しい測定端子をいくつも取り付けていく。
その間、彼は一度たりとも、素手で彼女の角に触れることはなかった。
「……っ、ヴィクトル。……熱いの。あなたが、あなたの手で触れてくれれば……。私はもっと、落ち着ける気がするの」
「ベルローズ。この角は、君という回路の中で唯一制御しきれていない『野蛮な不純物』だ。君の純度に、僕の体温という雑音を混ぜるわけにはいかないんだよ」
「雑音……?」
「そうだ。君は神の火を宿す器だ。器は、常に清浄でなければならない」
ヴィクトルは、白手袋で隠された掌を彼女の角に押し当て、その熱量を計測器へと転送する。
金具が角の表面をきりきりと削るような感覚が脳髄を揺らす。
彼にとって、ベルローズの訴えは不具合報告に過ぎない。
彼女が求めているのは愛情ではなく、出力の安定であると彼は勝手に定義し、完結させていた。
そしてベルローズ自身もまた、その定義を正解として受け入れ始めていた。
「……くっ、あ……」
白手袋越しの接触は、抱擁ではなく、ただの絶縁作業だ。
消毒液の匂いが肺を灼き、機械が刻む電子音が、彼女の鼓動を無慈悲に数字へと解体していく。
ベルローズは白銀のドレスの中で、自分が少しずつ冷たい何かへと作り替えられていく恐怖を、ただ静かに飲み込むしかなかった。
「……よし。角の周波数も安定した。素晴らしいよ、ベルローズ。君は今日も、完璧に僕の設計図をなぞっている。僕が正しく修正してあげさえすれば、君はどこまでも美しくなれるんだ」
ヴィクトルは満足げに装置を外すと、白手袋をゆっくりと締め直した。
そこには愛による充足感などは欠片もなく、ただ、検品合格を宣言する、無機質な美しさだけが残されていた。
ベルローズは、その冷酷な言葉にさえ救いを感じてしまう自分に絶望しながら、寝台から降りる。
ヴィクトルに『合格』と認められたい。
そんな歪んだ渇望が、彼女の心の奥深くに息づいていた。
「……さあ、執務室に戻ろうか。君にはまだ、読み解くべき理論が残っている」
重いヴェールで再び角を覆い隠され、ベルローズは従順にヴィクトルの背中を追う。
それでも彼女の心は、抽斗の奥に隠した、未完成の小さな刺繍の花だけを、闇の中で必死に手繰り寄せていた。
今はそれだけが、この冷たい白銀の世界で、彼女を人間に繋ぎ止める唯一の楔だった。




